LORANの日記
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2006年06月30日(金) 差別と被差別


先日来インタ−ネットで、あるサイトに釘付けになっていました。

そのサイトの読み物をA4用紙へ両面印刷したところ、約600枚(1200ページ)にもなりました。

世の中には凄い大作を物している人が居るものです。感心しています。


そのサイトは「被差別の部落」についてのものです。

実は自分の周囲に、そのような話題が今まで無かったので全く無知でした。

なにかの本の中に、チラッと現れる夕立の稲光のようなものでした。


しかしこの約1200ページの論文を拝見して、差別とはなにかを感じ始めました。

差別は初めから存在するものではないのですね。


誰かが弱い立場の人を差別することで、自分たちの優位を保とうとするだけなのでしょう。 

これは子どもがいじめをする構造と同じでしょう。


つまり差別する側の「意識が貧しい」ことが原因であろうと思われます。

差別が弱いものいじめ以外ではないことを考えれば、それ以外ではないでしょう。


この世界が物質世界=三次元世界であることは何度も書きました。

その特徴は「対立する2つの要素」が存在することですね。


「天と地」であり、「プラスとマイナス」であり、「光と闇」などです。


それは一方だけでは存在できない世界です。

一方が存在するためには、他方が存在しなければならない世界です。


厳寒の長い冬を知る者は、暖かい春の喜びを知るでしょう。

毎日が暖かい地方に住む者は、この喜びを知ることはないのかも知れません。


そうであるなら、暖かい地方へ住む者と、厳寒の地方へ住む者がいるのは、

なにかの理由があるのではないでしょうか?


それとも偶然厳寒の地方へ生まれたのでしょうか?

私には偶然に起こることはないように思われます。


生まれる時代も、環境(家族、親、住む地方など)も、すべて承知で生まれたのだろうと。

そこに生まれて学ぶことが、今回の自分を実現するのに最適であると判断したのだろうと。


しかし生まれると、今まで考えていたことはすべて忘れてしまいます。

それで自分の境遇と周囲を比較して、不平と不満の人生になることが多いのでしょう。


差別される人は、どうぞ勇気を持って生きてください。

もし大きな変革を求めるなら、移転や移民でも可能でしょう。

新しい環境なら、その出自を問わないでしょう。



これは敗北ではなく、被差別にエネルギーを使っていたら、自分の本来の目的を果たすことが

できないからです。

差別する人の非をいかに訴えても、時間だけが浪費されるばかりですから。


差別する人の数は無数です。彼らの考え方を変えることは不可能です。

それなら自分が変わった方が、余程早いと思うのです。


いかに議論をしても相手の非を訴えても、それは壊れた船の浸水を汲み出すのに似ています。

つまり決して終わらない虚しい作業でしょう。

それよりもそんな船を放棄して、新しい船に乗り換えた方が余程楽に生きられるでしょう。


差別する人は、被差別の人から学ぶ必要があります。

彼らは自分からその境遇になったのではなく、古くは帰化人であったり、年貢を払えない人で

あったり、新しくは明治政府が決めた地域に住んでいただけの人なのです。


ですからだれでも被差別の人になる可能性があるのです。

数十万人もの自己破産者がいますが、昔なら彼らに分類されるでしょう。


インドはヒンズー教徒が多く、カースト制度を認めています。

このカースト制度は、次回の転生で上位へ上がれることを保証することで維持されています。

しかし、この恩恵にさえ与(あず)かれない「アウト・オブ・カースト」が数百万人もいます。


また新しいグループとして「ストリート・チルドレン」も数百万人います。

難民は4千万人を数えます。


このように新しい差別を私たちは作っています。

私たちは彼らから、いまどのように学ぶのでしょう?






2006年06月29日(木) 捻挫(ねんざ)


5月16日、車を定期点検に出しました。

「1時間ほどで終わります。」と言われて、近くの図書館へ行くことにしました。


行く途中の道で、舗装が欠けた路肩で左足首を捻挫(ねんざ)してしまいました。

思い切り捻挫したので、「ボキ!」と音がして激痛が走りました。


この足首は30年以上前に岩手県のあるお寺で捻挫して以来、度々故障したところです。

靭帯が伸びているらしく、同じ故障を繰り返しています。


それにしても今回は異常な痛みでした。

後で分かったのですが、骨にひびが入っていました。


フェンスへつかまって、痛みに意識を集中して引き出しました。

真っ赤な痛みを抜き出すことに成功しました。


その後、「光」をイメージして故障箇所へ充填すると、痛みは無くなりました。

そのまま図書館へ行き、1時間後には点検が済んだ車を運転して帰宅しました。


その日から1週間ほどは湿布をしていました。

散歩も自粛していましたが、毎週顔を合わせる人たちも、殆ど故障に気づかなかったようです。


故障直後から約1週間、千葉県九十九里浜、愛媛県松山市、高知県室戸市、長野県須坂市へ行きました。

結構ハードな毎日でした。


いまは元通りになりました。早く回復できて自分でも驚いています。

自分のエネルギーをコントロールできることを実証しました。


もう60歳代ですから、うっかり捻挫すると骨にひびが入ることが分かりました。

これからは、もっと自分を大切にしなければならないと思いました。


それにしてもその故障の直前に、「真っすぐ行くと危ない」と危険信号がありました。

それで曲がってすぐに故障したのでした。


もっとあの時に注意深くしなければいけませんでした。




2006年06月28日(水) 現実とは??


