女の世紀を旅する
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2004年03月26日(金) |
訂正 国民年金支給額を有利に受取る年齢:男は68歳,女は70歳からが有利 |
訂正版
《 国民年金の損得: 男と女は何歳の時にもらうのがベストか。》
2004/03/26
J.Coffee氏が年金支給の損得に関する面白い話を掲示板に載せているので,ここに転載しておきたい。統計学でみた場合,男性と女性とでは受け取る年齢によって損得が違ってくるという。以下はその内容であり,知らない と,本当に損することになるから,熟読しておきたい。
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国民年金の納付率は、6割まで下がっている。 そこで社会保険庁は、納付促進に江角マキコさんを起用します。
「将来、泣いてもいいわけ?」 「誤解。国民年金がもらえなくなるかも、って言ったの、誰?」 という彼女の挑発的なポスターは、大変印象に残りました。
「その江角マキコさんが国民年金未納」という事実が露見して、ビックリです。
●国民年金の損得
さて、今日は、国民年金の損得を計算してみましょう。 厳密に解くのは、大変なので、概算を使います。
計算の基礎は、このページ(昭和16年4月2日以降の生まれの人)を使いました。 20歳から60歳までの40年間、国民年金は、かけられます。 現在の保険料は、13,300円です。
最長の40年間かけ続けると、総保険料は
13,300×12×40=6,384,000円 40年間かけた人は、65歳から死亡するまで、毎年797,000円を受け取ります。平均寿命は、男で78.5歳、女で83.5歳とします。
この年齢まで生きると仮定すると、支給年数は男13.5年、女18.5年。 支給総額は、男10,759,500円、女14,744,500円
(男性の場合) 10,759,500円÷6,384,000=1.6854 保険支払いの中心時期は、
(20歳+60歳)÷2=40歳 支給の中心時期は、
(65歳+78.5歳)÷2=約72歳 72-40=32年間 国民年金は、「40歳の時、6,384,000円を一度に貯金し、32年後に元利合計10,759,500円が一括して返ってくる金融商品」に似ています。
複利計算で、この金融商品の金利を求めると
N=(log1.6854)÷32=0.00708435 10のN乗は、1.0164 したがって、男性の場合の金利は、1.64%に過ぎません。保険料を払わない人が出てくるのも理解できます。低いですね。
しかも、国民年金制度は、将来改悪される可能性が高いのです。
(女性の場合) 14744500÷6,384,000=2.309602 支給の中心時期は、
(65歳+83.5歳)÷2=約74歳 74-40=34年 N=(log2.309602)÷34=0.1069227 10のN乗は、1.0249
女性の金利を求めると2.49%に上昇します。
◆私は、国民年金は、「女性有利、男性不利」と読みます。
ある方から次のご指摘にありました。 以上は、国民年金の老齢基礎年金についての計算です。国民年金には、遺族基礎年金と障害基礎年金もあります。現実の金利はこの分を考慮する必要があるでしょう。
http://www.sia.go.jp/outline/nenkin/chishiki/ch05.htm 社会保険庁のホームページに年金のしくみが詳述されている。
●男と女は何歳からもらうのが一番ベストなのか?
国民年金支給額が最大となる開始年齢.男68歳,女70歳
注)当初の計算は、平均寿命(0歳の平均余命)を使用。
平均寿命ではなく、65歳の平均余命で判断するのが正しい。
それゆえ,J‐Coffee氏は下記のように訂正版を出しています。
国民年金(老齢基礎年金)の支給開始は65歳からですが、60歳から減額支給することができる。
減額率=0.5%×繰上げ請求月から65歳になる月の前月までの月数 60歳から支給を受けると減額率は、
0.5%×12×5=30% 支給額は、797,000円×(1-0.3)=557,900です。 支給年数は、5年間長くなります。
また、反対に65歳になっても年金をもらわず、支給年齢を遅らすと一月につき0.7%支給額が増額されます。
最も繰り下げた場合は、70歳で支給額は42%増額されます。
支給額は、797,000円×(1+0.42)=1,131,740です。 しかし、支給年数は、5年減ります。
国民年金は、60歳〜70歳までの間、支給開始時期を選択できるのです。
さて、何歳からもらうのが、最も得か? この問題に目安を与えるのが、本日のメインテーマです。
答えは、次の表です。
●国民年金支給額が最大となる開始年齢
◎ 男性(83歳死亡と仮定)
開始 増減率 支給金額 支給年数 支給総額 60 -0.30 557,900 23 12,831,700 61 -0.24 605,720 22 13,325,840 62 -0.18 653,540 21 13,724,340 63 -0.12 701,360 20 14,027,200 64 -0.06 749,180 19 14,234,420 65 0.000 797,000 18 14,346,000 66 0.084 863,948 17 14,687,116 67 0.168 930,896 16 14,894,336 68 0.252 997,844 15 14,967,660 ★ 69 0.336 1,064,792 14 14,907,088 70 0.420 1,131,740 13 14,712,620
◎ 女性(88歳死亡と仮定)
開始 増減率 支給金額 支給年数 支給総額 60 -0.30 557,900 28 15,621,200 61 -0.24 605,720 27 16,354,440 62 -0.18 653,540 26 16,992,040 63 -0.12 701,360 25 17,534,000 64 -0.06 749,180 24 17,980,320 65 0.000 797,000 23 18,331,000 66 0.084 863,948 22 19,006,856 67 0.168 930,896 21 19,548,816 68 0.252 997,844 20 19,956,880 69 0.336 1,064,792 19 20,231,048 70 0.420 1,131,740 18 20,371,320 ★
