LORANの日記
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2006年09月30日(土) |
セミナーを終了して。 |
今日までの4日間、途中1日の休日をはさんでセミナーを開催しました。
「1日リラックスワーク」の開催についてでしたが、その大半はLORANの
意識や考え方とワークの基本についてでした。
全国から参加していただいた皆様には、心から御礼申し上げます。
埼玉県から片道4時間の道を、毎日通っていただいた方もいました。
基本的な考え方がしっかりしていなければ、積み上げることができません。
知識や技術、資格を持っていても、かえって自分のエネルギーを損ないます。
それで基本を最初からやり直すことにしました。
このコースは指導者向けですから、疑問を納得へ変える機会になりました。
思いがけず大勢の参加者に恵まれ、ありがとうございました。
それほどに真摯に自分と向き合い、追求している姿に感激しました。
ほとんどの人が20〜30歳代の若い人たちで、パワーが溢れていました。
どうぞ、そのままこの道をお進みください。
この道がきっと大きな希望の実現へ続いていることを信じています。
勇気には大きく分けると2種類あるようです。
1つは獲得する勇気です。
一般にはこの勇気を勇気と言っているのでしょう。
もう一つは失う勇気です。
こちらは目立たないので、あまり評価されていないようです。
獲得する勇気は、挑戦して達成する華々しさや周囲の賞賛があります。
競技や試験、冒険などの困難や難関を突破する達成感や満足感があります。
失う勇気はとても目立ちません。
例えば、恋人を失ったり、手術で胃を摘出したり、会社を辞めたり、離婚したり、
火事で家を焼失したり、会社が倒産したり、配偶者が亡くなったときなどです。
このような失意のとき、その人の勇気が試されます。
勇気があれば、このような危機を越えることができます。
もし勇気が無ければ、重い重圧に負けてしまいます。
自棄(やけ)になって酒に溺れたり、自殺したり、自分を破壊する行為をします。
他人は同情はしてくれますが、苦境にある人の真の心情までは分かりません。
たとえお金持ちがいても、「これを使え」と100万円、200万円を与えません。
「この世は薄情」と、初めから割り切っていなければ、やっていられません。
「援軍来らず」と覚悟を決めていなければなりません。
ですから、いつも万一の場合の覚悟がなければなりません。
その覚悟ができていないから、失う勇気がないのでしょう。
失う勇気がなければ、その事態を受け入れることができません。
こんなことが自分に起こったことを恨み、呪うばかりです。
周囲の人が援助しないことに怒り、恨みます。
自分の人生を恨み、呪います。
そして自棄酒(やけざけ)を飲み、健康を損ねて死に至ります。
失う勇気があれば、起きた事態を静観し、
「こんなことは人生には付き物だよ」と、潔く受け入れることができます。
事態は最小限の被害で収拾され、数年後には今まで以上に元気に活躍しています。
真の勇気は、失う勇気にあると思います。
当たり前のことを忘れていませんか?
楽しいこと。
幸せなこと。
健康でいること。
平和で穏やかなこと。
これらは当たり前のことですね。
特別なことではないから、努力はいらないのですね。
だって、あなたが幼い日にはそうだったでしょう?
毎日が楽しくて、幸せで、健康で、平和だったでしょう?
幼いあなたの写真を見てご覧なさい。
こぼれるばかりの笑顔のあなたがいるではありませんか。
楽しいこと。
幸せなこと。
健康でいること。
平和で穏やかなこと。
それは当たり前のことですね。
それが当たり前にならなくなったのはなぜでしょうか?
あなたが周囲に気を遣い始めたからではありませんか?
あなたが周囲の人と比較をしたからではありませんか?
もっと幸せにならなければならないと思ったからではありませんか?
そのためには、もっと努力しなければならないと思ったからではありませんか?
自分がいやなことでも、我慢しなければならないと。
やりたくない勉強や仕事もしなければならないと。
いつの間にか人生は灰色になり、人と会うのが楽しくなくなり、健康は優れなくなり、
気持ちは穏やかでなくなったのではありませんか?
自分の夢や希望は、現実の義務と責任に代わってしまいました。
キラキラと輝く眼差しは、いつの間にか輝きを失いました。
もういいではありませんか?
あなたが求めていたものは無かったことに気づいても。
「青い鳥」を探しに行ったチルチルとミチルは、どこで「青い鳥」を見つけましたか?
「青い鳥」はあなたの中にしかいなかったのではありませんか?
楽しいこと。
幸せなこと。
健康でいること。
平和で穏やかなこと。
それはすべて当たり前のことだったことに気づいても。
「水木しげるの大冒険・幸福になるメキシコ」(祥伝社)を読んで、神がいる国について考えました。
本来は自然信仰でしたから、世界中どこにも神や精霊、妖怪、シャーマンがいたのでしょう。
それは自然のすべてと同じであり、自然の別の名であったのだろうと思います。
大きな山はそれだけで特別な存在感があり、そこから幾つもの川が流れ出し、その流域には
恩恵を受けて多くの森ができ、そこには多くの動物や鳥が住み、川には魚が群れたのでしょう。
その恵みを受けて人々が住み着き、集落はいつか町になったのでしょう。
大きな山は冬には雪をいただき、美しさと威厳を示していたのでしょう。
大きな山も流れる川も森も風も、そして海も人々に無限の豊かな恵みを与えてくれました。
そのすべてに人々は畏敬と感謝をしながら、営々と暮らしてきたのでしょう。
その畏敬は、そこに神を見、精霊を見つけてきたと思います。
その畏敬は、とても自然で健全な反応であったと思います。
しかし人間が社会生活を中心にしてから、自然との結びつきは急速に弱まりました。
科学の発達は小ざかしい浅知恵を与え、自然の畏敬を非科学的と決め付け、迷信にしてしまいました。
科学はまだ幼稚の範囲にあるのに、人間の限りない欲望とつながり、人間万能の思い上がりを
増徴する結果になりました。
人間万能の思い上がりは、まるでシロアリが木造船を食うが如くに地球を蝕んでいます。
このままシロアリが船を食っていったら、船が無くなったときどうするのでしょうか?
