観能雑感
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第29回 都民能 国立能楽堂 PM1:00〜
熊野(金春流) シテ 本田光洋 ツレ 櫻間眞理 ワキ 殿田謙吉 笛 中谷 明 小鼓 幸 正昭 大鼓 内田輝幸
能以前である。観客のマナーがあまりに悪く、いい舞台に全く集中できなかった。開始時間は予めわかっているはずである。にも関わらず遅れて開場に入ってくる客のなんと多い事か。一人や二人ではない。ここまで酷いのは初めてである。さらに例の如く自分の近くに座っている観客の行儀の悪さ。今回こそはと思っていたが、またまた…である。後列の男性は終始紙をガサガサさせ(食べ物の包み紙も含む)、その隣の女性二人組は演能中でも話しをする。隣の兄ちゃん(オヤジかもしれない。謎)は、貧乏揺すりをし、終始足を組み返る。気になる事この上ない。ああ。なんとかしてくれ。最悪最悪。 ワキは殿田氏、品良く堂々として、バカ殿を厭味なく演じている。良い。ツレの櫻間氏、面をかけているにもかかわらず、声が朗々と響き渡る。下懸りのためか、ツレは橋掛りで文を渡し、熊野が帰郷の訴えをしに行く際すれ違ったまま退場。ちょっと残念。シテの本田氏、いつもそうなのかどうか不明だが、声量不足のような気がする。下懸りなので母からの文はワキとの連吟なのだがワキの声が勝った。地謡、秀逸。金春のベストメンバーなのかもしれない。重厚。若手も頑張っていた。 母のことが気がかりで心休まることのない熊野が非常に憐れである。気乗りのしない花見に行く途中での景色も全て母に結び付けて考える。このあたりの詞章が風景の移り変わりを巧みに描いていて美しい。命ぜられるままに、それでも健気に舞う姿は、心ここにあらずの様子である。 この曲の中之舞は仕舞を始めるとき最初に習う、基本的な舞だそうである。熊野の心境を表して、心持ち早めに舞うのが心得だそうである。己の心情を歌に読み、主人自ら帰郷を許すように運ぶ様は、弱い立場の人間の巧みな処世術を見る気がする。けれども宗盛はその中に熊野の必死の嘆願を見たのであろう。だから心を動かされたのではないか。 気の変わらぬ内に急ぎ東に下る様は、いかに日頃主人の気まぐれに苦労させられているのかを想像させ、悲しい。熊野は母に会うことが出来たのであろうか。
狂言 子盗人 シテ 善竹十郎 アド 善竹大二郎、石原康志
博打で大損し、何もかも失った男が金持ちの家に泥棒に入るが、乳児が寝ているのを見付けてついあやしてしまう話。 善竹十郎氏の一人語りが堪能できた。この人の持つ、柔らかい雰囲気が好きである。泥棒に入るのは始めてなので、勝手が解らず苦労する様がおかしい。そして泥棒するような悪人が子供ずきであるという対比が笑いを誘う元なのであろう。とどのつまり、この男も根っからの悪人ではないということだ。しかし、家人に見つかって切られそうになると、「まず、この子を切れ」と子供を掲げるのには、この人物、やはり善良なだけではないと思わせる。姥が止めに入り、泥棒を逃がすことで子を守り、「災難に遭ったのだから、きっと長生きする」と寿ぐのは、当時の俗習が垣間見え、興味深い。短いが秀逸な曲だった。
鉄輪 (宝生流) シテ 當山興道 ワキ 宝生 閑 ツレ 工藤和哉 アイ 大藏吉次郎 笛 一噌幸弘 小鼓 宮増純三 大鼓 柿原弘和 太鼓 徳田宗久
