女の世紀を旅する
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2004年09月21日(火) 人間存在の哀愁が光る女優: 岸田今日子


哀愁の存在が光る女優,岸田今日子





 その妖艶さが,強烈な存在感を放つ女優を私は知らない。

 世俗を超越した達観した深い落ち着き,あの熱い眼差しとハスキーな声,妖気を漂わした独特の雰囲気,そして何よりも人間存在の哀愁をおびた淡々とした演技に,私はいつも驚き,そして魅了される。

 日本の女優の中で,彼女ほど感覚よりも精神そのもので演技をする人物は見たことがない。精神とは存在感であり,力である。その精神は悲哀の中で育まれたのだろうが,それを飄々とした衒いのない自然体で演じてみせてくれる。

彼女は演じているのではない,本来の生きざまその精神が個性として表現されているのである。その熱い眼差しと典雅な物腰,そして独特なゆったりとした言い回し。女性は精神(老けた印象を与える)をもつことを嫌うが,彼女は精神そのものなのだ。精神で演技する希有な女優である。


生まれつきの空想と夢想への耽溺,現実感覚の希薄さと超俗志向,そして耽美主義を愛する日常感覚を越えた性向は,実は私の性分に似ており,そのせいか大変親近感を覚える女優なのである。





岸田今日子(きしだきょうこ)

自由学園高校卒。父は文学座の創立者の1人である劇作家の岸田国士氏。立教高等女学校時に長野県に疎開し、1946年(昭和21年)に東京へ帰って自由学園に入学。舞台美術に興味を抱き、卒業と同時に文学座付属演劇研究所入り。1950年に初舞台。60年三島由紀夫演出の「サロメ」で主役に抜擢されて以降、多くの大役、難役をこなす。映画では62年「破戒」などの演技で毎日映画コンクール助演女優賞、64年「砂の女」でブルーリボン助演女優賞を受賞。75年に演劇集団「円」を創立。アニメ「ムーミン」の声優をはじめ、朗読家としても人気。多才で「子供にしてあげたお話 してあげなかったお話」など著書は多い。

 


《 生い立ちと人生の転機 》

 湖が点在する白夜の国の森の奥深く、苔やシダが鬱蒼と繁り、大きな樫の木が豊かに枝を広げている。そこに抱かれるようにしてたつ家の、窓辺の揺り椅子に座って女性が一人で本を読んでいる。暖炉では赤々と火が燃えている−岸田さんにはそんな雰囲気がよく似合う。

 好きなもの――湿った苔の手触り。落ち葉を踏みしめる、踏んだらどこまで行くかわからないあの優しくて不思議でちょっと怖い感触。栗の木が屋根に被さっていて、秋になると屋根に落ちてくるあの音。少し靄がかかるような灰色がかった色。そして、香ばしいパンを焼くにおい。岸田さんの感性は、森の奥深くに息づいている。

 学校は早く出てしまったほうがいいという父の考えで、4月末の生まれなのに3月生まれに。小さい頃から一人でいるのが好きという岸田さんは、「生まれつきぼんやりしているうえに、いきなり大勢の子どもたちの中に放り込まれて、学校は好きになれなかったし、何のために学校へ行っているのかまったくわからなかったんです」と振り返る。

 夜には嫌な夢、怖い夢に追いかけられる。そこでせめて夢の中だけでも楽しくしたいという必死な思いから、幼い岸田さんは、「好きな夢を見る方法」を開発する。  頭の中で、二本の門柱をたてる。起きている時間と眠りに入っていくほんの一瞬の時間を捕まえる。捕まえられたら、想像の中で、門柱の根っこにしゃがんでいる自分と、本当に起き上がって門のところへ入っていく自分が重なる。つまり、本当に眠り込んだときは、自分は門柱のところでしゃがんでいる。あとは、起き上がって、門の向こうへ歩き出せばいい。

大切なのは、その門柱の向こうに、あらかじめ、会いたい人や行きたい場所を思い描いておくことで、あとはそこへ入ってしまえばよい。でも、途中で怖い夢になることもある。すると、これは夢だからと、どこかで覚醒している部分があって、パッと後ろへひっくり返り目を覚まして、もう一度やり直しをする。だから学校では居眠りばかりだった。

 岸田さんは、小学2年生頃まで、「宿題」のやり方がまったくわからなかった。「宿題」というと、黒板に数字が書いてあって、それを皆が写す。でも、岸田さんは、ぼんやりしていて何にもしない。翌日「昨日の宿題を持っていらっしゃい」と、先生が声をかけると、皆はノートを持って並ぶ。でも、「どうしていいのかわからなかったので、仕方なく、何にも書いてないノートを持って並んだんです。