それでもシロアリが船を食い続けるのは、人間の欲望を止める理性が無いからでしょう。
その理性は自然に対する畏敬そのものだったと思います。
何物も畏れないことは、欲望が止まらないと同じです。
これは自己崩壊を起こしているのですから、自殺行為と同じです。
人間の浅知恵は人類を滅亡へ追い込んでいます。
子どものアトピーやアレルギーが50%を超えていることが証明しています。
この症状は自然の汚染度に比例して増加しているのです。
人間の反省が自然を破壊することを止めさせなければ、子どもたちは一生苦しむでしょう。
昔も今も大自然は、私たちの母であり、神であるのです。
先進国ではない国々では、いまも神や精霊は生き生きと人々と共に存在しています。
テレビから聞こえてくる声は、どうしてあんなに空虚なのでしょう。
あわただしく、甲高く、自己主張しています。
こんなに便利で、こんなに快適・・・
世界のあそこで、ここでこんなことが起こっていると。
そのすべてが空虚に聞こえるのはなぜ?
「こんなに真実を伝えている」と言う言葉に、真実味がないのはなぜ?
真実はとても重い。
たとえ蟻一匹でも、人一人でも。
その存在が真実だから、その存在はとても重いのです。
たとえその人が亡くなる寸前であっても、その目の微かな輝きは真実の重みがあります。
しかし聞こえてくる言葉は空虚です。
それを話す人の真実が希薄だから。
その人の人生が真実から離れているから。
その人の情熱や気迫がないから。
そんな空虚な言葉で社会が構成されているから、社会は空虚です。
そこに住む人の意識が希薄だから。
生命の火が微かだから。
人々の目に光が宿っていないから。
言われたことに忠実に。
自分の気持ちを抑圧し、制御できることが大人の資格。
いつの間にか子ども時代の夢や希望は薄くなり、義務と責任で押しつぶされます。
口を出る言葉は、相手が求める言葉になり、
その裏側には悲しみと怒りの赤黒い色。
言葉は本来が神聖であり、愛を語り歓びを語り合うもの。
そこから新たな生命が創造されるはずのもの。
もう一度、思い出してほしい。
あなたが言葉を覚えたばかりのときを。
あなたと両親の言葉の温かさを。
きっとそれをあなたは忘れていないから。
広告やCMなどの媒体、モデルチェンジなどを利用し、「不必要なものを必要なものである」と消費者の購買意欲をそそることによって、消費活動が行われる社会。 ジャン・ボードリヤール(フランス、1929〜)などに代表される、現代の先進国を捉える見方としても位置づけられる。 日本をはじめとする先進国では、人々は、生活のために必要なものはほとんど保有している。 しかし、現在の経済活動が拡大再生産のもとに成立しているという立場において、企業としては商品を売って利益を上げることが最大のミッションとなる。 こうした考えから、「持っていないと時代遅れだ」「持つことによって、個性的になる」などと消費者を煽ることとなる。 消費社会において、商品は「どんな自分にみせたいのか」を示すためのものになっており、その本来の性能が評価されてはいない面も指摘される。 このような、不必要なものを売るという消費社会の構造が、大量生産・大量消費・大量廃棄を生み出し、環境問題を引き起こす原因であると指摘されている。 http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=1275
消費社会は無限の資源と無限の大きさの地球がなければ、継続は不可能です。
既に化石燃料である石油は枯渇しかかっていますし、石油の燃焼による炭酸ガスによる
大気汚染や温室効果は、海面の温度上昇による蒸発を同大させて大雨や洪水を引き起こ
しています。他方、気温が上昇し乾燥が進む地域もあります。
代替燃料の開発は石油産業による圧力のせいか、遅々として進みません。
そんな中でTOYOTAがハイブリッド車を商業生産しているのは、特筆に値するでしょう。
現代人のテレビ好きは、異常と言えるでしょう。
1日8時間以上も見ているテレビが放送していることは、潜在意識に入り思考を支配します。
朝から眠るまで「買え、買え」と言われ続けたら、買うことが当然になってしまいます。
このような商業放送局のコマーシャルを野放しにしていては、消費経済は改まらないでしょう。
テレビや新聞などのマスコミの暴走は、報道の自由ではなく、意識の混乱が目的です。
マスコミに意識を操作されたら、自分の意識を守ることは困難です。
24時間テレビなどは、寝不足になり健康のためにもよくありません。
酒やタバコなど中毒を起こす商品の宣伝は、本来してはならないでしょう。
ましてやサラ金の宣伝などは、もってのほかでしょう。
なによりも先ず、消費者=視聴者の意識レベルが改善に向かう必要があります。
そのためにはなにができるかを、真剣に考える時期に来ていると思います。
2006年09月21日(木) |
おとなになると・・・ |
子どもの時には朝から晩まで走り回っていたのに、思春期からおとなになると変わります。
よく言えば思慮深くなり、落ち着きが出てきたのでしょう。
子どもの時には自分のしたい放題、言いたい放題だったのに、周囲の人に気を遣います。
それもいいのでしょうが、周囲の人に気を遣い過ぎて自分が分からなくなっています。
子どもの頃、自分が分かっていたかと言えば、それも無理でしょうが、ただただ周囲に気疲れ
して健康を損なう人も珍しくありません。
「いい人は短命」の言葉もあります。
「気配り小渕」と呼ばれた小渕恵一総理大臣は在職中に亡くなりました。
おとなになって処世術だけが上手になっても、それがおとなになったと言えるのでしょうか?