現実とはなんでしょうか?

いまあなたが生きていること。そして生活していること。


そうです。あなたがいま生きて生活していることが現実です。

それはあなたがそう考えたからです。殆どの人がそう考えています。


では他の考え方があるのでしょうか?

そうです。他の考え方もあります。立場が違えば違う考え方になります。


世界中に64億人の人々が暮らしているそうです。

その人々は各々立場が違います。ですから64億人が違う現実の中に生きています。


いまあなたがパソコンを利用して、様々な人たちとコミュニケーションをしていますが、

同じ瞬間に、数百万人ものストリート・チルドレンがお腹を空かしています。


数千万人の人が難民となって、粗末なテントや仮説住宅で生活しています。

同じ瞬間に母親の手の中で、なんの手当てもできないで亡くなる子どももいます。


同じ地球上で起こっている現実は、なんとバラエティーに富んでいるのでしょうか?

飽食で半分近くの食べ物を捨てている現実と、食べることのできない現実が存在します。


もしあなたが「精神世界」などに興味を持っているなら、きっと理解できるでしょう。

なぜこのような矛盾が起きているのかという理由を。


そうです。この物質世界という三次元世界では、相反する2つの要素があります。

それは「天と地」、「プラスとマイナス」、「生と死」、「明と暗」、「男と女」などです。


この相反する2つの要素は、お互いを存在させるためにあります。

「天と地」が無ければ世界は存在しませんし、片方だけでも存在しません。

「プラスとマイナス」が無ければ電気は流れません。

「男と女」がいなければ子どもはできませんし、人類は滅亡します。


違う要素があるので、他方の学びになります。

「生と死」はまるでカードの裏表のように思われます。


生命は一瞬にして誕生し、一瞬にして消えていきます。

関係者の喜びと悲しみとは関係なく、ただ淡々と繰り返しています。


それは海岸へ打ち寄せる波のようであり、朝日と夕日であり、春と冬のようです。

私たちのように80年もの寿命を持つ者もいれば、1週間の寿命の生き物もいます。


無数の生き物のそれぞれの現実を乗せて、地球は自転し、公転しています。

赤道付近では音速を超える速度で移動しています。


それぞれの現実をそのまま見つめ、受け入れなければなりません。

なぜなら、それぞれがその生命と存在を賭けて、私たちに教えてくれているからです。





2006年06月27日(火) 人の目を気にする・・


社会生活をしている以上、他の人を気にしても当然です。

他の人が自分をどう思っているかも気になります。


お互いがそのように思い合っているのですから、そこに一定の基準ができます。

それを「常識」と呼ぶのでしょう。


もしその「常識」を逸脱すれば、他の人の批判や非難を浴びることになります。

社会生活の中で安全に生活するためには、他の人の批判や非難は避けなければなりません。


それで常識という「枠」の中から出られなくなります。

自分がしたいことや言いたいことがあっても、他の人の批判や非難を怖れているからです。


こうしてお互いがお互いを縛りあう関係が出来上がっています。

お互いがお互いを監視しあい、お互いを怖れる関係が出来上がります。


人は自分を認めて欲しいと思っています。

ですからおしゃれもするし、ステキなファッションに身を包みます。


特に女性は、他の人の目線で自分を見る傾向が強いようです。

それで自意識が過剰になるようです。


自分を他の人に気に入って欲しいことは理解できますが、過剰になったら困ります。

自分の基準がどんどん希薄になり、他の人の基準に合わせてしまうからです。


「愛は人に与えるもの」と言う人がいますが、本当にそうでしょうか?

これは中国の儒学の影響でしょう。「滅私奉公」という自己犠牲を強制しているのでしょう。


これでは自分の人生を生きているとは言えません。

本当の自分=自分の心や体や魂が喜ぶ生き方をする義務があるのではありませんか?


自分が自分を幸せにしなくて、だれが自分を幸せにしてくれると言うのですか?

他の人が自分を幸せにしてくれないという不満が、あなたの中にありませんか?