男性(83歳で死亡と仮定)の場合、3年繰り下げ68歳から申請するのが有利で,
長生きする女性(88歳で死亡と仮定)の場合、ぎりぎりまで開始を遅らせ、70歳から申請するのが有利となります。
65歳での平均余命は、男性18年、女性23年もあります。
年金を早く受け取るのは、不利なのです。
※当初の計算は、平均寿命(0歳の平均余命)を使用。平均寿命ではなく、65歳の平均余命で判断すべきなので,以上のようになります。
2004年03月25日(木) |
歴史探訪: サンフランシスコ号の遭難と家康の対応 |
歴史探訪: サンフランシスコ号の遭難と徳川家康の対応
遠くて近い国、メキシコとの友好は4百年前の海難事故から始まった。 当時,スペインはアカプルコ貿易を営み,メキシコのアカプルコからフィリピンのマニラまで墨銀(メキシコ銀)を運び,当地で中国商人から陶磁器・絹織物・茶などを買っていた。
以下は伊勢雅臣さんの文章で,17世紀初頭のスペイン船の遭難がもたらした日本とメキシコ(当時はスペイン領。独立したのは1821年)の友好に関しての出来事を記している。(※ 墨とはメキシコを指す)
●千葉県の御宿(おんじゅく)に建てられた「日墨友好記念碑」
30人乗りほどの小さな飛行機からタラップを降りて、暗い 滑走路に立つ。見上げると、満天の星空である。ここはメキシ コ中部の都市アグアスカリエンテス。高地で空気も澄んでいる のだろう、地平線からすぐ上にも星が瞬き、遠くの地上の灯と 見分けがつかないほどである。
日本から遥か遠くまで来たものだと思う。確かにメキシコは 遠い国である。アメリカほど話題になることもない。しかし日 本とメキシコとは400年にもわたる深い縁で結ばれていた。 その象徴が千葉県は房総半島の九十九里浜の中ほどにある御宿 (おんじゅく)にある。
御宿の砂浜は小さな岬に囲まれて弓のような形で伸びている。 この地の出身の詩人加藤まさをが書いた「月の砂漠」という詩 のままに、王子様と王女様が金と銀の鞍を載せたラクダで月下 の砂漠を行く姿が彫像にされて浜の真ん中に置かれている。
北側の岬に7メートルはあろうかという大きな石碑が建って いる。「日墨西友好記念碑」という銘が刻んである。岬の先端 に立つとほとんど視界の4分の3が茫漠たる太平洋の光景であ る。岬の先端は崖となっており、その下は磯である。
建立は昭和3(1928)年というから、もう70年以上前のこと だ。石碑が建立された時に、メキシコ公使が述べた祝辞は、そ の由来を簡潔に示している。
この記念碑に刻まれました日付は1609(慶長14)年9 月30日で、フィリピンから当時ノヴィスパニア(新スペ イン)と呼ばれていたメキシコに向かってスペインの船サ ン・フランシスコ号がこの海岸に漂着した日を示すもので あります。この不幸な事件は航海者としてのスペイン人の 勇気を証明し、日本の土地では驚異の出来事となりました。 当時の文明国においてさえ、「漂流者に対する権利」とい う野蛮なものがあり、かつカトリック宣教師の非常な横暴 の結果として、ヨーロッパに対する日本人の反感と嫌悪の 情が深く、その数年前に土佐の海岸に漂着して、秀吉の命 により積み荷を没収せられ、乗組員の一部が死刑に処せら れた前例があるにもかかわらず、サン・フランシスコ号の 漂着者は、日本官民によって救助厚遇を受け、大多数はフィ リピンに送還せられ、前フィリピン総督ドン・ロドリゴは 家康に謁見を許され、家康は彼に新しい船を提供してノヴィ スパニアへの航海を続けせしめたのです。
●太平洋をわがものとしたスペイン
16世紀後半から17世紀初頭にかけて、太平洋はスペイン 人のものだった。マゼランの世界周航以来、南北アメリカ大陸 の両岸に勢力を拡張し、インカ帝国やアステカ帝国を滅ぼし、 今のメキシコを植民地として、銀などの富を欲しいままにした。
スペイン人はさらに太平洋を横断し、中国との交易の基地と してフィリピンを植民地化した。「フィリピン」の名は当時の ヨーロッパで権勢を誇っていたスペイン王フィリペ2世にちな むものだ。
そして太平洋を挟むメキシコとフィリピンを結ぶ航路が開拓 された。メキシコからフィリピンへは、北赤道海流と呼ばれる 西向きの海流が船を運んでくれる。東向きには一旦北上して、 黒潮に乗ると、日本の犬吠埼のあたりで海流は東に曲がってア メリカ大陸の西岸に到達する、というルートが見つかった。
船も3、4本のマストに巨大な帆を張って、海上を疾走する 千トンクラスの巨大帆船・ガレオン船が開発された。逆風でも 帆走できる技術も使われ出した。
●サン・フランシスコ号の遭難
1609(慶長14)年、フィリピン総督ドン・ロドリゴ・デ・ビ ベロ・イ・ベラスコは、メキシコへの召還命令を受けて、サン ・フランシスコ号、サンタ・アナ号、サン・アントニオ号の3 隻の艦隊を組んで、7月25日に出発した。金銀香料など現在 価値にして200億円もの財宝を積み込んでいた。
サン・フランシスコ号には日本人が一人乗り込んでいた。当 時、日本人も朱印船貿易でシャム(タイ)やルソン(フィリピ ン)に日本人町を作るほど進出していた。マニラには1万5千 人もの日本人が住んでいたという。その一人ケンは、蜂須賀家 の雑兵として関ヶ原の戦いに参加し、敗残兵として堺に逃れて、 そこからルソンに渡った。そこで水夫の仕事をしているうちに、 ロドリゴ配下の航海士に巡り会って、サン・フランシスコ号の 乗組員となったのだった。
しかし出航が通常より1ヶ月も遅れたせいで、5回も台風に 巻き込まれ、たちまち船団はバラバラになり、サン・フランシ スコ号はメイン・マストを切り倒すところまで追い込まれた。 さらにマニラを出てから67日目の9月28日夜、海図上では あるはずもない暗礁に乗り上げてしまった。いまにも沈没しそ うな甲板の上で、ロドリゴらは神に祈りながら夜を明かした。
●「彼らは大いに憐れみ」