伸びあがってみると、先生は数字に○や×をつけたり、書き足したりしている。とうとう私の番になっちゃって、私が何も書いていないノートを渡したら、先生はとっても大きな○を書いてくださったんです」。何十年経っても、担任だった水野政先生はそのことを忘れずに覚えていてくださったそうだ。

 放任だったというご両親。一度も大きな声で叱られたことはない。ただ小学校の5、6年のとき、友だちの家へ遊びに行って、遊び過ぎて帰宅がとても遅れたことがあった。すると「母がとっても悲しそうにして私を迎えてくれたんですね。どんなに心配していたんだろうと思ったら、私もすごく悲しくなってしまったんです。言葉は覚えていないんですが、そのときの表情がとても記憶に残っています」。その母を中学1年生のときに亡くして以来、甘えることをどこかで切り離してしまったと、述懐する。

 ご自身の子育てについては、娘を甘やかしてはいけないという気持ちが強く、安易に何でも買ってあげるとか、すぐおみやげを持ち帰るという愛情の表現は、絶対にしたくないと思っていた。でも、これを見せてあげたい、買ってあげたいことも勿論ある。そんな時には、「こびとさん」にご登場願った。「またこびとさん、来てくれるかもしれないね!」と、あらかじめどこかに隠しておく。「こびとさん、こびとさん、どこにいるの?」「あっ!こんなところに、こびとさんが、こんなものを隠してあったわ!」。「今思うと、自分がそれをするのではないと、思いたかったのかも知れません」と、微笑む。

 人生の転機は、高校を出て、舞台装置を勉強しようと思って入った研究所で、文学座のオーディションに受かってしまったことだ。それまで賞をもらったり、人からほめられたり選ばれたりということにまったく無縁だった岸田さんには、奇跡のような出来事だったという。本を読むことだけが好きで、将来どうしたらいいのか進むべき道が見出せず、悩んでいた時期のこと。芝居の世界の苦労を知る父親から大反対をされるが、それを「一回だけやってみたい」と、押し切った。稽古が楽しかった。

 出会いが新鮮だった。その芝居が終わったあとに、生まれて初めて、強烈に心から女優になりたいと思った。もし、あの時期にオーディションがなかったら、もし、それに受からなかったら、「岸田今日子」という女優は誕生しなかったのかもしれない。
 何かが魔法の杖を振り、岸田さんは、女優になった。本好きでシャイでちょっぴり孤独だった一人の少女は、大きく羽ばたいて、白夜の国の森や湖から魔法を使って沢山の魅惑的なお話を、私たちに語りかけている。


 《 母の死 》
    
 今日子が12歳の時に他界した母、秋子。日本を代表する劇作家、岸田国士の妻、2人の少女の母、そして一人の女性として、明治・大正・昭和の激動の時代を、懸命に生き抜いた。

知識欲旺盛だった秋子は、文学に魅せられる。東京女子高等師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学付属高校)を卒業後、東京帝国大学文学部英文科に、数少ない女性聴講生として入学を認められる。頭脳明晰なだけでなく、色白でスラリとした秋子。男子学生の間で密かに「マリーローランサン」と呼ばれる、マドンナ的存在だった。

 その後、作家、菊池寛からの一通の手紙をきっかけに、文藝春秋社で女性記者として児童書の翻訳等に携わる。当時としては珍しい、職業婦人だった。

 昭和17年に母は肺結核を発病。周囲に止められても、今日子は離れにあった母の病室で、毎日寝床に寄り添って本をよんだ。

 今日子が中学校に入学するその朝。「行ってきます」と病室を出ようとすると、母は「ちょっと待って」と今日子の頬に優しく頬紅をのせた。小さな頬をほんのりとピンクに染めた瞬間。それは、今日子の初めてのお化粧であり、娘の入学式に出席のかなわぬ母のささやかな優しさだった。

 いつも母の後ろに隠れて、着物の裾を掴んで離さなかった。甘えん坊だった今日子と母との思い出は、北軽井沢の山荘につまっている。
母の面影を探しに、久しぶりに山荘を訪れた今日子に、姉で絵本作家の衿子が、一冊の古いノートを手渡す。