自分が自分を幸せにすることが、唯一の自分の義務だと思います。


2006年06月26日(月) 幸せになりたい・・・

「幸せになりたい」と多くの人は言います。

それでは「幸せになる」という変化がなければなりません。


しかし「今の幸せが続きますように=今の生活が変わっては困る」と言います。

これでは「幸せになる」ことは不可能です。


この矛盾は「苦労したくない」と思っていることが原因です。

ダイアモンドが欲しければ、原石を手に入れるために掘らなければなりません。

原石を手に入れても、磨かなければなりません。


その苦労を厭(いと)うのでは、ダイアモンドは手に入りません。

それで誰かが「完成したダイアモンド」をプレゼントしてくれるようにと神仏に祈っています。


この社会をよく見ると、こんな考えの人が殆どです。

「お金があれば選択肢が増える」と思っている人もまた、プレゼントをもらえるチャンスが増える

と思っているのです。


そのお金を手に入れるために学校や資格や会社や官公庁があります。

お金の多少で幸せを手に入れることができると思っています。


ですから高価なダイアモンドは、多くのお金を稼ぐことで入手が可能になると思っています。

自分が額に汗を流して、泥だらけになって、危険を冒して発掘しようとは思っていません。


そんな苦労をするよりも、快適な生活を楽しむ方がずっと幸せと思っています。

それでこのような矛盾に満ちた社会が成り立っています。


人それぞれの価値観は異なります。

しかしお金を手に入れることが幸せになることではありません。


お金は購買力であり、物やサービスの代価に過ぎません。

資本主義社会とはお金が王様であり、人はお金の奴隷になりました。

それでお金がなければ生きていけなくなりました。

その現実を選択しているのは私たちです。しかし選択を変更することは可能です。


そろそろ現実に目覚めなければ、環境破壊が進んで手遅れになります。

お金の支配という中毒症状から、いつになったら抜け出せるのでしょう?



2006年06月25日(日) 波動の違い

この世界は物質世界です。縦・横・高さがあるので三次元世界とも言います。

物質には固有の波動があります。水にも、土にも、物質のすべてにあります。


もちろん人にも波動があります。波動には波長という周波数レベルが存在します。

テレビやラジオのチャンネルは放送局から発信する周波数に合わせることで受信が可能です。


あなたが使用している携帯電話も、1台1台に異なる受信周波数が割り当てられています。

それであなたの携帯電話にかかってきた電話だけを受信できるのです。


そのことから、一人ひとりが異なる周波数を持つということを理解できるでしょう。

もしあなたと誰かが同じ周波数なら、あなたが考えていることが相手に筒抜けになってしまいます。

また自分が考えているのか、相手が考えているのか判断できなくて混乱するでしょう。


しかしそれぞれの個人の周波数の波長が異なる状態でも、自分の波長に近い人はいます。

その相手とは「波長が合う」仲間になります。一緒にいても心地よいのでグループ化します。


その反対に波長が大きく異なる人もいます。この人とは「波長が合わない」ことになります。

一緒にいると訳もなくイライラしますので、一緒のグループになりません。


周波数の波長が合わないことが、トラブルや戦争の原因にもなります。


では波長を変えることは可能でしょうか?

もちろん可能です。


周波数を低くしたり高くするのは、自分のエネルギーの影響です。

自分の中にネガティブなエネルギーが多ければ、その影響で周波数は低くなります。


反対に自分が毎日心地よく楽しく暮らしていれば、周波数は高くなります。

周波数の高い人がグループ化し、低い人もグループ化します。


ですから自分の周波数の状態を知りたければ、最も長い時間を共有する人を見るだけで可能です。

その人と同じ周波数なのですから。


中には自分は穏やかで平和な人と信じていながら、とても周波数が低い人もいます。

その原因は、自分が気づかないネガティブな感情が蓄積されているからです。


過去につらいことがあれば、その時に蓄積した感情があります。

そのつらい感情にふたをして、記憶を押しやって忘れることで生きています。


その結果、自分は穏やかで平和になったと思い込んでいます。

しかし蓄積した過去の感情は、決して自然に消えることはありません。


本人がその事実に気づかなければ、改善は不可能です。

このように本人が気づかずに、穏やかな仮面をかぶった人が多いのが実情です。


蓄積した過去の感情はエネルギーですから、それを消そうとすれば抵抗します。

気分が悪くなり、イライラしたり、怒りの感情が出てきたりします。


感情の改善はとても自然なことで好ましいことですが、耐えられない人も多いのです。

それは「自分と思っている自分」=感情を理解できていないからです。


その人は多分、まだ感情を開放する段階にないからできないのでしょう。

誰にも学びや進歩のスピードの違いがありますから。



2006年06月24日(土) 1日リラックスワーク


今日は「1日リラックスワーク」を開催しました。

ご参加いただいた皆様に感謝申し上げます。


「1日リラックスワーク」は1日かけてリラックスすることです。

たかがリラックスするのに、どうしてそんなに時間がかかるのでしょう。


リラックスの概念が違うと思います。

簡単なリラックスなら、入浴や好きなお茶や音楽を聞くことで可能でしょう。


深いリラックスは、心身ともにリラックスしなければ達成できません。

ほとんどの病気やトラブルの原因が、ストレスによる緊張が原因でしょう。


深いリラックス状態になれたら、自分がどんなに緊張していたかに気づくでしょう。

リラックスすることで心身の緊張が解けて、血流がよくなり健康が増進するでしょう。


いままで心配や不安で暴走していた左脳は停止し、騒がしかった頭がシーンとします。

右脳が活動を始めて、焦らずあわてずに悠然と生きることが可能になります。


方法は簡単です。

緊張の原因となっている意識を変えることから始めます。


緊張を緩める方法をいくつか繰り返していきます。

溜まっていた感情などのエネルギーを取り出すことも可能です。


こうして終了する頃には、今日も全員が眠ってしまいました。

不眠症などまったく無縁になるでしょう。



2006年06月23日(金) なにが本当??