夜が明けると300メートルほど先に陸地が見えるではない か。海図では日本の位置が北に2度ほどずれて記入されており、 知らないうちに日本の海岸に乗り上げてしまったのだった。ロ ドリゴは海図の誤りを指摘しつつも、この陸地を授けてくれた のは神の思し召しかも知れぬ、と後に「日本見聞録」に記して いる。
しかし、ロドリゴは警戒を緩めなかった。13年前にサン・ フェリペ号がやはり台風で航行不能になり、土佐に漂着した時 には地元民に助けられながらも、秀吉により積み荷をすべて没 収され、長崎のポルトガル人やマニラ在住の日本人に助けられ て、なんとかマニラに帰る事ができた。この時は、サン・フェ リペ号の水先案内人が世界地図でスペイン王国の版図を示して 威嚇したために、秀吉は彼らを日本占領の尖兵だと考えたので ある。
またロドリゴ自身、2年前にマニラ在住の日本人がスペイン 政府の厳しい統治に対して反乱を起こした時に、彼らを日本に 強制帰国させていた。日本人はこの事をまだ恨んでいるかも知 れない。しかし、その処置を家康に通知すると、家康からは 「日本人の処分に抗議せず」という返書が来た。もしかしたら 家康はロドリゴの処置を寛大なものとして感謝しているのかも しれない、という期待もあった。
ロドリゴたちは木の切れ端などにつかまって、上陸した。土 地の住民が現れて、ケンが話を始めると、ここはユバンダ(岩 和田)という浜だと分かった。今の御宿のそばの浜辺である。 ロドリゴはこう記している。
我々の不幸な経緯を述べると、彼らは大いに憐れみ、女 性たちは非常に同情深いために涙を流した。そして彼らは 進んでその夫らに向かい、キモーネ(着物)と言う綿を入 れた衣服を我々に与えてください、と請うたので、夫らは 我々に多くのキモーノを与え、また食物を惜しみなく提供 してくれた。
この時に、海女たちが駆けつけて海に潜って遭難者を救出し た、あるいは、自分の体温で瀕死の者を温めた、というエピソ ードも伝えられている。ケンが指揮して、人数調べをすると、 乗組員総数376人のうち、溺死者16人、行方不明者43人、 救助された人数は317人だった。
●トノの接吻
やがてオンダキ(大多喜)のトノ(殿様)が家来を引き連れ てやってきた。徳川四天王と呼ばれた本多忠勝の息子・大多喜 藩主・本多忠朝である。重臣会議では「異人は切って捨てるべ し」という強硬意見もあったが、忠朝は厚遇すべしと主張した。
村人達はトノの一行を土下座して迎えたが、ロドリゴはその ような習慣がないので、立ったまま迎えた。するとトノはロド リゴの手を取り、接吻したのだった。ロドリゴはトノが自分の 国の作法を心得ているのに驚いた。
その後、席に着くときにはトノはロドリゴに強いて上席につ かせた。さらに驚いた事に、トノは豪華な着物4着、刀一振り、 牝牛一頭、果物、酒などの進物まで持ってきていた。そして、 現在、駿河の皇帝(家康)の訓令を仰いでいるので、しばらく ユバンダ村で待つように言った。
ロドリゴの一行約300人は村人達の家に分宿して、37日 間もこの村に留まった。
●江戸から駿河へ
その後、ロドリゴはトノの居城まで連れて行かれ、そこで家 康からの朱印状(将軍の公文書)を受け取った。その内容は、 海岸にて打ち上げられた品々は、すべてロドリゴのものとして 良い、家康の居城駿府までの行程の安全と糧食を保証する、と いうものだった。
ロドリゴは家康の寛大さに驚いた。漂着で失ったものは、す べてその地域の支配者のものになる、というのが、当時の世界 の暗黙の了解事項だったので、積み荷はすべて諦めていたから である。
ロドリゴはまず家康の息子・秀忠のいる江戸に向かった。日 本見聞録では、江戸の様子をこう記録している。
町の通りは広く、長く通じ、またまっすぐに延びている。 これはスペインの市街よりも発達しているといってよい。 家は木造で二階建てのものもある。外観はスペインの石造 りのほうが優美だが、内部の美は江戸の家屋のほうが遥か に勝っている。街路も美しく清掃され、誰も踏み入れたこ とがないのでは、と思うほどに清潔である。
ロドリゴは江戸城で秀忠に接見した。秀忠は常に微笑を絶や さず、温かい応対をした。「不幸な体験を経て異国にいるあな たが、なにも不自由を感じないよう手を尽くす」とも言った。 ロドリゴがスルンガ(駿河)の家康の居城に行きたいと述べる と、4日後には往路万端不自由のないように整えられる、と答 えた。
駿河までの5日間の行程で、ロドリゴはどこでも大歓迎を受 けた。駿河は人口12万人の大都会で、町中に入ると、物見高 い群衆が押し寄せて、通行が困難なほどだった。
●「余もこのような臣下を持ちたいものだ」
駿河の城でロドリゴを接見した家康は、直立して深くお辞儀 するロドリゴに対して満面に笑みを浮かべ、着席するよう求め た。「武士は海上の不幸で、気を挫かれてはならない」と慰め、 何でも欲しいものがあれば言ってみよ、と聞いた。ロドリゴは 3つございます、と答えて、
ひとつは、いま日本にいる宣教師の布教活動を自由にし ていただきたい。二つ目は平戸港にオランダ人が入港しよ うとしているが、彼らはわがフェリペ王の敵で、海賊なの で退去をもとめていただけませんか。三つ目にルソンから 日本に入るスペイン船を保護してくださいませんか。
厚かましい要求だったが、家康は逆にいたく感服した。身一 つで異国に打ち上げられた自分のことは一切棚上げにして、祖 国の事だけを思っていたからである。「余もこのような臣下を 持ちたいものだ」と、側近に嘆声をもらしたという。
家康は、宣教師の布教は許し、マニラからの船は優遇すると 答えた。しかし、オランダ船の締め出しについては、スペイン とオランダの間のことであり、余のあずかり知るところではな いと拒絶した。堂々たる外交姿勢である。
さらに家康は、わが国には三浦按針(オランダ船リーフデ号 の航海士だったイギリス人で、同船が豊後に漂着した後、家康 の外交顧問となった)に造らせたガレオン船があるので、それ を使って帰国するがよい、と申し出た。
●家康からメキシコ副王への書
