観能雑感
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2003年06月24日(火) 宝生流勉強会

宝生流勉強会 宝生能楽堂 PM2:00〜

若手の勉強会。無料。観る側にとってはありがたいが、いいのだろうか。
今回はとにかく観たという事実を記録するのみで、詳細はなし。

舞囃子
右近 境野 直見
笛 一噌 幸弘 小鼓 森澤 勇司 大鼓 原岡 一之 太鼓 金春 國和
芦刈 佐野 玄宣
笛 一噌 幸弘 小鼓 森澤 勇司 大鼓 亀井 広忠
融 柏山 聡子
笛 一噌 幸弘 小鼓 森澤 勇司 大鼓 亀井 広忠 太鼓 金春 國和

女性が舞う時は地謡も全員女性。女性が舞うのも女性だけの地謡も初見。男性が行うものとして発展してきた能を同じ条件で女性が行うのは不利。女性だけの地謡は歌舞伎で例えると義太夫でやるべきところを長唄でやっているように思えてしまうという記述を以前読んだ事があるが、納得。当事者の意欲と観客の欲求は別の次元の話である。

仕舞
鵺 水上 優
善知鳥 山内 崇生

舞囃子よりもこの仕舞二番の方が印象に残った。若干格上の人達なのだろうか。

舞囃子
養老 亀井 勇二
笛 一噌 幸弘 小鼓 大倉 源次郎 大鼓 原岡 一之 太鼓 金春 國和
巻絹 小倉 伸二郎
笛 一噌 幸弘 小鼓 森澤 勇司 大鼓 亀井 広忠 太鼓 金春 國和

小倉師は男前であった。後見で見かけていた人の名前と顔が一致する。ちなみにどう男前かというと、昼ドラで苦悩する主人公の良き相談相手だがそのうちに…というような役柄の俳優的男前である。

能 「竹生島」
シテ 高橋 憲正
シテツレ 辰巳 孝弥
ワキ 宝生 欣哉
ワキツレ 大日方 寛 御厨 誠吾
アイ 山本 孝
笛 一噌 幸弘(噌) 小鼓 大倉 源次郎(大) 大鼓 原岡 一之(葛) 太鼓 金春 國和(春)
地頭 野月 聡

琵琶湖周辺の春の情景描写が大変美しい。アイの神職が「岩飛び」を見せるが、つい「イワトビペンギン」を連想してしまう。後ジテの龍神の龍戴がとにかく格好いい。龍載を使用する曲を舞台で観るのは初めてなので嬉しかった。ひたすら見詰めてしまった。西欧と異なり、アジアでは遍く龍は聖獣として尊ばれる。そのせいかどうか分らないが、私は龍が好きである。宝珠を持って登場するのも龍は丸くて光るものが好きという性質を表わしていて微笑ましい。
久し振りに宝生流の謡を聴いたが、この繊細な節使いが自分にとっては大変心地よい。

いろいろな囃子のパターンや舞が楽しめるので、舞囃子を観るのは好きである。毎度の事ながら、宝生能楽堂は音響がいいと実感。暗めで温か味のある照明や、橋掛りの長いところも気に入っている。
幸弘師は全曲出演。素人会よりハードだったのではないだろうか。お疲れさまである。