なにが本当なのでしょうか??

なにが真実なのでしょうか??


誰でもいつかはそんな疑問を持ったこともあったでしょう。

いつの間にか、疑問は忙しい現実に飲み込まれてしまっていませんか?


このような疑問は若い人の特権かも知れません。

現実に飲み込まれた期間が長くなれば、もう疑問を持つことさえ無くなってしまいます。


若さとは現実への挑戦かも知れません。

無謀と思われることに、敢えて果敢に挑戦していきます。

そのバイタリティーが若さなのでしょう。


本当のこと?真実とは?

2500年前にギリシャの賢人・ソクラテスが求めたことでした。


それを叡智と呼び、哲学と名づけました。

その後倫理学、心理学、科学へ発展してきました。



なにが本当か答えられる人はいません。

しかし誰もが疑問を持ちながら生きています。


真実を学問に求めたり、宗教信仰に求めたり、お金などの富に求めるのは、その人の

信念によるのですから、議論しても始まりません。


なにが本当かは自分が決めているだけです。

多くの人は他人の批判を怖れていますので、常識に任せています。


本当とは実は無いのかも知れません。

「私は見る、あるいは私は歩く、ゆえに私はある」とはルネ・デカルトの言葉ですが、

その「われ」の存在を意識する「意識」でさえ実証は困難です。


本当のこと、真実を知ることが困難なら、なにを信じればいいのでしょうか?


それを探すことが人生かも知れません。




2006年06月22日(木) 難しいですか??


先日の旅行中、以前よくお付き合いしていた方とお目にかかりました。

結婚式以来数年間のブランクがありました。彼女は2児の母親になっていました。


「時々HPを見ていますが、内容が難しい」と言われてとても驚きました。

この数年間で彼女と私の考え方=意識の持ち方に差が出てしまったのでしょう。


自分では当たり前のことを、思いつくまま淡々と書いているだけなのです。

「神様のつぶやき」が本になったのも、HPに書いたものを編集しただけです。


毎日他人(自分以外)の現実を見ていれば、自分のことは分からなくなって当然です。

テレビや新聞から真実を知ろうとしても、そこにあるのは他人の現実ですから不可能です。

しかし「幸せは誰かに愛してもらうこと」などと、コマーシャルを信じていては気づかないでしょう。


その結果他人への不磨や恨みが重なり、その感情が本質(魂)へ付着してしまうと重くなって

天国(高次元世界)へまで行くことができません。


こんな状態にならないためには、他人中心の意識を止めなければなりません。

他人中心であれば、自分の中に不平や不満、恨み、呪いの感情が溜まるだけです。


自分に意識を向ければ、すべては自分が原因であることが分かります。

その原因を開放することで、現実は簡単に変わります。


他人や自分が悪いのではなく、変わらないことを変えようとした自分の考え方が間違いだったのです。

そして自分の間違いに気づかせてくれるために、現実が起こっていたのです。


ですから私が書いていることは、難しいことではありません。

難しいと思う人は、多分この考え方を受け入れたくないのでしょう。





2006年06月21日(水) 自分が分からない???