自分を相手に合わせているだけなら、自分の人生はいつ実現するのでしょうか?
周囲の人のご機嫌を取ることよりも、もっと大切なことはないのでしょうか?
植物人間になってしまったら、一人で自分の人生を生きることはできません。
ただ呼吸をし、脈拍があるだけでは、自分の人生を生きているとは言えません。
自分一人であっても人生を生き抜いて行く気概がなければ、自分の人生を生きたことにはなりません。
例えその人生が富や名声と無縁であっても・・です。
2400年前のお釈迦様は、王子の生活と両親、妻子を捨てて、苦行の世界へ入りました。
2000年前のイエス・キリストは家族を捨ててガリラヤ湖畔で説法し、十字架に架けられました。
先人は自分の信じる道を貫き通す生き方を、私たちに見せてくれました。
「では、あなたはどう生きるのですか?」と、私たちは尋ねられています。
自分の信じる道を生きるためには、自分が納得できる理由が必要です。
その理由を得るためには、自分がいつも真摯に学ばなければなりません。
その対象は書物だけではなく、大自然、大宇宙の森羅万象のすべてです。
そしてそこから導きだされた答えは、誰かと一致する必要はありません。
ですから、「我一人にても行かん。」という言葉になります。
毎日、他人のことばかり気にしてテレビを見るだけでは、自分を知ることはできないでしょう。
社会情勢を知ることが、自分を知ることよりも優先するとは思いません。
日本は戦後、アメリカのおかげで小作人は解放されて地主になりました。
それまで無かった普通選挙権を獲得し、自分が政治家を選ぶことができるようになりました。
封建的天皇制や軍部の威力がなくなり、民主的になったと思われています。
確かに占領軍が実施した農地解放は日本の有効需要を創るためには絶大な効果がありました。
全国農業協同組合中央会(JA全中)に、恩人・連合軍最高司令長官マッカーサー元帥の銅像
が無いのはふしぎなくらいです。
しかし世界の歴史を見ていると疑問を持たないわけにはいきません。
人類最古のメソポタミア文明から6000年、エジプト文明から5000年、中国文明から
4000年を経過していますが、人間の歴史=戦争の歴史です。
日本は戦後60年間戦争をしていない先進国唯一の国と言っていいでしょう。
超大国・アメリカは戦後だけでも、どれほど戦争を続けているのでしょう?
日本が戦争を止めてから60年間、アメリカは毎日戦争を続けているように見えます。
ではアメリカは誰のために毎日戦争をしているのでしょうか?
それは「全アメリカ国民のために」という大儀があることになっているでしょう。
では全アメリカ国民は大きい戦争だけでも、第1次、第2次世界大戦から朝鮮、ヴェトナム、
湾岸、イラク戦争と毎日のように戦争を続けたいと思っているのでしょうか?
戦争をすれば家族が徴兵で兵役にとられて、戦死するかも知れません。誰が望むものですか。
それなら全アメリカ国民が反対すれば、戦争は無くなるはずですね。
でもそうならないのはなぜでしょうか?
戦争が無くならないのには理由があると思います。
多分最大の理由は、「国家は私物」だからでしょう。
日本が戦争に負けたのは、日本の支配者とアメリカの支配者が戦って、アメリカの支配者が
勝ったからです。
その後、北朝鮮の支配者とアメリカが戦い、休戦して今に至っています。
北朝鮮の支配者は親から息子へ代わりましたが。
イラク戦争もイラクの支配者サダム・フセインとアメリカの支配者との戦いでした。
これもアメリカの支配者が勝ちましたが、その周囲の国の支配者との緊張が高まっています。
イスラエルの建国も、ユダヤ国家を再建したいというユダヤ支配者の希望が実現しました。
そこにあったイスラム国家の支配者との戦争は起こらざるを得なかったでしょう。
サウジアラビアという国名は「サウド家のアラビア」という意味ですから明解ですね。
こうして考えていくと、「国家はすべて私物である」と定義できるでしょう。
すべての戦争は宗教的、民族的な理由があっても、最も大きな理由は支配者同士の国の
取り合いだったのでしょう。
宗教的、民族的な理由は戦争を正当化するために作られたのでしょう。
それならもう、支配者の言いなりになる必要もないでしょう。
支配者が作ったシステムから脱出してもいいと思います。
ローマ法王は12日、訪問先の母国ドイツの大学で行った講義で、東ローマ帝国皇帝によるイスラム批判に触れ、「(イスラム教開祖の)預言者ムハンマドが新たにもたらしたものを見せてほしい。それは邪悪と残酷だけだ」などと指摘。その上で、イスラムの教えるジハード(聖戦)の概念を批判した。(時事)
このローマ法王ベネディクト16世の発言によって、イスラム圏内のキリスト教会に放火などの抗議が続いています。
ベネディクト16世は自分の発言を慌てて訂正していますが、混乱は続いています。
バチカンのサン・ピエトロ寺院での前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の歴史的謝罪は、新ローマ法王の泥足で汚されてしまいました。
「ローマ法王のヨハネ・パウロ二世(79歳ポーランド出身264代目の法皇)が三月十二日、バチカンのサンピエトロ寺院で、過去2000年間にキリスト教会が犯した罪を認め、神の許しを請うミサを行った。(2000年3月13日NHK朝のニューズ)」