2003年06月22日(日) 喜多流職分会6月自主公演

喜多流職分会6月自主公演 喜多能楽堂 AM11:45〜

チケット発売日、電話をかけると早口の男性の声で「……クドウです」と応答される。これは間違ったかと詫び、受話器がフックにかかる瞬間「キタノウガクドウ」と言った事に思い当たる。早いのとやや不明瞭なのとで聞き取れなかった。細胞のひとつひとつに至るまで小心なので、しばし時をおいてからかけ直す。今度は受付にいるいつもの女性だった。
チケットが郵送されたのはいいが、なぜか番組が同封されていない。問い合わせてみようかとも思ったが、新たに郵送料を払わせるのも気が引けたので、HP上で確認するに留める。
当日、会場に着いたのは整理券配布開始の約15分前。良い席でなくとも座れればいいと思っており、長時間屋外に立って待つのも考え物だったので、この時間。並んでいるだろうとは予想していたが、列は入り口から階段を越え、能楽堂の敷地内を通り、隣の杉野学園体育館にまで伸びていた。日差しが強く、面倒でも日傘を持ってくれば良かったと少々悔やむ。続々と楽屋入りする玄人を横目に、なんで暑い中出演者よりも早く来て外で立って待たねばならないのだと少々釈然としない気分。
10:30から会場入場順を示す番号札が配布される。134番。ロビーは文字通り寿司詰め状態。舞台を観る前に体力を消耗しつくしてしまうような気がする。
11:00に見所へ入場開始。今回は脇正面で観ようと思ったが、既に目ぼしい所は塞がっていて、中正面の目付柱正面という、競争率の低い場所に落ちつく。列の端で前方の視界が開けており、そう悪くはない。近くに三宅晶子氏の姿が見える。

仕舞
放下僧 内田 成信
杜若キリ 粟谷 浩之
鐘馗 粟谷 充雄

印象に残ったのは成信師。若いが身体がしっかりしてキレがある。地謡はやはり不揃い。

能 「通小町」
シテ 長田 驍
シテツレ 友枝 雄人
ワキ 和泉 昭太郎
笛 藤田 大五郎(噌) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 柿原 崇志(高)
地頭 粟谷 幸雄

シテの長田師は14世喜多六平太師の下で内弟子修行をし、後に津に居を定めてからは東京での舞台は年に一度の定例会ぐらいのようで、こちらでの知名度は高くない。今回初見なので楽しみにしていた。
お調べは小鼓が最後まで調整。床几にかけてからも調べ緒を締めなおしていた。北村師は前に観た舞台でも同様だったので、道具が不調なのだろう。今年の人間国宝に認定。能楽界からはもう一人三川泉師がいるが、こちらが予想通りだったのに比べ意外。
ツレの雄人師、謡の調子が気にかかる。詰まったような声で安定感に欠け、聴いていてどうにも落ち付かない。身体も妙に無骨で女性というより女装した男性のように感じられる。
シテは掛合いを幕内にて行い、ロンギの後、衣を被かず登場。一気に間合いを詰める。衣を被いて徐々に近寄るのは橋掛りが長い舞台でないと映えないと思われ、橋掛りが短めな喜多能楽堂で敢えてそれをしなかったのには納得。気が付いたらすぐ後ろにいたような演出効果があった。小町の袖を捕らえて拍子を踏むその音ひとつひとつに深草少将の苛立ちと焦燥が込められているようで、これほど雄弁な足拍子は聴いた事がない。
長田師、小柄なのだがその身体には隙がなく、外に放出するより高い内圧を保っているかのように見える。そして上手く表現できないのだが、発する気が濃厚なのだ。都内在住の名の知れたシテ方に比べ、この方が年間に勤めるシテの数はかなり少ないと推測される。舞台が多いのは結構な事だが、その分一曲、一曲に懸ける想いというのは本人の意識しない所で稀薄になっているのではないか。先ごろ亡くなった宝生流の松本恵雄師が年間3、4番のシテしか勤めなかったという記述を合わせて思い起こした。
カマエ、ハコビはいかにも下掛りといった風で、重心が低く、足が舞台から離れないように見える程。立廻りの後笠を落し、暗闇の中手探りする所は哀れさが漂う。
残念だったのは後見が笠を渡すタイミングを誤り、常座でシテの進行妨害をしてしまったこと。進もうとするシテに対して後ずさりを繰り返し、口が詫びる形に動いたように見えた。シテを支える後見が集中力を妨げるような真似をするのは頂けなく、舞台上の動きとしても見苦しい。
終曲真際、正先で扇を掲げたとき、盃に月を受けたように見え、詞章上では唐突な感のある少将の成仏が、自然に納得できた。
じっとりと陰湿な少将ではなく、怒りを直接小町にぶつける強い少将像だった。
橋掛りを帰る際、シテとツレの身体の安定感が全く異なるのが露わになる。長田師、ニ場構成の曲でもっとじっくり観たいと思った。本日の能三番の内、最も印象的だったのが一番目。