「人間一人、この世に生み出す。」

母になった秋子の喜びが綴られた日記に、今日子は初めて巡り会う。


 「私の中にある芸術のつぼみが大きく開きますように。」
秋子が19歳の時に書いた文章の一説。

 つぼみのままだった母の夢は、今日子の中で育まれ、大輪の花となった。
母の大好きだったハトヤバラは、純白で一重の素朴なバラ。
生家の生垣に咲くはかなげなそのバラに、今日子は母の姿を重ねてみるのであった。



2004年09月11日(土) チェンチェン紛争の惨劇:北オセチアの学校占拠事件


チェチェン紛争の惨劇:北オセチアの学校占拠事件

2004/09/11








21世紀はテロの世紀であり,その背景にあるのは「文明の衝突」としての宗教の対立・紛争である。人類文明の悲劇は宗教の対立に根差しているといっても過言ではない。

現今で起こっている世界の紛争の多くは宗教紛争の性格を帯びている点に注意を払いたい。特にイスラム教が関与している事件が大半を占めている。宗教紛争の憎悪は我々日本人には理解できないほど深く,血の報復は一般的なのだ。パレスチナ紛争の際の,爆弾テロが世界に拡散している。

一昨日もインドネシアのジャカルタでオーストラリア大使館の玄関口に駐車した車が爆破され,多くの死傷者が出たが,これもイスラム過激派「ジェマー・イスラミア(JI)」の仕業(しわざ)で,彼らはその組織の精神的指導者アブバカル・バルシ容疑者の釈放を求めていたという。2002年10月に起きたインドネシア・バリ島の爆弾テロ(クタ地区のディスコ爆破で200人以上の死者,クタ地区はオーストラリア人の観光客が多い)もこのグループの仕業とされる(インドネシアは世界最大のイスラム教の国で,隣国のマレーシアとともに東南アジアの島嶼部の多くははイスラム圏に属していることに留意したい)。




●ベスランの学校占拠と人質たちの恐怖

9月1日,南ロシア(コーカサス北部)の北オセチアのベスランの「第一学校(小中学校)」で新学期式典に武装勢力がトラック2台と乗用車1台で乗り付け,生徒や保護者ら約1200人を人質にして占拠したが,3日に死者335人,負傷者700人以上を出す悲劇的な結末を迎えた。

この殺戮に世界は言葉を失った。幾百人もの子供たちが体育館に仕掛けられた爆弾に吹き飛ばされ,炎に包まれ,崩壊する屋根の下敷きになって死んだ。
「僕たちは殺されないよね」――子供らは信じ,大人たちは神に祈った。3日間も水も食料も与えられず,銃口の下で恐怖に怯えて。

入学式が始まる30分前の午前8時。北オセチア共和国とイングーシ共和国との国境地帯にあるフリカウ村で,迷彩服に身を包んだ武装した一団が地元警察官に会い,いくばくかのルーブルを握らせていた。
「ベスランまで一緒に行ってくれ」
国境からベスラン市までの距離はおよそ60キロ。その間,数箇所の検問所があるが,警察官が同乗していれば,フリーパスだ。
午前9時。校庭で行われる始業式のために,900人あまりの児童,生徒が整列を始め,お祝いの音楽が流れ始めた時,「バーン!」という乾いた銃声がコーカサスの青い空に響いた。

「全員,体育館に入れ!」
警察の小型トラックで乗り付けた32人の武装グループ(うち女性2人)が荷台から飛び降り,カラシニコフ銃を上に向けて撃ちながら叫んだ。
上級生の生徒50人ほどがすばしこく動き回り,裏門から逃げおおせたが,ほとんどの子供は,父兄,教師とともに体育館へと追い立てられていった。

「いったい何が起きたのかわかりませんでした。生徒を整列させていたら,銃声が聞こえて,アッというまに体育館の方に行かされたのです。ほんの2〜3分間の出来事でした。」
こう語るのは,第一学校で物理を担当しているガジノヴァ・リタ教諭だ。彼女は3人の娘とともに人質になった。3歳マジーナ,11歳アリナ,そして14歳のジアナである。
「体育館の扉は閉まっていました。マスクを被った犯人グループの1人が,窓を割って中に入り内側から扉をブチ破ったのです。われわれは銃口を向けられ,体育館に押し込められて,床に座るように命じられました。」

学校占拠を知った地元警察官や銃を手にした子供の父親が現場に駆けつけ,犯人グループと銃撃戦になったが,撃ち合いの結果,父親3人が死亡した。

「犯人たちは,体育館の両端にあるバスケットボール・リングをヒモで結び,爆弾をいくつもぶら下げました。10分後には,体育館全体が爆弾だらけになったのです。」(リタ教諭)
爆弾は床にも置かれ,壁にも貼り付けられたが,その作業を子供たちに手伝わせている。窓際には子供たちを「人間の楯」として立たせた。