「自分が分からない」という人がいます。

と言うよりも、分からない人が殆どです。


その原因は、「蓄積した感情=自分」と信じているからでしょう。

これを「蓄積した感情=自我=自分」、「本当の自分=真我」と呼ぶこともできます。


蓄積された感情の中に自分の本質(魂)が埋没していたのでは、自分が分かるはずがありません。

自分と思っているのは、「蓄積した感情」なのですから。


「私は感情的でないから、感情は蓄積していない」と思っている人も多いのですが、それは

単に激しい感情でないだけで、感情に支配されていることに変わりはありません。


生まれてから今までの感情が体内で沸騰していても、気づかない人が殆どです。

「蓄積した感情=自分」はエネルギーですから、それ自体が意識を持って行動します。


「蓄積した感情」が自分を支配している事実にも気づきません。

「蓄積した感情=自分」を肯定していますから、「蓄積した感情」を刺激した相手を非難し攻撃します。


自分が理解していないだけで殆ど(全部と言いたいのですが)の人が感情に支配されています。

なぜそれを知ったかと言えば、蓄積された感情を消していった結果、意識が高次元へ飛び出したとき、

今まで「自分と思っていた自分」が感情そのものであったことに気づいたのです。


帰還してからは、もう二度と感情に支配されることはなくなりました。

感じる感情は肉体がある限りあるので、別に不都合はありません。


転生は「蓄積した感情」が本質(魂)に付着した結果、重すぎて天国(高次元世界)へ行けない

ことを言うのでしょう。宇宙ロケットが重力に負けて、地球へ落ちてくるのと同じです。


ですから「蓄積した感情」を解消することは、なによりも大事なことだと思います。






2006年06月20日(火) 生贄(いけにえ)について思う


生贄(いけにえ)と言うと、「なんて野蛮な!」と思うことでしょう。

しかし人間は、生贄(いけにえ)が大好きに見えます。


かって「マヤ文明」などは太陽の光が衰えることを怖れて、生贄(いけにえ)を捧げたと言われます。

生きた人の心臓を取り出して捧げたと伝えられています。


そんな残酷な仕打ちではないかも知れませんが、人間は今でも生贄(いけにえ)を求めているようです。

それは子ども同士の関係でも見ることができます。


「いじめ」がそれです。

自分よりも力の弱いものを「いじめ」ます。

自分と異なるものを「いじめ」ます。


新約聖書マタイの福音書にある「汝の隣人を愛せよ」は、自分たちの仲間の中だけで有効なのです。

ですから異教徒には適用されません。それで戦争は普通は異教徒との間で起こるのです。



「でも私はそんな『いじめ』には加担していません。」とあなたは言うかも知れません。

そうですよね。あなたはやさしいから「いじめ」には加担しないのでしょう。


もしあなたがテレビや新聞の記事で誰かの犯罪を知ったら、その犯人についてどう思いますか?

もしヒットラーやカンボジアのポルポトのように、数百万人も虐殺した人をどう思いますか?


「もちろんとんでもないことをした悪い人だと思います。」と言うでしょうね。

彼らのしたことを正当化することはできません。彼らがしたことを支持することはできません。


でもあの事件で、あなたはどれほどの損害をこうむったのでしょうか?

あなたの家族や親族が犠牲になったのでしょうか?


もしあなたがなんの損害も受けていないのなら、あなたは彼らを鞭打つ権利はありません。

あなたが彼らを口をきわめて、罵(ののし)る権利を持っていません。

もちろんあなたがどう考えようと、あなたの自由なのですが。


私たちは彼らが行った事実から、学ばなければならないのではありませんか?

単に感情で批判や非難するのではなく、私たちが繰り返さないために学ぶ必要があります。


しかしテレビや新聞などのマスコミは、背びれや尾ひれを付けて面白おかしく、騒ぎ立てます。

彼らを自分たちの腹いせに、生贄(いけにえ)に仕立てています。


そして人々はそれに同調して、一緒に鞭を打ち、石を投げつけます。

かってイスラム国では「石打の刑」がありました。

姦通した男女を穴埋めして頭だけを出し、民衆が石を投げつけて殺してしまうのです。

マスコミが彼らを穴埋めにして、民衆は彼らに容赦の無い非難という「石」を投げつけています。


このように人間はとても残酷な存在であると言えます。

「愛」の存在であるとは到底言うことができません。


ですからいつも自分を観察していなければなりません。

せめて自分は「生贄(いけにえ)」に鞭打つことはしないように。



2006年06月19日(月) すぴこんに思う


昨日は第4回横浜すぴこんでした。

最初の第1回東京すぴこんから参加しています。もう3年以上経つでしょう。

札幌から沖縄まで全国で開催されています。


毎回100店ほどの出店があり、1000人以上の来店者があります。

東京すぴこんは2日間の開催になりました。


その人ごみの中で思うことがあります。

誰もが自分の真実を求めているのだろうと。


自分に必要な言葉を求めて、占いや易(えき)、チャネリングなどに興味を持たれます。

また自分のオーラの状態を知りたいと思い、オーラ写真などの列に並びます。

自分の波動を改善したいと思い、水晶や輝石のショップを覗き込みます。


これもまた無理からぬ理由があるのでしょう。

いまの不安から脱出したい、もっと楽しい人生を生きたいという願望があるからでしょう。


それはそれでいいとしても、いつまでもその状態でいては困るのではありませんか?

誰かが救ってくれるとか、なにかが助けてくれるというのは信仰の世界ではありませんか?


「天は自らが助ける人を助ける」と言います。

(Heaven helps those who help themselves.サミュエル・スマイルズの著書より)