狂言 「千鳥」(大蔵流)
シテ 大藏 彌太郎
アド 大藏 基誠
小アド 大藏 吉次郎

本曲を観るのは2回目。初めて観た山本家三兄弟が見事だったので、どうしてもそれを基準にしてしまう。狂言の音楽的側面が生きた面白い曲なので、やはり笑ってしまう。過剰な演出がなく、淡々と進行。いろんな家の芸があるから面白いのだと思う。

能 「飛鳥川」
シテ 狩野 了一
シテツレ 佐々木 多門、井上 真也
子方 狩野 祐一
ワキ 宝生 欣哉
笛 中谷 明(森) 小鼓 古賀 裕己(大) 大鼓 安福 光雄(高)
地頭 塩津 哲生

 『能楽ハンドブック』によると喜多流のみの現行曲になっているが、実際は金剛流にもある模様。詞章は国会図書館のサイトからダウンロード。内容は母子再会譚なのだが、この部分の結構が実に曖昧。子供とワキの男との関係は全く語られず、子供が何故親とはぐれたかも不明。狂女物のように母は子を探しに旅に出ることもなく、子連れの男を自分から呼びとめておきながらその存在に気付かず、終曲真際に子供から名乗りを上げる。古今集の「世の中は何か常なる飛鳥川 昨日の淵ぞ今日は瀬になる」という歌を背景に、田植えの様子に主眼が置かれている。
子方とともにワキ登場。長袴にもかかわらず、上体が安定していて本を載せて歩いても落ちないのではないかと思うほど。
シテ、シテツレ登場。皆片脱ぎで手には苗を入れた籠を持つ。ツレは小面、入紅唐織、シテは深井、無紅唐織の着流し。親とはぐれた子供を連れた上京の男が吉野に詣で、帰りに飛鳥川を渡ろうとすると、シテが違うところを渡れと呼びとめる。上記の歌の通り飛鳥川の流れが変わりやすい事と、それを踏まえて時は移ろい易いのだから、時期を逃さず田植えをしようと言い、実際にそれぞれが籠から3本の苗を出し、舞台前方に三角形状に並べる。
クセは舞グセ。ホトトギスは時を知る鳥であることから、縁語的に子供と離れ離れになった事が導き出され、探し廻ったが巡り会えなかった旨簡単に触れられる。詞章からすると子供は女の子のようだが、装束は通常の稚児袴姿。
中ノ舞の後田植えと絡めた名所が挙げられ、最後のロンギで母子再会。詞章を読んだ限りでは唐突な再開が、シテの招き扇とワキが子方をそっと押し出す所作で、再会劇としての格好がつくのは能の様式によるものか。
シテの狩野師、ツレは観た事があるが、シテは今回が初めて。謡も安定、所作も丁寧で柔らかな雰囲気。しっとりとした舞い振り。
舞台に置かれた苗が舞の最中にも倒れなかったのが不思議。さして安定感があるようにも見えなかったのだが。
謡曲中、稲作について触れたものは現行曲中はこれだけではないかと思われる。些事には拘泥せず、のどかな田園風景を楽しめばよいのかもしれない。
 予想どおり疲れが出て半覚醒状態だった部分も。