提供されたガレオン船は小型なので、乗組員を三分の一に絞 り、残りの者は長崎からマニラに戻した。ロドリゴはガレオン 船をサン・ブエナ・ベントゥーラ号と改名し、2ヶ月をかけて 太平洋を横断し、メキシコに帰国した。京都の商人・田中勝介 ら22名の日本人も同乗しており、彼らが太平洋を横断した最 初の日本人となった。勝介一行は家康の協定書も携えており、 その中には、お互いの船や商人を厚遇すること、相互に自由貿 易を認めること、宣教師の自由な布教活動を認める、などを約 していた。
メキシコ副王はロドリゴらの報告を受け、翌年、遭難民送還 に対し謝意を表するため、探検家で宣教師のビスカイノを訪日 させた。田中勝介らも、同乗して帰国した。しかし家康の協定 書については、国庫が窮乏中なので、とやんわり拒絶した。
ビスカイノは伊達政宗からスペイン行きを命ぜられた支倉常 長(はせくらつねなが)の船に乗って、メキシコに帰国した。 家康からメキシコ副王にあてた返書を持ち帰ったが、それには キリスト教の布教を禁ずるとあった。オランダ国王から家康宛 に、ポルトガルに日本侵略の意図があるという密告があり、そ れが家康の方針変更をもたらしていたのである。
●日墨の不思議な縁(えにし)
キリスト教宣教師を尖兵とした侵略の疑いから、日本は鎖国 政策をとり、ロドリゴの漂着をきっかけにはじまった日墨友好 の機縁も火が消えてしまったかに見えた。しかし、友好の火種 はその後も長くくすぶり続けていた。
明治21(1888)年11月3日、わが国はメキシコとの通商条 約を結んだ。それまでの米国や英国との条約は不平等なもので あり、その改正には明治後半までかかるのだが、日墨修好通商 条約は、わが国がアジア以外の国と結んだ最初の平等条約であっ た。当時のアメリカの新聞には、日本の主権を認めたメキシコ の態度を賞賛する記事が掲載されたという。のちに不平等条約 の改正に成功する背景には、この日墨関係が好影響を与えてい ると言われる。
さらに本年3月12日、日本とメキシコは自由貿易協定(F TA)締結で合意した。日本のFTA締結はシンガポールに続 いて、2カ国目だが、農業分野も含む本格的な初の本格的FT Aと言ってよい。家康が協定書で希望した日墨の友好と自由貿 易は、280年後の日墨修好通商条約で実現し、400年後の 現代においてさらに発展した。わが国が国際社会に門戸を開く とき、メキシコは常にその良き相手だったのである。不思議な 縁(えにし)と言うべきか。
2004年03月21日(日) |
コバンザメ投資法:次に狙う一部昇格候補銘柄 |
コバンザメ投資法:次に狙う一部昇格候補銘柄 2004/03/21
2月20日に発表された3月一部昇格銘柄のあまりの高騰には驚かされた。トピックス買いでこんなに上がるものなのか,と唖然とさせられた。しかし,こうしたトピックス買い期待の投資方法も来年の規約改正(浮動株比率導入)でメリットが薄くなるから,今年中にコバンザメ投資法をフルに活用して資産をふやしておきたい。
今後に昇格されるだろう候補銘柄を当てるのは至難のワザなれど,ちゃんと当てる名人がいるから,その手法を利用してみることが賢明だ。
証券会社の一部昇格予想銘柄は当り外れが多く,あまり当てにならない。 やはり,J.Coffee氏の銘柄選別法を使って選ぶと当る効率が高くなる。 たとえ,その東証2部会社が一部上場の条件を満たしていても,会社自体に上場の意志が無いこともあるので,会社に上場意志があるかの探りをいれて,銘柄を選別する必要となる。
昨日(3/20),ダイコク電機とミヤチテクノスの一部上場が発表されたが,これらの銘柄は明日22日に急騰するから,もはや手出し無用だ。ストップ高値をつかまされる危険も高いからである。株の楽しさは下がらずに少しずつ上がり続けていく銘柄を持つことにつきる。一発狙いは外れると恐怖のつるべ落としが待っているし,高値づかみの塩づけは精神衛生によくないからである。今年はまだまだコバザメ投資が有効であり,昇格候補銘柄は今年1年は活躍してくれるだろう。昇格ねらい投資は効率が高く,しかも安全である。が,高くなったら,あまり欲張らずに売ることが大事だ。上場発表日に期待した銘柄が落選すると失望売りで大きく下げることになるので,発表日前に売却したい。(9月銘柄なら8月20日が昇格決定発表日)
《私が狙う一部昇格有力銘柄》
先週(3/15),JSP,インボイス,キューソー流通を買ってみた。
★JSP(7942) 会社側,9月昇格の意志表明.1035円で3700株購入.重点銘柄 (3/19 時価1068円)
★ジャパン(7498) 8月昇格期待銘柄。買う前に上がりすぎて,傍観中。 (3/19 時価1410円)
★インボイス(9448)四季報で9月昇格の意志表示.7280円で25株購入 (3/19 時価7690円)
★三井海上開発(6269)6月上場期待銘柄.急騰したため傍観中。 (時価1975円)
※2年後の昇格候補銘柄 キューソー流通システム(9369) 2006年の昇格(5月ないし11月)を意志表示. 1450円で1200株購入. (3/19 時価1491円)
● JSP(7942) 3/15発行の『四季報』から
【決算】3月中配 【設立】1962.1 【上場】1990.2 【特色】シート・ボード等樹脂発泡製品専業大手の一角。車緩衝材で海外展開。三菱ガス化系 【連結事業】食品包材24(1)、産業資材32(10)、自動車資材32(14)、建築資材11(12)、他0(1) 【海外】30 <03・3>
【増 益】自動車資材やデジタル家電用緩衝包装材など堅調。合併分上乗せもあり増収増益。有価証券評価損減る。04年度も引き続き自動車、デジタル家電向けは需要堅調。合併効果も通期寄与。原料価格値上がりの価格転嫁の成否が懸念だが収益続伸か。 【合併効果】製品群そろった建築土木資材への攻勢、新素材開発などシナジー効果追求。中国新工場は1次発泡のため追加投資。
【業績】 売上 営業利益 経常利益 利益 1株益(円)
連03. 4-12 58,275 4,074 3,636 1,760 67.0 連01. 3 59,608 4,189 3,836 1,163 46.7 連02. 3 59,703 3,436 3,298 1,082 43.5 連03. 3 64,155 4,446 3,721 636 25.5 連04. 3予 78,000 5,000 4,500 2,000 74.7 連05. 3予 83,000 5,300 4,800 2,200 82.1