「何かを信じれば助かる」のではなく、「どうしたら自分が助かるか」を知る必要があります。


そのためには、「いま」という現実を作る作業を見直す必要があります。

「いま」は自分自身が過去の結果として創造したものです。


ですから「いま」を変えるためには、「過去」との決別が必要です。

その「過去」とは感情のことです。


LORANは過去の感情を消すことをお勧めしています。

過去の感情を消すことができれば、「アセンション」できることを昨年11月に実証しました。


すぴこんが多くの人の気づきチャンスの場になることを期待しています。


2006年06月18日(日) 今日は横浜すぴこんへ出店します。


今月3回目のすぴこん出店です。

名古屋、愛媛に続いて、今回もミニワークショップを開催します。


「光の意識」と名づけたワークショップは、私の意識を「光」の周波数にまで高め、参加者の

意識と繋いで「光」に変えるという前代未聞の試みです。


これを成功させるためには、暴走している左脳にブレーキをかけて安定させ、休止状態にある

右脳を活動させます。そして左脳と右脳のバランスをとります。


すぴこんでは既に4回開催しました。

LORANではもう10回位ワークをしています。


初めて参加する人には分かりにくい点もあると思いますが、理解できなくても大きな効果があります。

来月はセミナーが続き、移転の予定もあり、今回でしばらくはすぴこんへ出店できません。


出会えた人は縁があると思っています。

どんな人と縁があるのか楽しみです。


2006年06月17日(土) ふっと一息・・・


いま7月の「松山ベイシックコース」のツアー・チケットの手配をしました。

20日を切っているので、航空会社の空席を確認してから確定するそうです。

土日ですので結果は月曜日に分かります。


今月(6月)9日〜12日と同じ4日間のツアーを申し込みました。

まだ帰ったばかりと思っていたのに、次回まであと20日もなかったのです。


松山から帰った翌日から「所沢ベイシックコース」が始まります。

富士市からでは開始までに間に合わないかもしれないので、前日羽田空港から所沢へ直行です。

「ベイシックコース」が連続するので、その準備をしなければなりません。


九十九里海岸近くへの移転の手配もこれからです。

「13の月の暦」の大晦日は、7月24日です。(7月25日は暦にない日です。)

その日に向けて、大きな流れがあるのを感じています。


大きな流れが始まったら、その流れに身を任せるだけです。

流れに逆らえば、力尽きて沈没してしまいます。


この年齢になるまでに、どれほど多くの素晴らしい人たちの沈没を見てきたことでしょう。

ある人は日本を代表するスポーツチームのメンバーでした。

ある人は地域のスポーツリーダーでした。

ある人はその部門で地域一番の企業に成長させた矢先でした。

そのいずれもが49〜52歳でした。


私もあと半年気づくのが遅かったら、彼らと同じ年齢で同じ運命でした。

人一倍優秀な人の陥った失敗は、「自己過信」でした。


「そんなに無茶して大丈夫か?」と尋ねると、

「大丈夫、大丈夫。」が口癖でした。


「大きな流れに乗って、流れていくだけでいい」

それ以外の選択はないのです。


2006年06月16日(金) 今朝も雨です。


先週梅雨に入って、今朝も雨が降っています。

田の蛙は大喜びで合唱しています。


蛙はこの季節に産卵し、孵化しておたまじゃくしから蛙に成長します。

小さい体から想像できないほどの大きな声で鳴いています。


いつも不思議に思うのは、秋以降蛙の姿を見ないことです。

体の色も補色になって、目立たないようにしているのでしょうが、どこにいるのか

全く分かりません。


5月〜9月ころまでしか姿を見せない蛙は、私には不思議な存在です。

1年の1/3しか出会うことがないのですから。


地底に別の世界があって、彼らはそこで生活しているのでは?などと想像してしまいます。


先週から今週にかけて、ツアーのためメルマガを発行できませんでした。

今日はメルマガの発行をする予定です。


PM 4:00〜5:00 「親子の豊かなコミュニケーション教室」が近くの公民館で開催されます。

今日は「スキンシップ」のワークを私が講師で開催します。


お母さんと子どものスキンシップの実践は簡単ですがとても重要です。

短い時間ですがきっと楽しいワークになるでしょう。


2006年06月15日(木) 本質(魂)が抜けている??


人が亡くなると、魂が抜けていくことは知られています。

「自分の肉体を見下ろしていた」などと、臨死体験者が語っています。


確かに亡くなれば、魂は肉体から抜けて天国とか呼ばれる世界へ旅立つのでしょう。

では、生きている間は魂は肉体に宿っているのでしょうか?


通常はそのように考えられています。死ぬまでは肉体に魂は宿っていると。

私もそのように考えていました。


しかし多くの人のセッションをしているうちに、そうばかりではないと思うようになりました。

生きていても魂が抜けている人が多いことに気づきました。


魂が抜ければ人は亡くなるとは限りません。

魂が抜けて天国とかへ旅立てば亡くなるのでしょう。


では魂が抜けても生きている状態とは、どのような状態なのでしょうか?

