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2002年05月27日(月) |
Remember I need you |
どうも風邪をひいたようだ…。 だからといって休んでいると、やるべきことが後にたまってしまうので休むわけにはいかない。仕方がないので、「やるべき」というわけではないけど「やりたい」ことをやらないようにしてその時間を睡眠に充てるしかないかな。
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なぜ、上手くいかないのだろう。 もっと「器用」になりたい。 自分の思いを相手の幸せの手助けになるような形で表現することができれば…。 まだまだ修行が足りない。
(もっとも、もし相手がすでに俺のことを必要としていないのであれば、それは俺にはどうしようもないことなのかもしれない。それを認めることはとても寂しいけれど。でも、とりあえず、また電話すると思うよ)
2002年05月26日(日) |
Test of English for International Communication |
今日はTOEIC試験。 初めて受験したけど、リスニング力はやはりというか不足しているなあ。それなりにはわかっったけど、それなりでしかない。試験後半の文法・読解問題は批判の槍玉によく挙げられるいわゆる「受験英語」まんまだと思うのですが。TOEICを推進するのに大学入試の英語を批判する人は、試験の中身を見ずに批判しているんじゃないでしょうか。そんなわけで、受験現役時から衰えているとはいえ、かなり解けました(解けたつもり)。多分、「受験英語」の中では簡単なレベルに属する問題だと思います。もう「受験英語」と呼ばれるものから離れて久しいのではっきりとはいえないですが。ああ、でも、おそらく結果が返ってきたら文法・読解でも色々とミスしてるんだろうなあ。いやそれより気になるにはリスニングの出来ですけどね。一ヵ月後の結果発送を心待ちにしています。結果が良かろうと悪かろうと、現状認識の一つの目安にはなるでしょうから。目安でしかないですけど。TOEICにはスピーキングとライティングが含まれていないので、こちらから発信するためのコミュニケーション能力は計れないですからね。相手からの「情報」を受信する能力はある程度計れるとしても。
大学の実験の内容が、すでに勉強したことのある分野とまだ勉強したことのない分野の場合がある。前者の場合は復習あるいは補足程度の調べものを、後者の場合は図書館でその分野の専門書を借りるなりして一から(実際には他の分野で培った考え方が応用できるので一からではないが)勉強することになるわけだが、どちらにしても結局はすでに存在していることを学ぶわけである。つまり、「教科書」がある。将来研究することになると、すでに存在する「教科書」ももちろん参考として用いるだろうが、最終的には自分の頭で考え、自分の手で実験し、その結果を形にする。それが誰かのための新たな「教科書」となる。 ねえ、自分で新たなものを創り出せるんだよ、わくわくしないかい? 誰かから与えられてばかりじゃないんだ。 でも、もし何も創り出せなかったら…? 大丈夫、何も創り出せなくても、そのうちにやがて死ぬだけだ。 だから、死ぬまで諦める必要はない。
(とりあえず今は、創造の基礎となる学力を身につけるためにがんばらねば。素振りをせずにホームランを打てるバッターはいないのだから)
『昨日の夢は、今日の希望であり、明日の現実である』(ロバート・ゴダード)
「あなた」が誰で、「きみ」が誰なのか。 それを知る術が僕にはない。 「きみ」が僕ならば、どれほどにか幸せだろうと願いはするけれど。 「きみ」が僕以外なら、それはまた十分あり得そうなことにも思える。 僕は、それが、知りたい。
君は何を考えているのだろう。 僕の思考は君の思考を知ることはできない。 君のその態度は、僕への拒絶だろうか。 それとも君の不器用さだろうか。 僕は僕の言葉で君に語りかけ、僕のやり方で君に接するしかない。 語りかけようとするしかない。接しようとするしかない。 時折、君に嫌われているんじゃないかって不安になるけれど、もしかしたら、君も僕を好きでいてくれているんじゃないかっていう期待の感覚を抱いて、君と共にいる。 いつか真実が語り出されるそのときまで。そしてできることならその後も。
『君達が自己に忠実に話す時、そこに過去や未来は関わりがなく、真実が永遠に光り輝く。 自己に忠実に話す、それのみが真実の正当な在り様なのである。』 (リチャード・バック(村上龍[訳])『イリュージョン』
(ちなみに今更ですが、この日記ページの各日記のタイトル、時々小説などのタイトルを引用しています)
誰かを思う。 誰かに会いたい。 誰かにふれたい。
誰かはすでに存在する。 僕の中にいる。 僕の外にいる。
誰かは遠くにいる。 僕の手は届かないだろうか。 僕の手は届くだろうか。
ただ一言呟く。 あなたに会えて良かったと。 そしてこれからもよろしくと。
(5/11の日記のつづき)
そして自分だけでなく、俺の周りにいる人々、とくに幾人かの人々、様々な物、世界、それらの実存を(もしそんなものがあるのなら)知りたいと思うよ。 なくても、生きていくけれど。
『EUREKA(ユリイカ)』(青山真治監督)をレンタルビデオで見ました。 これは映画館の画面で見たほうが良いであろう作品かな。 というのも、この作品はとにかくカメラが良いです。 映像に関してはほとんど完璧じゃないでしょうか(最高に面白いという意味ではないけれど)。3時間37分という長尺ですが、飽きないです、映像が。といっても、派手さとかは全然ない映像です。ただ静かに画面が流れていきます(静かな物語とともに)。たまに流れる音楽も良い効果を出していました。 以前、この映画のCMを見て気になっていたけど、結局映画館には行かなかったのですが、映画館で見ても良かったかな。ただ、上映時間が長いのでトイレに注意が必要(笑)
自由な灰色の世界と、不自由な青色の世界。 どちらを選ぶかといわれれば、後者を選ぶ。
2002年05月11日(土) |
果てしなく青いこの空の下で |
捨てる情報と、受け取る情報。選択。 どの程度の深さまで考え、どこでやめるか。見極め、あるいは妥協。 人間(脳)の処理能力・記憶容量の限界のため、すべての事象について深く考察することはできないし、すべての事象を記憶することもできない。 人間は、その程度でしかない。 今のところ機械的には再現できない複雑さを持つ情報処理機械でしかない。 昔々、人間に他の生物や機械と比較して神秘的特権が与えられた時代があった。 今はもうない。 神話が崩壊し、神は死んだ。 「超越者」にすがることはもうできなくなってしまった。 「超越者」を夢想することもできなくなってしまった。 平坦な戦場で僕らが生き延びること。 自分は複雑な機械でしかないという事実。 それを受け止めながらもなお、自分が機械ではない、実存としての自分が「ある」と信じたい自分。ただ「ある」自分を見つめたいと思う自分。そのような自分を見ている自分。無限ループ。 自分の実存という「もの」があるのなら、僕はそれを知りたいと思う。 だがまず今は、「実存」というものが本当に存在するのかという問いから始めなければならない。その問いに答えが出るまでに、死んでしまうかもしれないが。 俺が死ぬのが先か、答えが出るのが先か。 ただ今は走り続ける。 いつか立ち止まるそのときが来るまで。
久しぶりにあなたの言葉を聞けてとても嬉しかった。
なんだってかんだってどうだって過ぎていく。 何をしてもしなくても何かが終わり始まる。 僕はそのような世界に立っている。 誰もが立っている。 でも終わらせるものと始めるものとを選択することはある程度可能だ。
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