● ジャパン(7498)
【決算】8月中配 【設立】1982.9 【上場】1996.4 【特色】コンビニエンス型ディスカウントストア。関西地盤だが関東も出店。PB商品や開発輸入重視 【単独事業】日用雑貨26、食料品45、スポーツ・レジャー用品13、DIY用品2、家電製品8、チケット4、他2 <03・8>
【増 益】既存店2・2%減計画が天候不順等による季節商品不振で、落ち込み幅拡大。今期10店の出店時期も後ズレぎみで売り上げ微増に減額。ただ、直輸入比率向上や商品管理向上進み粗利率改善、不採算店舗撤収等経費削減で営業増益。連続増配。 【出 店】関西と西東京を積極物色、200坪型と都心部は新開発の80坪型で対応。有利子負債は総資産比25%程 度に抑制。
【業績】 売上 営業利益 経常利益 利益 1株益(円) 資本 03. 9-11 18,065 279 283 167 22.2 99. 8 45,095 1,461 1,446 630 130.5 00. 8 53,515 2,044 2,021 1,017 145.7 01. 8 62,539 1,832 2,044 1,061 140.4 02. 8 77,382 1,438 1,487 752 100.0 03. 8 77,983 2,290 2,325 1,147 147.8 04. 8予 78,300 2,540 2,340 1,290 170.6 05. 8予 80,000 2,650 2,550 1,350 178.5
● インボイス(インボイス)
【決算】3月中配 【設立】1992.12 【上場】2002.2 【特色】企業向け通信料金一括請求サービス最大手。集合住宅向け通信統合サービスも。独立系 【単独事業】情報通信サービス99、他1 <03・3>
【買収効果】料金一括請求と集合住宅向けが拡大。2部上場記念配。04年度は2月に本体が事業買収で、売上高約10億円の上乗せ。同月買収のテレコム子会社化で連結開始。初年度は売上高150億円、営業4億円上乗せ見込 む。配当性向50%に戻す。 【昇 格】04年9月に東証1部昇格を目指す。昇格基準はクリア。9月末現在の株主にストックオプションの権利を付与。
【業績】 売上 営業利益 経常利益 利益 1株益(円) 03. 3 42,140 920 845 468 15,215 04. 3予 50,000 1,300 1,250 720 1,015 05. 3予 65,000 1,800 1,700 900 1,269
●キユーソー流通システム(9369)
きゆーそーりゅうつうしすてむ 【決算】11月中配 【設立】1966.2 【上場】1995.9 【特色】キユーピーの倉庫部門が独立。グループ依存2割切る。食品物流で1位。チルド・冷凍品に強い 【連結事業】倉庫16(2)、運送77(2)、他7(3) <03・11>
【順 調】倉庫事業は新規顧客開拓で02年末稼働の5倉庫が本格寄与。運送業も拡大へ。運送子会社再編に伴う運送効率化、作業効率向上で営業増益。有利子負債も20億円以上削減予定だが、13円配は据え置き方針。 【新中計】06年11月期連結売り上げ1271億円、営業利益42億円、株主資本比率40%は達成圏。同期間中に1部上場志向。昨年11月杭州に駐在員1名派遣、中国深耕へ。
【業績】 売上 営業利益 経常利益 利益 1株益(円) 連01.11 98,529 3,307 3,095 1,213 101.9 連02.11 102,635 3,380 3,208 1,438 121.3 連03.11 118,452 3,571 3,445 1,500 121.5 連04.11予 121,000 3,860 3,630 1,550 128.4 連05.11予 125,000 4,100 3,900 1,700 140.9
2004年03月17日(水) |
韓国の廬武鉉大統領の弾劾が可決された背景 |
《なぜ大統領弾劾案が可決されたのか》
2004.3.17
隣りの韓国では政局が大混乱におちいっている。われわれ日本人には韓国の政局の混沌とした事情がよくわからない。なぜ大統領に対する弾劾案が可決されたのか,その疑問を解明しておきたい。
韓国国会が盧武鉉(ノムヒョン)大統領の弾劾案を可決し、大統領権限停止に追い込んだ。同大統領就任以来の政争が行くべきところまで来た。
背景には、対米協調路線と民族路線の抗争が潜んでいる。憲法裁判所がいかなる裁定を下しても、両派の抗争は今後も続き、その成り行きは、極東における米中の動きと連動して、日本にも大きな影響を与えるとみなければならない。
●引き金になった大統領の与党支援発言
今回の弾劾の引き金になったのは、盧武鉉大統領が2月24日の記者会見で行った次のような発言だった。「ヨルリン・ウリ党(開かれたわが党)が票を獲得することができれば、合法的なことをすべてやりたい」。
ウリ党は議席47の少数ながらも、大統領を支持する事実上唯一の与党。大統領発言の意味は、4月15日の国会選挙で、同党が多数の票を獲得できたら、それを背景に大統領として思う存分、自分の政策を実行したいという意味だと多くの人は単純に受け取った。
しかし、野党ハンナラ党と民主党の幹部は、これを聞いていきり立つ。大統領がウリ党を支援する立場を明確にし、公務員に対して「選挙での中立」を課す選挙法に違反したとみたからだ。両野党は選挙管理委員会に問題を提起。
その結果、選挙管理委員会は3月3日、大統領に対して「選挙で中立を守る義務の遵守」を要請した。委員の1人は、連合ニュースの電話インタビューに答え、この措置は「事実上の警告」と述べた。選挙を前に、守勢だった野党にとって大きな得点だった。
実は、野党はこれまで大統領側の選挙攻勢に対し防戦一方だった。大統領は民主党を足場に当選したが、大統領に就任すると同志とともに脱党。その後、この同志たちがウリ党を結成して野党議員を引き抜き、切り崩しにかかった。
大統領自身も側近の補佐官や閣僚をウリ党に送り込み、背後から協力する。その結果、4月の国会議員選挙では、ウリ党が議席を倍増して一挙に第1党にのし上がることが確実になった。問題の大統領発言は、この状況を背景に行われたもので、議席半減の危機に立つ野党の反発は当然だった。