狂言口開で始まる能。女は相当尋常ではない雰囲気を漂わせているはずなのだが、どうもそういう事に思い至らないほど、見所が落ちつかない。悲しい。シテ、やはり声量不足のような気もする。宝生流だからか。地謡、先週の宝生会の時よりも良いような気がする。若手がこちらはぱっとしない。あんなに肥満していていいのだろうか。その隣の人は妙に小奇麗だったが。 晴明役の宝生閑氏、やはりいい。舞台が引き締まる。祝詞をあげ、宙を睨む様は本当に鬼神が見えているよう。シテが一畳台から降りる時、足元を大分気にしていた。視界が限定されているから仕方がないのかもしれないが、やや気になる。謡の内容にあった所作ではさすがに怖かった。妖気がただよっていた。非常に直裁的な表現が用いられていて、怒りと悲しみがそのまま伝わってくる。 小鼓、J師である。今回は柱に重なったのは大鼓方だったので、全身拝見してしまった。揺れています。震えています。でも熊野の時の小鼓方よりよく鳴っていたのではないかと思う。頑張って頂きたいと思う。悪くはなかった。笛の幸弘氏、鋭く爽やか。彼の音色は冷たい大気のようだと思った。今回○。救われた。 恐ろしい事に演能中に席を立つ観客が数人いた。そしてまだ舞台に人がいるのにもかかわらず返って行く人達がかなりいた。全員が退場するまでのごく僅かの時間さえ惜しいのであろうか。まだ能は続いているのだ。誰もいなくなったときに終了するのである。 悲しいまでにマナーが悪かった。愕然。空席も脇・中正面にはかなりあった。宣伝が下手なのか、東京都。それでもいいのか?それよりなにより、観客にマナーを教える事から始めなければいけないのかもしれない。悲しい。ちっとも心楽しくなかった能。いままでで最悪かもしれない。舞台の内容が良かっただけに、余計に残念である。特に熊野。悔しい。何とかならないものか。
宝生会 月並能 宝生能楽堂 PM1:00〜
翁 シテ 今井泰行 千歳 高橋憲正 面箱 大藏教義 三番三 大藏吉次郎
2002年初観能である。宝生流の例会は初めて、というより、宝生流自体、ほとんど観た事がない。 新年初の例会だけあって、ロビーは晴れ着姿のご婦人(高齢)が多い。サロンである。素人弟子ではない私には遠い世界だ。 初めての中正面席。丁度目付柱が小鼓方と重なる。ま、こんなものであろう。他はなかなか良好。ただ、左隣の3人連(女性2、男性1、やはり高齢)がにぎやか。特に男性は、パンフレットをがさがささせたり、ひっきりなしに座りなおしたりして、ちっとも落ちつかない。さらに口臭が酷い。隣の席に座る人物の観賞態度は自分が快適に観賞できるかに直接係わってくる。あなどれない。どうもこのごろついていない。 見所はかなり騒がしい。例会ならでは。面箱が登場してくると、少し落ちつく。当たり前だが。 翁の今井泰行氏、直面が美しい。登場して来た時に重みがある。圧迫感というのでなく、動かしがたい存在感がある。これがあるのがいい役者だと思う。 上懸の翁は初めて観るので、千歳がシテ方なのも初めて。演者に覇気がない。緊張しているのか、また、狂言方との違いか。どちらにしても、翁の登場の場を作るには至らず。 翁登場。といっても、「翁面」を懸けて、初めて神になる。天と地に祝福を与え、豊穣を約束する。「とうとうたらり」は水の流れる音だと思う。千歳の「鳴るは滝の水」に繋がる。 扇をにこやかな表情の翁面の横に掲げる型、これはまさに世界全体を寿いでいるように見える。そして深深と大地に礼をする。空と水と大地。その間に人は暮らしてきた事を思い出させてくれる。 翁が祝福した大地に三番三が地慣らしをし、種を撒く。豊かな大地に実る作物で生活すること。これも当たり前だが農作業にまったく縁のない生活をしていると、つい忘れ勝ちになる。 三番三、可も泣く不可もなく…か?となりのジジイがひっきりなしに動くので、とにかく気になる。来るな!後の人はさぞ迷惑だったであろう。 忘れていた、大鼓方、柿原崇志のご子息だろうか、とても若く見える。父上は後見していたが、とても心配そうであった。鼓もあまり鳴っていなかったような気がする。一人ひげを蓄えていておどろき。囃子方はいいのだろうか。