ヨハネ・パウロ2世が2000年3月12日のミサで懺悔した内容は以下の通りである。
1.歴史上、あなたがた神の子(ユダヤ人)を苦しめた行為を深く悲しみ、許しを求め、真の兄弟愛を誓う。
2.(十字軍遠征、異端審問などでは)異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた。これらカトリック教会の名誉を汚した行いについて謹んで許しを求める。
3.(アフリカ、米大陸などへの布教では)人種、民族的な差別に基づいた排他的な行いがあり、罪深いふるまいがあった。異人種の権利を迫害し、彼らの伝統的宗教や文化に対する侮辱的な態度を取った。(毎日新聞二〇〇〇年三月十三日より)
現在の世界の混乱の原因は、先進国白人諸国の植民地政策にあります。
その植民地政策へ正当化のお墨付きを与えたのは、当時のローマ法王でした。
大航海時代、カトリックの世界宣教にはスペイン、ポルトガルによる武力征服の隠れた目的があった。両国の「世界二分割征服論」という荒々しい野望を推進させたのは、1493年の法王アレキサンドル6世の勅書である。異教文明の征服と破壊はここに始まり、多くの悲劇が生まれた。
植民地の宗教をすべて邪教と決め付けて徹底的に破壊し、関係者を迫害したのは法王の命令でした。
79歳のローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、最後の仕事として、キリスト教徒として懺悔したのでしょう。
そんな前ローマ法王の思いを、現ローマ法王は無残にも踏みにじったのでした。
しかし、彼を責めても仕方がありません。
彼は正しくローマカトリックの頂点に君臨する代表者なのです。
つまり彼の発言こそが、正当なカトリックの意見を代表しているのです。
私たちは、その事実を客観的に観察していればいいのです。
2006年09月15日(金) |
本日(9/15)〜19日まで愛媛県です。 |
間もなく羽田空港へ向かいます。
今日から19日まで愛媛県今治市にいます。
しまなみ海道の南端、来島海峡のほとりにいます。
ここは瀬戸内海きっての潮が早い難所として知られています。
台風13号が沖縄に向かっているそうですが、ここ千葉はよく晴れています。
昨夕、富士市から1週間ぶりに帰宅したのですが、長袖が欲しいほどに涼しいのです。
暦通り秋は深まっています。
人は目の前のことに気を取られて、周囲の自然の移ろいに気づきません。
正に自分自身が自然の存在であることさえ忘れて、人工的環境に慣れてしまいました。
その弊害でアトピーやアレルギーが、半数以上の児童に現れているのに気づきません。
これはマスコミ偏重が主原因であると思われます。
テレビ映像はどんなに美しく映しても虚像でしかないのに、実像と錯覚しているからです。
そのために、自分自身の人生もまた虚像になってしまいました。
自然環境から遊離しているのに、それでいいと思っているのですから。
どうぞあなたを取り戻してください。
あなたの人生を自分の足で歩いてください。
そうすれば、きっとあなたは幸せを感じるでしょう。
今日は朝から雨でした。
富士市から東名高速道路、渋滞の16号線と湾岸線を通り、アクアラインをくぐって
房総横断道路で九十九里海岸近くの自宅へ帰りました。
16号と湾岸線は強風で、横浜ベイブリッジとツバサ橋の上では煽られました。
それにしても今年初めからずっと、ぐずついた日が多いのに気になります。
日照不足で農作物に影響が出なければいいのですが。
また雨が多いと農作物にかび類が繁殖し、病気が出ることもあるそうです。
夏は猛烈に暑いくらいがいいようです。
千葉へ来たら気温が低くて驚きました。
スーパーマーケットでは、買い物客が厚いトレーナーをしっかり着込んでいました。
短パンとTシャツの私たちが、季節外れのようでした。
私たちは「すべては光」であると思っています。
「光」が強ければ、その人は元気で健康です。
もし「光」が弱ければ、その反対の状態になります。
太陽の光に当たると、皮膚がんになるという宣伝がされて、UVカットの商品が販売
されていますが、皮膚がんとは大げさ過ぎると思われます。
私は数年前まで建設業界にいましたが、毎日屋根に上っている瓦職人やぺんき職人に
皮膚がんが発生したというニュースを聞いたことがありません。
それよりも骨粗しょう症を防止のため、カルシュームを摂取しても太陽光線に当たら
なければカルシュームは骨格へ定着しないそうです。
更にこのぐずついた雨や曇り空では、「光」が人体にも不足がちになるかも知れません。
天気のよい日にしっかりと太陽に当たってほしいと思います。
2006年09月13日(水) |
今日からスタートです。 |
いよいよ次の舞台が始まりました。
今日がそのスタートの日です。
このために7月半ばの千葉県九十九里海岸近くへの移転がありました。
その移転のために1月初めの本州東端・犬吠埼行きがありました。
様々なことが60余年の間に起こりました。
その集約がいま始まったところです。
人は自分探しのための人生を送っているのかも知れません。
自分は誰なのか?