「地元紙の女性記者も人質になり,編集長に携帯電話で“校内で銃声が聞こえる。”と報告してきたが,その直後に電話が切れた」(現地ジャーナリスト)
というのも,犯人は,人質に対し携帯電話やカメラの電源を切れと命じ,
「もし,携帯電話が鳴ったら,その周囲にいる20人の人間を殺す」と脅かしたからである。




●20人の男性人質が射殺される

殺す――という言葉は決してブラフではない。犯人たちは実際,男たちを次々に殺していった。
「私は体育館から連れ出されてゆく男の人がどうなっていくのか知っていたわ。彼らは戻ってくることはなかった。犯人に射殺されていたのです。」
と言うのは,リタ教諭の長女ジアナちゃんだ。同じく人質の学校給食のおばさん,アルベゴワ・シマさんはこう証言する。
「犯人たちは強そうな男を選んでいった。その男たちが抵抗するのではないかと恐れていたからなのです。10人以上の男性が射殺されました。犯人はわれわれにこう言いました。”あなたたちの父親と夫を射殺した。希望者は2階に上って確かめてもかまわない。抵抗か脱走を試みようとすれば,同じことになるぞ。」

「死にたくなかったら,静かにしよう!」 こう呼びかけた人質男性までが小銃で頭を撃ち抜かれた。小さな子供たちを含め,人質全体が震えあがたのはいうまでもない。武装グループは,若い女性たちに床の男性の血を洗い流すように命じた。




●ドレスの中で放尿

北オセチア共和国の対策本部は人質の数を初め300人と発表する。犯人グループは,事件を小さく見せようとする当局のやり方に苛立った。しかし,やがて,犯人たちは人質の実際に近い数が報じられれば報じられたで,激昂するのだった。
「マスコミが人質の数を1200人と報じているのを見て,テロリストたちは怒りました。人質が携帯電話で外部と連絡を取ったと思ったのです。テロリストが電話を床に投げつけ,女性の顔を地面に押し付けて,頭に銃身をあてがいました。人質みんなで,“撃つな”と頼んで,やっとテロリストが“次は撃つからな”といいながら,銃をそらしてくれたのです。」(エレナさん)
人質は夜になっても眠ることは出来なかった。立ったままでいるか,重なり合って横になるしかない。耐え切れないで子供たちが泣き叫ぶと,犯人は天井に向かって銃を撃ち,言い放った。
「少しでも子供が声を出したら,殺すからな」

それでも1日目はましだった。トイレに行くことも,水を飲みに行くこともできたからだ。本当の地獄の始まりは2日目からだった。副校長のエレナ・カタウヌヴァさんは言う。
「体育館の中は人いきれで息苦しくなり,ひどく暑くなってきた。子供たちが服を脱ぎ始めたのも2日目からです。大統領が話し合いを拒否したため,犯人は怒り,“もう誰にも一滴も水を飲ませない”と宣言した」

犯人側の要求はチエチェンからのロシア軍撤退と,6月に隣国イングーシ共和国で起きた共和国庁舎襲撃犯の釈放である。しかし,当局は要求をのむことはなかった。
子供たちは飢え,のどの渇きに苦しむままの状態が続く。
「ある子はトイレの隣の壊れた教室に行き,そこにあった植木鉢の花をむしりとって口に入れました。ある子は花をパンツに入れて持ち帰り,体育館の同級生にあげていました。」とはジアナちゃん。
「でも空腹よりひどかったのは渇きです。子供たちは我慢できず掌に小便をして,それを飲んでいました。」
ほとんどの子供が自分の尿を飲んだ。
「意志の力だけで持ちこたえきた子供たちでしたが,靴におしっこをし,それを飲むようになりました。」とシマさん。
「でも,2.3口飲むと泣き出してしまいます。ほとんどの子供の唇がひび割れていて,おしっこが滲みるのでした。」「女子生徒たちは,着ているドレスの中で放尿し,それを飲んでいました。尿の出なくなった子供たちが,飲ませてくれとせがんでいました。」(若い母親)