●大統領の強気が弾劾を招く
しかし、盧武鉉大統領は強気の姿勢を変えない。選挙管理委員会の「中立要請」が出た翌4日、大統領府は声明を発表、「要請をひとまず尊重するが、その判断については納得しがたい」と反論した。大統領府の首席広報官はこれについて「民主主義先進国では、大統領は広範な政治活動を保障され、政治的意思表示を選挙介入として処断するようなことはない」と述べた。
盧武鉉大統領自身も週刊誌のインタビューで「政治家である大統領がだれ彼を支持したと、(第三者が)ケチをつけるのはおかしい」と批判した。米大統領選挙などの例を念頭におき、韓国の選挙法を理不尽とする反論である。
選挙管理委員会がこの大統領府の姿勢に反発、広報官が「憲法機関である選挙管理委員会の決定を大統領府は尊重するべきだ。大統領府が選挙法違反を正当化するなら、選挙管理委員会は先の決定を見直し、一段高い措置を取らざるをえない」という強硬姿勢をみせた。
朝鮮日報をはじめ言論機関もこの段階では、「公務員が選挙で中立を守らなかった場合の弊害」を説き、「大統領は選挙管理委員会の判断に従って中立を守るべきだ」という主張を展開した。
この頃から野党民主党とハンナラ党の内部で「弾劾」の動きが具体化してくる。民主党の趙舜衡代表は4日、「大統領が選挙管理委員会の決定に反発を続けるなら、重大な決心をせざるをえない」と主張、党幹部と弾劾の協議を始めた。
また、ハンナラ党も弾劾推進の具体的な方法の検討を洪思徳党総務に一任する。大統領が強気の姿勢で選挙管理委員会と対立し、言論界も大統領の姿勢を批判したことが野党を弾劾推進に走らせることになった。
●世論は弾劾反対が日を追って増える
だが、世論は弾劾には反対だった。しかも、日を追うに従って反対が増える。3月5日、中央日報が発表した世論調査によれば、弾劾反対は48%、賛成は46%で、その差2%だった。それが、9日の朝鮮日報の世論調査では、弾劾反対53.9%、賛成は27.8%、反対が賛成の倍近くになる。
そして、連合ニュースによれば、国会が弾劾案を可決した12日夜には、75%が反対、賛成は25%になった。世論は、弾劾をめぐる国会の動きを見放したことがわかる。
野党もこの世論の逆風に気付かなかったわけではない。民主党は5日、大統領に対して、「選挙中立違反と腐敗に対して国民に謝罪し、再発防止を誓うよう」を要求、拒否すれば弾劾すると提案した。いわば、大統領に下駄をあずける条件闘争である。しかし、大統領は要求に応じない。そして、11日の記者会見で、謝罪要求を全面的に拒否。その上で「4月15日の国会議員選挙の結果をみて進退を決める」と述べた。大統領の首をかけてウリ党の党勢拡大をはかる魂胆とみられてもしかたのない発言だった。
野党は反発し、弾劾に消極的だった第3党の自民連も弾劾賛成にまわった。そして翌12日、弾劾案は賛成193票を集め、可決された。野党は、世論の逆風を受け、不利なことを知りながら弾劾に走る以外に道がなくなったのだ。その日の夜、連合ニュースが発表した政党支持率は、弾劾に身体をはって抵抗したウリ党が33%で首位に立ち、次が野党ハンナラ党で12%、弾劾にもっとも積極的だった民主党は5%に急落した。
●弾劾反対の底流に民族主義の潮流
弾劾を可決した議場では、与党ウリ党は少数派だったが、議場の外では支持者が確実に増えていた。1年余り前、盧武鉉大統領の誕生を支えた有権者がその中心になっていることも間違いない。
当時、韓国は米軍装甲車が女子中学生2人を轢殺した事件で全土が沸き立ち、反米、反基地のデモが連日起きていた。その底流には、対米従属からの脱皮、南北の融和と統一を重視する民族主義の流れがあった。
盧武鉉大統領は就任後、この期待に応える姿勢を忘れなかった。米軍が北朝鮮攻撃のため韓国内の基地を使うことを認めないと発言。また、ブッシュ政権がイラクに1個師団(約1万人)の韓国軍派兵を求めたのに対し、長期間渋ったあげく、議会にせっつかれて、ようやく3,000人の派兵を決定。しかし、未だに派遣に踏み切らない。
盧武鉉支持者の眼には、今回の弾劾騒動は対米従属の野党が、対米関係の変革を目指す大統領の追放をねらった「議会クーデター」と映っている。
パウエル国務長官は弾劾案可決のあと、韓国の潘基文外交通商相と連絡を取り、「米韓関係に変わりがないことを確認した」と述べた。たしかに短期的には、変化はないかもしれない。しかし、今後に予定される在韓米軍の再編問題などで、この韓国の世論が交渉に影響しないはずがない。
憲法裁判所の最終判断で、盧武鉉大統領の続投が決まっても、あるいは新大統領に代わったとしても、この世論の圧力を無視することはできない。その動きは、次第に存在感を増す中国の動きと連動し、対米関係だけでなく、日本はじめ東アジア全域に影響することになる。
2004年03月07日(日) |
オウム教祖・麻原の死刑判決.なぜ教団を解散できないのか。 |
《オウム教祖麻原の死刑判決,教団を解散できない不思議》
2004/03/07
オウム真理教の教祖・麻原に死刑判決がくだった。しかし,犯罪 を犯し続けたオウム真理教を解散させず,存続させる日本の社会は, たしかに異常である。人権と法治主義の進んだ欧米社会では常識で は考えられない。また,なぜ7年もの長きにわたって,ダラダラと 日本社会を不快にさせるような裁判が長引いたのか,この点にも怒 りを禁じ得ない。北朝鮮による拉致事件を18年間も放置したこと と共通した問題点が,浮き上がってくる。
以下の文章は,オウム裁判に関する伊勢雅臣氏のもので,日本社会 の人権感覚の滑稽さをずばり指摘している。伊勢氏は歪んだ「人権派」 の新聞や弁護士によって、国民の人権は危機に瀕している,とうったえ おり,その見解にまったく賛成である。
●1. 床屋さんの怒り
7年10カ月、弁護士費用4億円の裁判。 「法治国家とはこんなにまだるっこしいものですかね。」と、 私の髪を刈っていた床屋の主人が言った。普段は無口で、ろく に世間話もしない人なのに、いかにも怒りを抑えきれないとい う突然の口調に、私の方が驚かされた。テレビはオウム真理教 の麻原彰晃こと松本智津夫被告の死刑判決のニュースを流し続 けている。