自分は何のためにここにいるのか?
自分の起源は?
自分の本当の能力は?
自分と神の違いは?
自分と世界の関係は?
自分と宇宙の関係は?
自分と家族、友人の関係は?
自分と宇宙人の関係は?
自分と高次元の関係は?
などなど・・・
ようやく疑問の端緒に取り付くことができたようです。
それは長年かかって開発されたインスピレーションによるものです。
もし自分のインスピレーションを信じられなかったら、全く無力になるでしょう。
すべての芸術やスポーツはインスピレーションの表現に他なりません。
これから一層速度を速めなければなりません。
今日は富士市ですが、明日は千葉県、明後日は羽田空港から愛媛県松山市、翌日から今治市です。
人生は自己表現ですから、これから思い切り自分を表現してまいります。
UFOやETの存在を信じますか?
私は信じています。
宇宙には無数の星があります。その中で地球にだけ高い知能を有する人類がいると考える方が
無理があります。
18〜19世紀の産業革命以来の人類の科学程度でさえ、人類は月まで行けたのです。
更に500年、1000年経てば、人類の科学も相当に発達するでしょう。
ワープと言って、空間を本のように折りたたんで、一瞬で飛び越すことも可能でしょう。
時間の概念を正確に理解し、時間を自由に操作できるかも知れません。
物質は原子の集合ですから、空気中あるいは海水の中の原子の組み合わせにより、野菜や生活
資材など好きな物を製造できるかも知れません。
いや生命の起源をつきとめ、生命の創造が可能になるかも知れません。
神の領域に踏み込むのですから、人類の意識も応分に進歩しなければならないでしょう。
UFOとETが地球へ来ていると言っても、たった1種類ではないでしょう。
所属する星も違えば、進化の程度も異なるのは当然でしょう。
地球人類のように、同じ人類をいまも殺しあっているようなETが来たら大変です。
地球人類をスポーツの狩猟の対象として、UFOに乗って面白半分に殺し回るとしたら。
あるいは家畜化されて、アフリカから黒人を連れて来た時のように労働させられたら。
いま地球人類がしていることを、ETにされたらなんと言うのでしょうね。
少しは虐げられた民族の気持ちが分かるのでしょうか?
UFOが報告されるようになったのは、原爆が製造されてからと言われています。
月の裏側には巨大なUFOの基地があるとも言われています。
アポロ12号が月着陸船を切り離し落下させて、月へ設置した地震計で計測して地面の構造を知ろ
うとしました。
地球でなら2分間程度の振動であるはずが、月では55分間も続いたそうです。
鐘を1回ついたら、55分間鳴り止まなかったと同じです。
そしてアポロ13号は燃料電池と酸素タンクを各2基同時に失うという
重大事故に遭いながらも、奇跡の生還をしました。
この計画の立案・推進者であるケネディ大統領は1963年に暗殺されました。
25号まで予定されていたアポロ計画は、月面への6回の着陸を含む17号までで終了しました。
1968年〜1972年の出来事でした。
この頃から精神世界においても大きな変化が起きました。
チャネリングと呼ばれる他の天体や高次元の存在からのメッセージを受け取る人が現れました。
それは人類の起源に関するものが多かったのです。
メッセージの発信者はUFOを使用する肉体次元の存在ではなく、意識体として存在する高次元
存在が多かったと思います。
いま2012年12月21日という「マヤの暦」の最終日に向けて、なにが起こるのかについて
数々の仮説が話されています。
人の大脳は右脳と左脳に分かれています。これは大脳が発達した人だけの特徴です。
左脳は言語、認識、論理的思考、計算、顕在意識(意識脳)などの能力を、
右脳はイメージ、記憶、直感・ひらめき、芸術性・創造性、潜在意識(無意識脳)などを司っている
そうです。
左脳は顕在意識(意識脳)でストレスを感じます。
ストレスが強くなると様々な心身の症状が表われます。これを「うつ」症状と呼びます。
日本人は世界一「うつ」の比率が高いと言われています。
一生で「うつ」を経験する人は5人に1人、東京では4人に1人だそうです。
「うつ」になる原因は様々ですが、自分の思うようにならないことが共通でしょう。
「思うようにならないこと」をなんとかしようとすれば、無理が生じるのは当然です。
それなら自分が「思うこと」を変えれば、「うつ」にならないかも知れません。
「思うようになること」と、「思うようにならないこと」を分ければいいでしょう。
「思うようになること」は、悩みもストレスもありません。
「思うようにならないこと」は、実行できるときが来るまで待つか、方針を変更しましょう。
もし健康が思わしくないなら、その原因を無くしましょう。
働き過ぎ、他の人への気の使い過ぎ、睡眠不足、心配し過ぎなどなら、環境を変えればいいでしょう。
それができないのは自分に勇気がないからです。勇気とは命がけのことです。
私は左脳を止めることができることを発見しました。
左脳を支配しているのは、自分の「くよくよした悩みのエネルギー」です。
エネルギーは大きくなると、まるで意識を持っているかのように勝手に動き出します。
ですから、頭が勝手にぐるぐる考えてしまい、止まらなくなります。
頭の暴走を止める一番簡単な方法は、大声で「うるさい! 黙れ!」と一喝すればいいのです。
ふしぎなことに、これでしばらくは静かになります。お試しください。
左脳を止めるには、最も高い光と一つになって、「止まりなさい」と言うだけです。
私は昨年11月に感情を開放した結果、意識が高次元へ到達しました。
それで高次元の光と繋がることができました。それでこの方法が可能になりました。
左脳が止まると感情に左右されなくなります。とても静かで穏やかになります。
昨日(9月10日)の富士すぴこんで、このワークショップをしました。
次回の横浜すぴこん(9月23日)にも頼まれています。これですぴこん連続6回です。