魂は「光」であると思います。それも「高次元の光」でしょう。物質ではないからです。


その「高次元の光」は肉体に宿る前は、自由に飛び回っていたことでしょう。

ですから肉体に宿ることは、とても窮屈なことと想像できます。

つまり肉体次元の周波数にまで、「光」の周波数を低下させて宿っているからです。


これだけでも大変なことなのに、人は感情で生きています。

悲しみ、寂しさ、苦しみ、不安、怖れ、心配、嫉妬、憎しみ、恨み、呪いなどを持っています。


これらのネガティブな思いは、肉体の周波数をどんどん低下させます。

「高次元の光」である魂は、肉体に宿るために必死で周波数を低下させていますが追いつきません。


それで肉体から飛び出してしまいます。これ以上周波数を低下させられないからです。

でも亡くなったのではないので、肉体の外側にいるようです。

小さな子どもが玄関のドアにもたれているような感じです。


しかし、魂がいなくなれば肉体は空き家同然になります。

それでネガティブなエネルギーが外部から侵入して住み込みます。


このネガティブなエネルギーは亡くなった人が置いていったエネルギーです。

まるで引越ししたときに、飼い犬を置き去りにしたようなものです。


こうして多くの(数百もの)捨て犬が住み込んでいる人も珍しくありません。

手足が夏でも冷たい人は要注意です。


このような状態を改善する方法はあります。

もしご希望ならお問い合わせください。


ご自分でもできますのでお試しください。

夜明けに起きて、朝日を浴びること。

毎日1時間は自然環境の良いところを散歩すること。

不安や心配をしないように気をつけ、リラックスをしましょう。

テレビや新聞は不安を増幅するので見ないこと。

他人と自分の比較を止めること。

神仏は頼まなくても守ってくれています。あまりこだわらないように。


あなたの魂が戻ってくれるように、心穏やかに生活しましょう。


2006年06月14日(水) 室戸岬にて


6月11日、松山市の北部、久保の仲間のショップをお借りして「強化セミナー」を開催しました。

終了後レンタカーでJR松山駅へ戻り、メンバーさんと別れて南国市へ向かいました。160kmです。


夕暮れの松山道は、車の通行も少なくてとても快適でした。

途中川之江JCTで高知へ向かいましたが、その頃にはとっぷり夜になっていました。


高知自動車道は四国山脈を突き抜けて作られているので、とてもトンネルが多くて驚きました。

長いトンネルが延々と続いていました。


南国市へ入ると田園地帯でのんびりとした風景でした。

宿泊したホテルはとても大きく、広い部屋でゆっくり休みました。


翌朝、ホテルを出発しようとレンタカーへ乗り込むと、急に大きな揺れを感じました。

車がユサユサと揺れるのです。周囲を見ても誰もいません。

ホテルの前の電線が大きく揺れています。

「地震だ!」


後で室戸市が震度3であったことを知りました。


70kmの道を運転して、初めて室戸岬へ立ちました。

釣り人が一人いるだけの、とても静かな海でした。


ここは弘法大師空海が修行したところとして知られています。

高さ3m余りの岩の上へ座り、瞑想しました。


「ここは私が出発したところだ。」

私の中で声が聞こえました。


「いま私はここから出発します。」

と私の声が聞こえました。


なぜ室戸岬へ来たのか、理由が分かりました。

私は出発点を室戸岬と決めていたのでした。


すばらしい天気でした。太平洋はとても穏やかで無風でした。

すべてが私を祝福してくれているのを感じ、感謝しました。


室戸岬から北上し、徳島へ向かいました。

徳島から松山まで四国を完全に横断し、松山空港へ向かいました。


帰りの飛行機の窓から四国を見ながら、新たな出発が始まったことを感謝しました。










 