なにしろ地下鉄サリンなど13事件で27人もの人々を死亡 させた大事件の張本人と目される人物の裁判で初公判から7年 10カ月もかかり、弁護士費用だけで4億円以上の国費が投入 されているという。我々の払った税金がそんな所にムダ使いさ れている、そんな金があるなら被害者や遺族を助ける方に使う べきではないか、そういう床屋さんの怒りには、私も同様だっ た。
読売新聞の社説は「弁護団は証人尋問では、重箱の隅をつつ くような枝葉末節の尋問を繰り返し、検察側の五倍の約千時間 をかけて、引き延ばしを図った」と弁護側を批判している。こ ういう牛歩戦術をとって、国から4億円もの巻き上げる凄腕弁 護士が跋扈していては、我々庶民が怒るのも当然である。
●2.「惨劇の教訓は生かされていない」
しかし、麻原一人が死刑になったとしても、オウム事件が国 家につきつけている問題は片づかない。読売社説は「惨劇の教 訓は生かされていない」として、さらに重大な問題を提起して いる。
悲惨なオウム事件の教訓は、現在の社会に十分生かされ ているとは、とても言えない。約千六百五十人の信者の活 動が、十七都道府県、二十六施設の拠点で続いている。住 民とのトラブルも絶えない。
公安調査庁によると、一連の事件で逮捕・起訴され、服 役を終了した信者など約四百人のうち、すでに百人以上が 教団に戻っている。インターネットの出会い系サイトを活 用し、教団の名前を隠しながら、新たな信者の取り込みも 図っている。・・・
こうした教団の存在や活動は結局一九九七年に、破壊活 動防止法に基づいて、教団の解散ができなかったことから 生じている。公安審査委員会は、公安調査庁からの破防法 による教団の解散請求について、一年の審議の末、「将来 の危険は薄い」として棄却した。
信教や集会・結社の自由は憲法上の重要な権利である。 だが、これだけ明白な組織犯罪集団について、一般市民を 守るという社会防衛の視点が、まったく欠けていた。国際 テロが頻発する時代を迎えながら新たな組織的な反社会集 団に対する法の整備は進んでいない。
●3.「なぜ教団が無くならないのか」
朝日新聞も同日の社説で、「オウム事件は過去のことではな い。事件後も教団はつぶれないで残っている。」と述べ、読売 と同様の問題提起をしている。しかし、結びはまるで違う。
教団が社会との共存を求めるのならば、教祖の死刑判決 を機に、教祖や仲間が犯した事件をきちんと総括すべきだ。 なぜ事件は起きたのか。なぜ教団がなくならないのか。私 たちも考え続けなければなるまい。教祖への判決はその一 歩に過ぎない。
と、結んだ。「なぜ教団がなくならないのか」。その答えは読 売が簡潔に答えているように「一九九七年に、破壊活動防止法 に基づいて、教団の解散ができなかった」からである。そして 破壊活動防止法の適用反対の中心となったのが当の朝日新聞が あった。当時の朝日の社説のタイトルだけ並べてみても、その 異様な反対ぶりが窺える。
・破防法論議は上すべりだ 1995.09.28 ・破防法への慎重姿勢は当然だ 1995.10.04 ・破防法の適用は疑問だ 1995.12.15 ・破防法適用の矛盾が見えた 1996.01.19 ・明らかになった破防法の無理 1996.06.29 ・歴史に耐える破防法審理を 1996.07.13 ・強引な破防法適用はやめよ 1996.12.13 ・やはり破防法適用に反対だ 1997.01.09 ・常識に沿った破防法の棄却 1997.02.01
こうした反対勢力のために、大都市で化学兵器を使った無差 別テロを行い、12人の死者と5500人を超す重軽症者を出 した団体ですら解散できないという非常識がまかり通ってしまっ たのである。
●4.「これは国家転覆を狙った戦争なんだ。」
朝日新聞が執拗に破防法適用に反対して、その存続に貢献し たオウムとはどんな団体だったのか、もう一度見てみよう。警 視庁警備局が地下鉄サリン事件の4ヶ月前、94年11月に作成 した「オウム教団に関する基礎捜査報告書」には、こう書かれ ている。
オウム教団は、麻原教祖の(ハルマゲドン、すなわち世 界最終戦争の)予言を的中させるために、首都圏で数百万 人規模の死傷者を出させるテロを実行するしかないところ まで追い詰められている。そして廃墟と化した首都に、オ ウムの理想共同体である独立国家を建設しようとしている。 ・・・
計画は5段階に分かれ、第一段階はサリンを使った無差 別テロ。第二段階は銃器や爆発物を使用した要人テロ。第 三段階は細菌兵器を上水道に混入する無差別テロ。第四段 階はサリンなどの薬剤の空中散布による無差別テロ。そし て、第五段階は核兵器による首都壊滅である。・・・
第一段階は95年3月20日の地下鉄サリン事件、第二段階は 3月30日の国松孝二・警察庁長官狙撃事件として実現した。 警察首脳の一人はこう語る。
我々も最初はバカバカしくて、相手にしたくなかったん だ。でも、いろいろ調べて見ると、オウムは莫大な資金力 を活かし、一つずつ実現している。そうなると、いくら妄 想だろうが、頭がおかしかろうが、放置するわけにはいか ない。実際、地下鉄サリン事件が発生し、危惧していたこ とが現実になった。これはまさしく、無差別テロ、いや国 家転覆を狙った戦争なんだ。
第三段階以降も、オウムが着々と準備を進めていたという数 々の証拠が見つかっている。
●5.ロシアへの進出
92年2月、ロシアのエリツィン大統領の側近で、国家安全保 障会議書記だったオレグ・ロボフが来日し、「ロシア日本大学」 構想への資金援助を求めた。日本政府や財界から断られたロボ フに500万ドルの資金提供を申し出たのが麻原だった。見返 りにロボフはロシアでのオウム布教に最大級の便宜を図ること を約束したという。
麻原は翌3月、信者約3百人を連れて、モスクワを訪問。副 大統領のルツコイらと会見した。9月にはモスクワ支部を作り、 さらにロシア最大のラジオ放送局の放送枠を買い取って、布教 に利用し、瞬く間に3万5千人の信者を獲得している。
旧ソ連の諜報機関KGBのOBらが設立したRFA(ロシア 法務機関職員対応基金)という、実際はテロや非合法の諜報活 動を行う暗黒組織において、オウム関係者45人が94年2月と 4月の2回、射撃や破壊工作の訓練を受けている。