もし体験をご希望なら、横浜すぴこんへお出かけください。
2006年09月10日(日) |
遠藤ケイさんの本から |
イラストレーターの遠藤ケイさんの本のことは、前にも書きました。
「僕の丸太小屋人生」の中にこんな文章がありました。
(前文略)「取材して、いろいろな人に会って感動する。その感動が、いままでの描き方では、絵に
現れていない。筆しかないと思った。悩んだすえ、「絵を描くという感覚を捨てたほうがいい。」と
感じた。見たものをできるだけ、正確に忠実に描いてみよう。」と決心した。
「絵を描こう」ととすると、かならず、「きれいに描こう。」とする気持ちが働く。どこかに飾ろう
とする作為が起こる。これが最初の感動を、そのまま表せない原因になっていると気がついたのだった。
見た物、感じたものを、正確に忠実に描こうと努力しても、かならず描き手の心情が、どこかににじ
みでるものだ。
そこに、ある木が立っているということは、決して偶然ではないことが多いのである。情景はその
意味のなかにもある。したがって、感動した人間は、なにごとも見逃さないように注意を払い、耳を
澄まし、周辺のもののすべての声を聞き、線を見出さなければならない。 (以下略)
遠藤ケイさんのイラストが見る人に訴えかけてくる理由が、理解できたような気がしました。
参考文献 : 「僕の丸太小屋人生」 遠藤ケイ著 講談社刊
2006年09月08日(金) |
本当に国民のための政治?? |
あまり好きではないタイトルですが、小泉首相の後継首相の選出が話題になっているので触れます。
政治が市民のものになったのはフランス革命からだと言われています。
立憲君主制のイギリスなどの王国もあります。
日本も戦後基本的人権を骨格とする憲法を制定しました。
アメリカを旗手とする自由主義陣営の国です。
国民の三大義務は納税と教育とかっては兵役(徴兵)でしたが、今は選挙になりました。
自由主義と民主主義を標榜する国家の国民ですから、誰もが平等に権利を尊重されています。
以上のように教育は教えています。
いつの世にも本音と建前があることをご存知でしょう。
この教育の通りに信じている人を、政治家は「青い」と言います。
建前と本音が分からないのは、未熟者というわけです。
旧社会党や共産党は、学生のように血気ばかりで実際の政治が分からない連中というのです。
その証拠に、旧社会党は教員の村山富市氏を内閣総理大臣にしてもらって、天下を取ったような
気にさせられ、単なる票集めに利用されただけでした。自衛隊をそれまで違憲と言っていたのに
合憲と言い換えて、支持者から捨てられました。その後の旧社会党の凋落は目を覆いたくなります。
田中角栄首相の第1秘書は元新聞記者の早坂茂三氏でした。
彼は終戦直後は大学生でしたが、共産党へ入党し大いに活躍をしました。
しかし理論と議論の内部闘争と分裂に飽きて脱退し、東京タイムスに拾ってもらいました。
政治記者をしていたときに、大蔵大臣になったばかりの田中角栄氏に拾われました。
首相の第1秘書として政策の立案や議会工作や支持基盤の強化に活躍しました。
政治は国民のためという建前で行われています。
政治家が選挙に当選し活動するには、何億円もの資金が必要です。運動員も半端な数ではありません。
その資金と人員の手当てをだれがするのでしょうか?
それは各業界が負担しています。
かっては繊維、鉄鋼、自動車、電機などの労働組合が大きな力を持っていました。
その当時は社会党や共産党はとても強大で、あわよくば政権を狙えるほどでした。
いまは見る影もありませんが。
経団連という大手企業団体や銀行、医師会、JAなどが有力なスポンサーです。
こうしてスポンサーの意を受けた議員が都合のいい法律を作り(立法)、予算を獲得(行政)
します。
ですから政党とはスポンサーへの予算獲得のための議員グループです。
ですから若い人たちが選挙に関心が無くても当然です。
政治や金融を支配する人は、正に雲の上に居ます。
戦争で多くの国民が死んでも、彼らの支配が揺らがなければいいのです。
しっかり現実を知らなければ、いいように利用されます。
テレビや新聞は真実を書くことはできません。スポンサーには逆らえないからです。
千葉県九十九里海岸近くの住まいの周囲は正に田園地帯です。
9月初めには稲が穂をたれて、見渡す限り「黄金の波打つ」状態でした。
いまその60〜70%が刈り取られて、切り株になっています。
収穫したお米を袋へ入れて、軽トラックに満載してJAへ運んでいます。
田圃で稲を収穫しているのは、殆どが老夫婦です。
中にはおじいさん一人が広い田圃の仕事をしています。
私は農家の4男でしたから、今頃は農繁休暇で家族全員が真っ黒になって稲刈りをしていました。
親戚の家のみかんの収穫の手伝いもしましたが、夜明け前からみかん山へ行きました。
そんなに忙しくても誰一人不平や不満を言わないのは、家族の一体感があったからでしょう。
家族が仕事に協力し合うことは、家庭教育の基本でしょう。
仕事に打ち込む両親を見て育てば、仕事に誇りを持つようになると思います。
いつの間にか仕事よりも家族よりも、お金が大切になってしまいました。
お金があればいろいろな物が買えるし、贅沢な暮らしもできることを知りました。
お金は自分が仕事を楽しんだ後の「おまけ」であるはずが、仕事の目的になってしまいました。
「お金があれば幸せ」という資本主義社会を作ってしまいました。
その結果、仕事に誇りを持つ人が激減してしまいました。
「かねに使われるような自分ではない。」と、言い切れる人が少なくなりました。
今日も見た農家老夫婦や老人は、後継者が農業以外の仕事をしているのでしょう。
それは確かに、日本の農業の現状や所得を考えればやむをえない選択でしょう。
しかし家族全員が食卓を囲んで、共に今日一日の労をねぎらう一体感が懐かしいのは
単なる私一人の感傷でしょうか?