仕舞 鵜之段 塩津 哲生
松明に見立てた扇を自分の目でじっと見詰めているのが解る。これくらいなら仕舞の範疇なのだろうか。

能 「野守」
シテ 友枝 昭世
ワキ 宝生 閑
アイ 大藏 教義
笛 一噌 庸二(噌) 小鼓 曽和 正博(幸) 大鼓 安福 健雄(高) 太鼓 金春 惣右衛門(春)
地頭 香川 靖嗣
野守の鏡は水でありまた鬼神の持つ鏡でもあるという説話に「はし鷹の野守の鏡得てしかな 思ひ思はずよそながら見ん」という歌を絡めた、単純なようで凝った作り。昭世師が切能を舞うことは稀であろうと思われるので観てみたいと思った。
ワキは葛城山で修行を目的に羽黒山を後にした山伏。春日野に出ていわく有り気な泉を発見、通りかかった老爺に言われを尋ねる。関師、久し振りに観るがやはりいい。謡の調子から山伏という感じを漂わせている。
シテは常座での名ノリグリからしばらくそのままで春日野の謂われを物語る。観世流の詞章を参考に持参したが、この部分はなかった。品良く憂いを帯びた尉振り。微妙な面使いで広い空間を意識させるのはさすが。
途中、昔語りをしていると涙がでるとシオルのだが、これは既に中世において忘れ去られて久しい野守という存在懐かしむ故だろうか。
シテが作り物の中に消えて間語り。決った事をやるのが精一杯という風だが、こういうのは見ていて決して不快ではない。
山伏の祈りに応じて後シテ登場。入紅モギドウに半切、赤頭に小癋見。手には鏡を持つ。塚の作り物と大鼓の間が非常に狭くてどうやって出てくるのだろうと気掛かりだったが、何の苦もなく通り抜けた。鬼神の姿を見た山伏が「恐い…」と告げると「じゃあ帰る」と塚の中に戻ろうとするのが妙に可愛い。解せないのは山伏がこの鬼神を調伏する態であること。明王に祈願し童子を呼び出し数珠を揉む。自分から呼び出しておいて随分な態度である。天界があるのならば地獄もまた必要なはず。決して忌避すべき存在ではないと思うのだが。
舞働きは緩急の付け方が見事で、作り物にぶつかりそうなほどの勢いで突進し、寸前にピタリと止まる。この鏡が天上界の最上層から地獄の有様、罪状や罰のことごとくを映し出す様を見せ、大地を踏み割って地獄に帰って行く。飛び安座をするのだが、全く構えた様子を見せずごく自然に軽々とやって見せた。
昭世師の舞台、いつも身体技能には感嘆するのだが、淡白で、心の奥底に届くような強烈な印象を受けたことがまだない。
地謡は本日3番中一番の出来。

すぐ後の補助席に座った高齢のご夫人の私語が耳についたが敢えて何もせず。どうして演能中に話したいのか理解しがたいが、美術館でひたすら話しまくる人も目にするので、こういう人はどこにでもいるのだなぁと思う。紙をがさがささせるのも、やめて欲しかった。携帯電話の被害もあり。

この能楽堂、鏡板の松は雄渾で、二階席から見ると前にせり出してくるような迫力があって素晴らしいのだが、舞台の照明が良くないのと、どこかで不要な共鳴をした音が耳障りに響くのが残念。演能中、ロビーから子供の騒ぐ声が聞こえてくるのも興ざめ。空調の音が大きいのも気になる。気にしている人は多いのだろうが、すぐに対処できる問題ではないので仕方ないのだろう。


2003年06月03日(火) 銕仙会80周年記念能

銕仙会80周年記念能 宝生能楽堂 PM1:30〜

80周年記念能の第1日目。他の2日も魅力的な内容であるが、この日を選択。さすがに全てに出かけるのは不可能。
観世銕之丞家門下の研究と親睦の場として銕仙会がスタートしたのは大正7年。まずは素人会であったのを今回初めて知った。本来観世流の他の系統に属していた人々をも惹きつけたのは、それだけ魅力的な存在であったためだろ。私はここ何年かの舞台しか観ていないが、もっとも興味を引く演能集団のひとつ。九世銕之丞の下、若手に物足りなさを覚えるものの、それぞれの立場で研鑚している様が覗えるのが大変好ましい。今後も観続けて行きたい。
見所は補助席も出てほぼ満員。中正面後列最も正面席寄りに着席。
どうもこの頃すぐ書く気になれず、数日後の記述。

能 「木曾」願書 
シテ 浅見 真州
シテツレ 木曾 義仲 片山 清司 
木曾郎党 長山 桂三 谷本 健吾 馬野 正基 柴田 稔 野村 昌司 
池田 次郎 清水 寛二
笛 一噌 幸弘(噌) 小鼓 曽和 正博(幸) 大鼓 國川 純(高)
地頭 山本 順之