鶴亀 シテ 塚田孝太郎 ワキ 森 常好 間 善竹富太郎
謡を習うとまずこの曲から始めるらしい。謡部分が一番短いからだそうだ。 間が中国風の装束で登場、シテは皇帝なので、やはり中国風。 子方の鶴と亀、立派に舞って、控えている時も立派。鶴の子の方がしっかりしていたか? しかし…。問題は皇帝だった。覇気がない。なんだか今にも倒れそう。楽がちっとも楽しそうではない。構えが妙に前かがみ。なぜ?謡もあまり聞き取れず。全体的に音量がない。「内に篭る」というよりも、ただ単に元気がないように思えてならない。これが「謡宝生」なのか?前列の声量が明かに不足しているように思う。
狂言 牛馬 大藏彌太郎、千太郎、基誠 大変申し訳ないが、トイレに行った。休憩時間設定してないと思ったので(実際には最終曲の前に20分あったが、それまで我慢して要られたかどうかは非常に疑問である)。途中から観る。オチ、良く解らず。言語不明瞭なのだ。
胡蝶 シテ 亀井 保雄 ワキ 安田 昇 間 高橋 明
笛方が当日変更になって、一噌仙幸氏だった。大鼓は広忠氏である。今までの鬱憤を晴らしてくれた。乾いた、突き抜けた音色。やや煩いと感じることもあるが、今日はお礼を言いたいくらいだった。 ワキ安田氏、太めだが良い。若そうだが言語明瞭。気持ちがいい。それに対してシテ、やはり元気がない。言語不明瞭。地謡同じく。8人いるとは思えない。これが流儀の主張なのか?しかしなぁ…。太鼓入り中之舞で、爽やかさが売り物のはずなのだが…。時々睡魔に襲われる。
国栖 シテ 武田 孝史 姥 辰巳 孝弥 天女 佐野 玄宜 ワキ 殿田謙吉 間 善竹 十郎、大次郎
最終曲である。ここまでですでに4時間経過。帰る人の姿もかなりあった。 脇能だが、準切能ということなのだろう。姥、謡明瞭。シテ、…。ワキの殿田氏はさすがである。子方も終始しっかりしていた。地謡、やはり聞き取り難い。音量が足りないのだ。とにかく。囃子に消されてしまう。 後シテの蔵王権現、赤頭に泥小飛出(?)。赤頭の後ろの中心部が一筋白い。そういうものなのか? 小鼓方、宮増純三師、J師である。やはり震えていた。ただし、中正面席のため、裃の両肩先が見えるだけであるが…。
各曲とも、全体的にあっさりしているので、特に深い考察等必要なく、ただ楽しめばいいのであるが、それが楽しめない…。宝生流に不慣れなためなのか…。ただ、初心の観客に訴える力があるかどうかは、疑問視せざるを得ない。観客の大半が素人弟子であるという条件においてのみ、成立する舞台だったような気がする。観客の高齢化が進んでいる現在、このままでは尻すぼみであろう。観客の高齢化=素人弟子の高齢化が成り立つのだから。このまま、衰退して行くのだろうか、宝生流。 余談だが、狂言の最中にトイレ待ちの行列に加わっていると、今井泰行氏が現れる。弟子に挨拶であろうか。舞台に立っていない能楽師を、それも至近距離で見たのは初めてだが、姿勢が良く、品が良い。さすがである。 さらに余談だが、わんや書店の「能楽手帳」購入。本当に能楽師の住所が記載してある。びっくり。
こぎつね丸
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