一昔前は大家族で心労もたいへんでしたが、貧しいながらも家族が助け合い、いたわり
あって生きていました。
そこには「カギッコ」も孤立した子どもも、今ほどには居なかったと思います。
私たちは「おかね」に心を奪われた結果、なにかたいせつなものを失ったと思います。
今日、車で10分ほどという近くの温泉へ行ってきました。
人口7,000人ほどの村には不似合いな立派な温泉会館でした。
大小の浴槽がいくつもあり、サウナも2種類、砂風呂もありました。
温泉の設備としては、申し分のないところです。
休憩室は和室の大広間で食堂を兼ねていて、数百人の人が食事をすることができます。
私は入浴後、和室の外のベンチに腰掛けていました。
突然大きな司会者の声と大音響の音楽が聞こえました。
正面の舞台に和服を着た歌手が、マイクを持って踊りながら歌い始めました。
歌謡ショーが始まったのです。
何人かの歌手が古い歌謡曲を歌っていました。
多分お客の年齢層に合わせて選曲しているのでしょう。
最後には太鼓まで叩き出して、部屋がビリビリ共振しました。
ゆっくり温泉へ浸かって、美味しいお酒と料理をいただき、歌謡ショーも楽しめる。
これは絵に描いたような娯楽です。これも立派な癒しです。
一方少ないでしょうが、温泉を静かに楽しみたい人もいます。
こちらは自然が豊かな場所で、鳥の声や風が木の葉を吹き抜ける音を楽しみます。
音楽や料理やテレビやBGMは無用です。
自然の中に身を置くことだけで、自分は満点なのです。
これが癒しの人もいます。
温泉は癒しですが、楽しみ方はいろいろです。
どれがいいとか、悪いとかはありません。
自分が好きなら、そこへ行けばいいだけです。
ところで私は・・・
今日行った温泉は、今日で卒業しました。
いま千葉県の自宅にいます。
こちらにいるときには、毎朝九十九里海岸へ瞑想に出かけます。
いまは往復17kmの本須賀海岸へ自転車で行きます。
ここは今年初め九十九里海岸へ来たとき、最初に降り立った場所です。
周囲になにもなくて、とても静かなところです。
海水浴シーズンも終わり、海の家の撤収が始まりました。
間もなく以前の静かな海岸へ戻ります。
今朝も波打ち際まで砂浜を歩き、小さなパイプ椅子を置いて瞑想しました。
広大な太平洋と66kmに及ぶ砂浜が溶け合うように拡がっています。
遮るものがないので、すべてが一線上にあります。
この雄大さは他の追随を許しません。
瞑想の良さは、自分と自然の存在に没頭できることです。
この楽しみを知ったら、テレビや映画は玩具でしかありません。
かっては1日に映画館3館をはしごしたほどの映画好きでしたが、思い出すと
ハリー・ポッターの最初の作品以来映画を見ていません。
テレビが無いのですからビデオもDVDも縁がありません。
しかし一人で自然や宇宙の世界を縦横に駆け巡っているので、とても楽しいのです。
太平洋の波が十重二十重と海岸へ寄せてきます。
遠浅ですから遥か向こうで波は砕け、滑るように海水が寄せて来ます。
靴下の中に入るほどの細かな砂は、波に表面を仕上げられてとても美しいのです。
自分一人が大自然の中に居ること。
こんな贅沢をさせていただいていることに、心から感謝しています。
2006年09月04日(月) |
夕張市財政破綻に思う |
40余年前、約12万人の市民がいた夕張市は、いま1万3000人にまで減少しました。
500億円以上に膨張した借金を処理することができず、「財政再建団体」になりました。
つまり財政破綻して、国の管理下へ入ったのです。
夕張市だけがこのような状態にあるのではありません。
多くの自治体と国さえも同じような財政状態にあります。
国民は自分のことだけにしか興味がないので、これからどうなるのか分からないのでしょう。
全ての自治体や国が破綻したら、凄まじいインフレになります。
かって第1次大戦後のドイツが、敗戦による巨額な賠償金の支払いを求められて財政破綻しました。
敗戦で焦土となり、生産力が減少し、賠償金を支払うのですから、破綻して当然でした。
その時ドイツ・マルクの価値は下落し、紙幣が暖房の薪より価値がないため、薪の代わりに紙幣を
燃やしたと伝えられています。
その後、新しいマルクを発行してインフレを収拾しようとしましたが、旧マルクと新マルクの
交換比率は、1新マルク=1兆旧マルクでした。
いまの日本でしたら、いま使っている紙幣で1兆円=新1円 ということになります。
どれほど凄いインフレだったか分かりますか?