観世流のみ現行曲。シテは木曾義仲に祐筆として仕えた覺明。越中埴生で平家軍と対峙した義仲は、手勢不足を偽装し奇襲をかけようとする。この地に八幡宮があるの見て、覺明に願書を書かせ奉納するが、その際鳩が飛び立ち、これを吉兆と見た義仲達は酒宴を催す。袖本を読んだだけでは何ゆえこの地で両軍が相対したのか不明で、『平家物語』の該当個所にも目を通してみたが、やはりぴんとこなかった。前後関係を知らなくば当然か。『平家物語』は文庫板を所有しているが、部分的にしか読んだ事がない。やはり一度全巻読み通さねばならいとは思うのだが、実行するに至っていない。
橋掛りを義仲を先頭に総勢8名が歩いてくる姿を見るのは壮観。シテは直垂に袈裟頭巾。長袴なのにもかかわらず、腰がまったくぶれない。一同の内で群を抜いた安定感。同吟の出だしが不揃いで気になったがすぐ修正。
義仲の求めに応じて願書をしたため、読み上げるシテ。『平家物語』によると、覺明は平清盛を批難する文書を記し清盛から追われる。この願書にも平家による支配が世を乱していると書かれている。
目付柱付近で下居し、広げた紙を目で追いつつ願書を読み上げる。実際には何も書かれていないがいかにも読んでいるように見せることが重要。下居だけでも相当つらいと思われるが、袈裟頭巾を被っていると耳が覆われ、普段耳にしている自分の声とは異なった聞こえ方をするのではないだろうか。演者側のそんな悪条件など微塵も感じさせず、長文を朗々と読み上げる。
吉兆を喜び、義仲に所望され舞を舞うシテ。この舞は酒宴の余興と同じに戦勝祈願でもある。颯爽として格調高い男舞。人数が多いので舞台は狭いはずだが、その狭さを全く感じさせない。終わるのが惜しいと思うほど。これまで観た浅見師は女性や貴公子の役ばかりで、直面物を想像する事が難しかったのだが、予想に反して実に格好良かった。長絹の下からは解らなかったが、あの流麗な舞姿はこの腰の安定にあるのだと納得。
舞台そのものには満足したが、気になったのが小鼓の後見。幸信吾師の息子さんであると思われるが、ほとんど居眠りしていたよう。眠っていては勉強にならないのではないかと思うが、これは玄人側の問題で見所側としては云々する気はない。しかし顔をあお向け倒れるのではないかと心配になるほどグラグラ揺れる姿は見苦しいの一言。脇正面側からでは相当目触りだったのではないだろうか。後見が観賞の妨げになるのはいかがなものか。

狂言 「福の神」(和泉流)
シテ 野村 万作
アド 深田 博治
小アド 竹山 悠樹

大晦日に出雲大社に参篭して富貴を願う二人。「福は内」と呼ばわっていると福の神が現れ、至極常識的な生活信条を説き、大笑いをして去って行く。
この頃一般的にめでたいと信じられている風習が民俗学的に考察すると素直に喜べない背景がある事実に気付かされる事が多く、「福の神」とは一体何か?と考えてしまい、曲を楽しむには至らなかった。シテの面は何やら不気味。演者も特筆すべきことなし。祝言性は感じられなかった。

能 「姨捨」
シテ 若松 健司
ワキ 宝生 欣哉 ワキツレ 大日方 寛 御厨 誠吾
アイ 野村 萬斎
笛 松田 弘之(森) 小鼓 大倉 源次郎(大) 大鼓 亀井 忠雄(葛) 太鼓 助川 治(観)
地頭 観世 銕之丞