オウム幹部の早川紀代秀は、92年からの3年余に21回もロ シアを訪れ、人材発掘と武器購入に奔走した。実際に大型軍用 ヘリコプター「ミル17」の中古機を購入し、オランダのロッ テルダム港経由で海上輸送により、上九一色村の教団施設に運 び込んだ。第四段階で計画したサリンの空中散布用である。
●6.戦車、戦闘機から、核兵器まで
米国CIAは、95年に100頁に及ぶ「オウム真理教事件報告 書」をまとめ、上院に提出した。日本やロシアなど5カ国での 現地調査を行い、早川がつけていたノートまでも含む詳細な資 料である。危機管理に鋭敏な米政府は、地下鉄サリン事件で、 大都市での化学兵器無差別テロという点と、オウムの反米思想 に、日本政府以上に強い衝撃を受けていた。
早川の接触していたロシアン・マフィアは、旧ソ連崩壊で失 脚したKGBや軍の関係者が加わり、政府中枢と癒着している。 そのマフィアによって、武器や軍事技術を提供する犯罪ビジネ スが罷り通っている。
早川のノートには「戦車T72 中古20〜30万ドル」 「F29(ミグ29戦闘機)新品2千万ドル」などという記述 が見られる。早川は一国の軍隊並みの武器を調達しようとして いた。
米上院調査小委員会顧問のエーデルマンは96年3月の上院 公聴会で、オウムが旧ソ連領内で核兵器を購入しようとしてい た事を明らかにした。早川ノートの94年のメモにも「核兵器 はいくらか?」という記載がある。ハルマゲドン第五段階の 「核兵器による首都壊滅」も絵空事ではなく、現実に準備は進 められていたのである。
CIAの報告書作成に携わった関係者はこう語る。
我々は外交や経済戦略上、日本に拠点と人脈を作りたい と考えていたロシア政府が、資金と人員が豊富なオウム真 理教に目をつけ、自国の国益を満たすように操ろうとした 可能性が高いと見ています。それで、軍部や旧KGBの関 係者を通じ、二束三文の旧式武器を高額で売り付け、武装 化を煽りながら、巧みに反米思想を植え付けたというのが 真相ではないでしょうか。何しろ、オウム信者たちはマイ ンドコントロールされやすいですから、KGBの手にかかっ たら赤子の手を捻るようなものでしょう。
●7.北朝鮮への接近
早川はロシアやウクライナ経由で北朝鮮にも14回以上出入 りしている。CIA報告書はオウムの北朝鮮接近について二つ の可能性を示唆する。第一は北朝鮮が開発している生物・化学 兵器のノウハウを入手するためであり、第二は北朝鮮と組んで 日本の暴力団経由で麻薬の密売を行うためである。
米・国防情報局(DIA)や韓国・国家安全企画部(KCI A)の報告書によれば、北朝鮮には10カ所の化学兵器工場が あり、20種類の毒ガスを生産し、約1千トン、4千万人を殺 害できる量を備蓄している。
オウムは上九一色村の第七サティアンに、巨大なサリン製造 プラントを建設した。その技術はどこから入手したのか? CIAは、早川が北朝鮮を訪れていたのとほぼ同時期に、ロシ アの化学兵器技術者らが北朝鮮に集結していることを掴んでい る。オウムが資金を提供して、ロシアと北朝鮮の専門家が、北 朝鮮でサリン製造プラントを建設し、その技術を早川が日本に 持ち帰ったのではないか、と見ている。CIA関係者は語る。
もし、そうだとすれば、北朝鮮は完成したプラントが手 にはいるし、松本・地下鉄サリン事件も彼らには恰好の検 討材料になった。独裁国家といえども、大量殺戮ガスの効 果を調べる機会は滅多にない。サリンはいったい、どのく らいの量をどのように散布すれば、どれだけの被害が出る か、運搬方法は? 解毒剤は効果があるのか、被害地域を 拡大するにはどうすればいいかなど、多くのデータが収集 できたはずだ。北朝鮮がそのためにオウムの犯罪を支援し たとまでは言えないが、高い関心を抱いていたのは間違い ないだろう。
日本の公安当局も「オウムが、国家転覆を狙うような団体に 変貌した陰に、早川の存在がある」、そして「(早川ら)過激 派の裏側に第三国の諜報機関がいて、日本国内の拠点作りや勢 力拡大のためにオウムを利用しているに過ぎない」という見方 をしている。
●8.民主主義社会を維持するために不可欠な「公憤」
早川は坂本堤弁護士一家殺害事件などの殺人罪により死刑判 決を受け、現在控訴中である。一審の最終弁論で早川は涙を流 しながら、こう述べた。
(4人を殺害してしまったことに対して)いったい、何 ということをしてしまったのか、と居たたまれない思いで す。こうして今なお、私が人間として存在していることに 対し、申し訳なさと恥ずかしい気持ちでいっぱいです。
しかし、早川は肝心のロシアや北朝鮮との関係については何 も話していない。だから、この涙もセリフも心からのものでは ない。もし話そうとしたら、おそらく村井秀夫のように口封じ のために殺されていたろう。村井は地下鉄サリン事件の3週間 後、マスコミにもみくちゃにされる中で、刃渡り21センチの 牛刀で刺殺された。サリンを製造した薬品類の存在を認めたり、 「教団の総資産は一千億円」と口走るなど、口の軽さが殺され た原因と見られている。
結局、早川も麻原も、何物かのあやつり人形に過ぎないので あって、そのあやつり人形に対して朝日新聞は破防法適用によ る解散命令に徹底的に反対し、「教団は真剣に反省せよ」 (1999.05.22社説)などとピントのずれたお説教を垂れている。
朝日新聞の破防法適用反対、そして「人権派」弁護士達によ る裁判引き延ばし戦術によって、オウムを操る闇の勢力につい ては、うやむやにされたままである。朝日や人権派弁護士の意 図はどうあれ、「一般市民を守るという社会防衛の視点が、まっ たく欠けて」いる言行によって、我々国民の安全と人権が脅か されている。
「これはまさしく国家転覆を狙った戦争なんだ」そして「国際 テロが頻発する時代を迎えながら新たな組織的な反社会集団に 対する法の整備は進んでいない。」という状況の中で、我々一 般国民も自らの安全をどう守るか、国家任せにせずに、自ら考 えていかなければならない。そう考えれば、床屋さんの怒りも、 民主主義社会を維持するために不可欠な「公憤」なのである。
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