ドイツがこんな絶望的なときに現れたのが、ヒットラーでした。
ドイツ国民がヒットラーに大きな期待を寄せたのも、無理からぬことでした。
ここまでは凄いことになっていませんが、日本の国・地方債の残高が1000兆円だそうです。
これでは間もなく、国民一人当たりの借金が1000万円になってしまいます。
こうなったのは、国民の無関心を利用した税金の使い方に原因があります。
土建国家・日本は税金を新幹線や高速道路建設へ優先して使ってきました。
地方への還元と称して、学校、病院、公民館を建設し、治山治水にお金をかけてきました。
それによって地方の建設業者まで、恩恵に浴してきました。
しかし1990年からのバブル崩壊によって、これまでの構図が破綻しました。
信用組合や証券、保険会社の破綻が相次ぎました。
国も国鉄を民営化するなどして、赤字部門の切り離しに熱心になりました。
郵政の民営化もその一環です。
こうなったのは国民が真実を知ることに無頓着だったからでしょう。
政治のことは政治家に任せて置けばいいと思っていたからでしょう。
その政治家は、選挙資金を提供してくれるスポンサーの言いなりだったのです。
スポンサーは自分の仕事がしやすく、対抗する者の参加を排除することで安泰を図りました。
こうして国民は真実を知ることなく、命令に従順に、与えられたもので満足してきました。
その結果が現在の状況になったのです。
自分が無関心でいても、そのつけは必ず自分が払わなければならないのです。
国民一人当たり1000万円の国債は、国民が払わなければならないのです。
この危機を回避する1つの案があります。
税金の半分以上は公務員の給与です。
公務員を減少させない限り、この問題の解決はありません。
公務員を廃止することが、最も簡単な方法です。
「そんなことができるのか?」ですって?
できます。
公務員のOBがいるではありませんか。
定年退職後の公務員のOBに、半日のボランティアをお願いすることです。
もちろん、定年退職後の人々に様々な仕事をボランティアでお願いします。
各町内にある「老人憩いの家」を託児所にして、老人の皆さんに2時間交代でみてもらいましょう。
高齢化で老人が増加していますが、生きがいが無ければ医療費が増えるばかりです。
老人が若い人たちの見本にならなければ、社会は良くならないでしょう。
社会がこうなったのは、老人に大きな責任があるのですから。
大村一朗著「シルクロード 路上の900日」(めこん刊)を読みました。
大村さんは静岡県清水市(現・静岡市)出身で現在36歳です。
彼が24歳のとき、中国・西安を出発し、2年5ヶ月かかってイタリア・ローマへ到着しました。
1万3000kmのシルクロードを徒歩で横断すること自体が大変な冒険なのに、彼はあらゆる交通機関を
利用しないという徹底した徒歩オンリーにこだわりました。
また利用する宿も1泊100円、200円の低廉な宿を中心に最も安価なところを探し、無ければテントで
過ごしました。零下10〜20℃の酷寒の場所で、また1週間以上も雨の中を歩くこともありました。
ゴビ砂漠を越えるときには20kgを越すバックパックを背負い、280kmも水の無い地帯を歩くので、
通行する車のドライバーが心配して停まってくれたこともしばしばでした。
しかし自分で歩いて行くことを説明して断りました。
永瀬忠志さんはリアカーを引いてアフリカ大陸1万1000kmを徒歩縦断しました。
そのときサハラ砂漠を2週間ほどで歩ききってしまいました。
永瀬さんはリアカーをひきながら、地球一周4万kmを越える4万3000kmを踏破されました。
徒歩旅行はとても原始的な旅行です。
荷物が重いので1日で約30km歩くのだそうです。
飛行機なら1時間で900km以上遠くへ到着できます。
それなら誰でもできます。
永い年月をかけ思い荷物を背負いながら1歩1歩目的地を目指して歩くことは、自分の人生を見つめ直す
ためにもとても有益と思いました。
2006年09月01日(金) |
今日から松山、今治です。 |
昨日千葉県九十九里海岸から静岡県富士市へ帰ってきました。
今年7月から2箇所で生活しています。
明日第4回愛媛すぴこんイン今治が開催されるので、今朝羽田空港へ向かいます。
空港近くのパーキングへ駐車して、昼ごろのフライトで松山空港へ行きます。
松山空港にはSさんがお迎えに来てくださいます。
明日のすぴこんでは昼ごろ、「光の意識」と名づけたワークショップを開催します。
すぴこんで連続4回目のワークショップです。10日にも富士すぴこんで開催します。
「おもしろい」とご好評をいただいています。どうぞお出かけください。
3日の朝羽田空港へ戻り、そのまま千葉県九十九里海岸の自宅へ帰ります。
ようやく皆様のご理解をいただけるようになって、毎月の移動距離が伸びました。
自分自身が毎日変化し向上しなければ、単なる知識で終わってしまいます。
なによりも自分の意識が「大いなる光」と正しく繋がっていること。
それを信じて行動することに尽きると思います。
それにしても、どうして楽しくない人生にしがみついている人が多いのでしょう?
自分が楽しい人生を送るかどうかは、最大の目的であり決断でしょう。
お金や人はそれ以上の価値を持つものではないでしょう。
しかし自分が創り蓄積した感情が、自分を支配していては困難かも知れません。
それなら蓄積した感情を処理すればいいでしょう。
その方法はLORANのセミナーへ参加すればご指導させていただきます。
蓄積した感情こそが私たちの最大の敵です。
その支配を1日も早く終わらせることが、楽に生きることを可能にします。
明日また今治市でのすぴこんでお目にかかれたらうれしいです。
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