●体育館爆発の惨劇の目撃談

3日目の午後1時,突然,爆発が起きた。
「双方は遺体の引き取りに合意して,4人の医師が行くと突然爆発した。これが故意なのか,偶然なのかわきらない。」(ロシア在住のジャーナリスト)
ロシア当局は「偶発的な爆発」で突入が始まったと主張しているが,ロシア各紙は「当初から突入計画はあった」と報道している。問題の爆発が起こる直前,ロシア非常事態省の医師4人が学校に入ろうとした。犯人との合意により,すでに殺害された人質の遺体を搬出するため,と当局側は説明した。「ノーバヤ・ガゼータ」紙によると,「このとき非常事態省隊員の背後から学校に向けて数発の発砲があった。このすぐ後に強い爆発があり,その後に2度目の爆発があった」と報じている。治安部隊によるものなのか,周囲に集まった地元民兵による発砲なのか不明だが,発砲が校内の爆発を誘発したらしい。地元民兵の発砲が引き金となった可能性が高い。

「テロリストと最初に交戦したのは,特殊部隊ではなく,ライフルなどで武装したベスランの住人です。その後から治安部隊や特殊部隊がやってきた。」
というのは,地元新聞社『エクラン・ウラディラフカツァ』の記者だが,「爆発の後に銃声が聞こえて,どさくさにまぎれて数人の男の子が,破れた窓から飛び出していった」
振り返るのは,ジアナちゃんである。
「私と妹は体育館の中で飛び交う弾丸の中で怯えて身を伏せていたのです。続いて上の方で爆発が起きて,天井の一部が落てきました。アチコチから叫び声があがりパニックになりました。何人かの子供が血だらけになって動かなくなっている。アチコチにもぎとられた腕と足があった。見れば,ヒモから下がった爆弾が次々に爆発しながらこっちに近づいてくる。妹の手をつかみ,窓に上がり,外に跳んだ。必死で走ると背中にものすごい熱さを感じた。
学校の門には特殊部隊がいて,安全なところまで連れていってくれて,水を飲ませてくれたのです。」

息子ザウアと一緒だった24歳の若い母親ガディエヴァさんも,閃光と同時に逃げようとした。
「息子は走って逃げたけど私は動けなかった。そばに髪の長い女の人が見えたので,かばおうとして自分の方に引っ張ろうとしたら....上半身の胴体しかなかった。そのまま気を失い,気がついたらベッドの中にいました。」

一方,給食のシマおばさんは爆発の時に,台所にいた。
「犯人の1人が,冷蔵庫に鶏肉がある,何か料理しろといわれたので,台所に行き,レンジに向かいました。その時,爆発音が聞こえたのです。犯人に命じられ,体育館に戻ろうとしたが,中が燃えていて入れない。私は倒れていた血だらけの2人の子供を抱え,食堂に走りました。食堂に着いた瞬間,外から十字砲火を浴びました。子供たちは窓から顔を出して,撃たないでください,私たちは子供です,叫びました。しばらくして,軍服を着た男の人が走ってきて,私たちを外に出してくれたのです。」

焼け落ちた体育館には真っ黒に焼け焦げ,押しつぶされた幾百もの死体が残された。コーカサスの大地が吸った夥しい血。

近年,ロシアで起きている一連の爆弾テロは,ほとんどがチェチェン武装勢力との関連が指摘されている。2002年10月のモスクワ劇場占拠事件の際には,特殊部隊が強行突入し,その際使用した特殊ガスで129人の人質が死亡した。今年8月24日には,モスクワ発のロシア国内便2機が同時テロで空中爆発し,計90人が死んでいる。

チェンチェン紛争でロシア連邦軍により,チェチェン共和国で20万人の死者が出て,そのうち4万人の子供が死んでいる。チェチェンの人々の恨みは深い。イスラム教徒主体のチェンチェンの人々が,キリスト教徒(ロシア正教)主体のロシア連邦共和国から受けてきた差別と迫害の歴史を知っておくことが大切であろう。プーチン大統領の妥協を許さぬ強硬姿勢が続く限り,また近いうちにテロ事件が起こるのは必至である。

今回の事件の黒幕として,チェチェン独立派の過激派バサエフ司令官が関与しているといわれるが,犯人グループにはアラブ人・ウズベク人・チェチェン人がいたという。ロシア当局の発表によると,殺害された犯人のうち10人はアラブの雇われ兵だったという。

憎悪の連鎖をそう簡単に断ち切ることは出来ない。チェンチェン共和国のロシアからの独立が達成されるまで,今後も報復テロは続くだろう。今回の事件は子供たちを殺戮したという点で,21世紀の歴史に残るテロ惨劇の一つである。










カルメンチャキ |MAIL

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