「三老女」の内の一曲。老人遺棄伝説を下に、月を恋う老女の姿と大勢至菩薩への信仰を重ね合わせる。世阿弥の作風を漂わせ棄老の悲惨さは表出せず、透明感溢れる情景を通して仄見える程度。
若松師の事は詳しく解らない。年齢からして観世雅雪師の代に入門したと思われるが、その経緯も知らない。どちらかと言うと地味な存在だが、今回このような節目の会に老女物を披く機会を与えられたのは異例の事ではなかろうか。
ヒシギの前に、ごく短い前奏のような部分(カカリというのだろうか?不明)があった。それだけで初秋の山中のひんやりした空気を感じた。
ワキは下掛り宝生流のためか、陸奥出身で都に滞在している者になっていた。後のシテとの問答を考えると観世流現行どおり都人の方が相応しいように思う。
幕内からの呼びかけでシテ登場。声量はさしてあるように思えないのだが、言語明瞭。芯のある身体で所作が丁寧。姨捨山に仲秋の名月を眺めに来た旅人に都の人かと確認するところが痛々しい。夜遊の供をするからと正体を明かしつつ中入。
比較的短い前場に続いての間語り。チケット購入時は三役については不明だったが、送られてきた番組を見て愕然。よりによって何故この人選なのか。危惧していたよりは多少ましだったが、妙に力の入った語りは相変らず。悲惨な姨捨伝説をこれでやられると白ける。一人で語る時はまだよく、ワキとの問答になると空間の共有感が足りないのが浮き彫りに。里人なのにもかかわらず、姨捨山にいる感じがしない。例外はあるが、能はそれぞれ立場の異なるものが偶然出会い、そこで何かを共有し、また別れて行く世界であると思う。その一瞬の出会いを大切にできないのであれば、能の舞台に立つ意味があるのだろうか。
間語りでは詞章に表れない姨捨の様子が生々しく語られる。親代わりの女性が年老い、視力を失い、体の自由も利かなくなると、男は妻のいいなりに、老女一人を山中に残して去るのである。盲いた彼女に石を生き仏だと偽って拝んでいる隙にその場から離れるくだりは残酷。人とはどこまでも利己的になれるものなのだ。
一声で後シテ登場。淡朽葉の長絹に白大口。面は姥。ワキとの掛合いがしんみりとした情趣があり、短い同吟は立場を異にする二人の思いが一瞬重なったかのごとくに溶け合った。
老いの身ながらも月に誘われて現れた己が身を恥じつつ昔を懐かしみ、クセで大勢至菩薩を賛美しつつも世の無常を嘆く。昔を偲んでの序ノ舞へ。老女物の中、唯一太鼓入りだが、旅人を慰める夜遊の舞であることを考えると納得。静寂の内にもある種の華やぎが感じられる。途中休息が入り、常座で下居しつつ空を見上げる。盲いた目で月を見上げるその姿は痛々しい。彼女が見たかったものは何だったのだろう。地上を遍く照らす満月か、在りし日の己の姿なのか。
やがて夜が明け、旅人は立ち去り、老女だけが取り残される。彼女は再び捨てられたのだ。その姿も朝の光りとともに見えなくなり、後には姨捨山の風景だけが広がっている。
詞章中に何度も昔を懐かしむ様が登場するが、懐古すべき昔があるというのも残酷に作用するのだと感じた。
若松師のシテを観るのは今回初めてだったが、大曲を隙なく勤め上げたと思う。ワキ、囃子方、地謡とともに、透き通った悲しみの世界を作り上げた。
「老女物は60の声を聞いてから」という不文律が能楽界にはある。近年はそれも大分形骸化してきたようで、今回もシテを除いてそれに該当するのは大鼓方だけである。私としては満足の行く舞台だったが、このような慣習には何らかの意味があるはずであり、考慮する必要もあるのではなかろうか。
シテが幕入りする前に拍手が起こってしまったのは残念。演能中も時折かなり大きな声での私語があった。
笛の後見に川本義男師が付いたが、落ち付きに欠け、周囲を見回し、視線が明らかにシテを追っているのが解るほど。私の席から笛座が良く見えたせいもあるが、これほど嫌でも視界に飛び込んで来る後見は初めて。その場の他の後見と比べてみたが、みな俯き加減に身動きせず座っていた。観賞の妨げになる後見は、本当に勘弁してもらいたい。
まさかここまでは来るまいと思っていたが、やはりいた、狂言だけを見に来た観客。アイの出番が済んで間もなく帰った人と、最前列に座っていてとんでもないタイミングで席を立ち、駆け出すように去って行った人はその類だろう。観賞の目的はそれぞれ異なるのは致し方ないが、能一番観通せないのであれば、能の会には来るべきではない。その上今回は記念の会で、能は老女物の披きである。場をわきまえるという事を、こういう人達は考えるべきである。


こぎつね丸