2006年06月13日(火) やっと旅が終わりました。



先ほど長野市から帰宅しました。

先方の駐車場へ車を入れたとき、トリップメーターは250.0kmでビックリしました。

往復で500kmと思っていましたが、あまりにもピッタリの数字でした。


甲府の田畑はとてもきれいでした。

黄金色の絨毯(じゅうたん)は麦秋の麦の実りでしょうか。

とうもろこしの畑が延々と続いていて驚きました。

幹線道路沿いに野菜と果物の売店が出ていましたが、焼いたりうでたりしていなくて

すぐに食べられないのが残念でした。

私は大のとうもろこし好きです。


今日でハードな旅が終了しました。

明日からは通常の生活に戻ります。


2006年06月12日(月) ただいま帰宅しました。


6月8日から始まったツアーから、先ほど帰りました。

神奈川、東京、千葉、愛媛、高知、徳島の各県を回って来ました。

運転した車の走行距離は1日目は350km、5日目は450kmを越えていました。

東京〜松山間の往復は飛行機です。


高知県の室戸岬で今朝、朝日を見て来ました。

今日から新しい出発を確信しました。


同じ四国でも松山は田植えが始まったばかりでしたが、徳島は1ヶ月も前に終わっていました。

千葉では、もぎたてのとうもろこしを食べることができてご機嫌でした。


松山では参加者のお母さまが、全員分の「鯛めし」を作ってくださいました。

とても美味しくてびっくりしました。感謝しています。


また明日は長野まで急用のため往復です。往復500km運転です。


とても流れが速くなってきました。


2006年06月07日(水) 明日からツアーです。



明日(8日)早く、千葉県の九十九里海岸へ向かいます。海岸近くのホテルへ泊まります。

9日は羽田空港へ向かい、松山へ行きます。JR松山駅近くのホテルへ宿泊します。

10日は第3回愛媛すぴこんへ出店します。11:20〜11:50 ワークショップを開催します。連泊です。

11日、LORANカウンセラーセミナーを松山市内でショップをされている仲間のところで開催します。

終了してから高知県南国市までレンタカーで行きます。約160kmあります。

12日早朝、70km先の室戸岬へ行きます。朝日を見るためです。

これで予定は終了です。後はのんびり松山空港へ運転して戻ります。夕方の便で羽田空港へ。

そこから富士市まで運転して帰宅です。12日のドライブは約360kmです。



また新しい流れが始まりました。

またと言うのは7年前、電気工事業を廃業し土地建物を売却して、新しい世界へスタートしたときと

同じ状況です。新しいヒーリングを開発したら、動きが始まりました。


あのときは13ケ月間に4回移転しました。忙しかったです。

今回の九十九里海岸行きもその動きの一貫です。


この先はまだ未定です。

私たちは黄河のような大河を流れています。

ですからその流れに抗することはできません。

その流れを信頼し、身を任せるだけです。


いかに自分の力を信じても、身を任せることができなければ滅亡します。

7年前、かろうじて生き残った学びです。


しばらくHPを更新できません。よろしくお願い申し上げます。




2006年06月06日(火) マスコミの報道に思う


いつも思うことがあります。

自分と他人の境目が曖昧な人が殆どです。自分がある人は僅かです。

そのため自分の考えよりも、マスコミの報道や論調を優先しているようです。


「マスコミがこう言っている」が正義であるかのようです。

ではあなたはどう思っているのでしょうか?


自分の感情を基準にしないで、図書館で歴史や民族、文化などの背景や基盤を

調べたうえで話をしているのでしょうか?


もしイランやイラクへの戦争に賛成するなら、そこに住む人たちのことをどれほど

理解しているのでしょうか?


もしマスコミの報道を唯一の情報源にしているなら、それはとても一方的な情報で危険です。

なぜならマスコミはヨーロッパの通信社というところから記事を買って報道しています。

ですから通信社の意見をそのまま信じてしまいます。通信社も商売ですから偏向しています。



マスコミの報道は一つの考え方を絶対視しているように感じます。

「こうでなければならない」という考え方がとても強いのです。


それを基準に「あれはいい、これは悪い」と報道します。

報道される側はマスコミに裁かれているのと同じです。


マスコミの基準はマスコミの都合に合わせています。

ですから強引な取材や迷惑な取材も正当化してしまいます。


夜中でもプライバシー無視でも、マスコミという権限があるかのように傍若無人です。

このような横暴を非難すると、「報道の自由」の侵害と自分勝手な理屈を言います。


マスコミは広告媒体=商売ですから、商品=視聴率を売ってなんぼの儲け主義です。

そんな商売人が「報道の自由」を言うなら、取材拒否があって当然です。

しかし拒否すれば、後ろめたいから拒否したような報道をします。


マスコミの報道があまりにも行き過ぎるため、マスコミと弁護士会などが協議する

「報道と人権委員会」があり、人権を擁護することになっていますが、十分な効果がありません。


なぜなら日本人は「いけにえ」が大好きですから、誰かをみんなでいじめようといます。

民族差別や精神的、経済的に弱い人への仕打ちはいじめです。子どもも大人の真似をします。


それは自らが向上する努力をするより、目立つ人の足を引っ張る陰険な思いに原因があります。

かって「天才・美空ひばりさん」や「天才・江川卓さん」もいじめられました。

天皇家に嫁いだ「皇后・美智子さま」や「皇太子妃・雅子さま」もいじめられました。


この先鋒を担いでいるのがマスコミですから、とても恐ろしいことです。

日本人は報道を真実と信じやすい傾向が強い国民です。ですからコマーシャルの効果は絶大です。


一人ひとりが成長しなければ、このような恥ずかしい傾向は改善されないでしょう。


2006年06月05日(月) 第9回 なごやすぴこん ご来店御礼申し上げます。



昨日、なごやすぴこんが名古屋市の吹上ホールで開催されました。

ご来店いただきました皆さまには、心から御礼申し上げます。


14:00〜14:50 ミニワークショップを開催させていただきました。

50分間あれば、ワークショップを十分できます。

いつもすぴこん会場では30分程度です。


今回は「光の意識」を始めて開催しました。

左脳を停止させ、右脳を活性化し、その上で「高次元の光」にお願いして全員へ光をいただきます。


初めてワークショップへ参加された方は、すべてを理解することはできなかったかも知れません。

今回一緒に出店された私以外の4名は、よく光を感じていました。


6月10日は愛媛すぴこん(松山市)、6月18日は横浜すぴこんで同じワークショップを開催します。


昨日会場を出るとき、すぴこんとは別に開催されている名古屋市付近の方のイベントがあり、

次回の12月9日にワークショップを開催して欲しいとの依頼をいただきました。


おかげさまで、各地で皆さまに提供させていただけることに感謝しています。



いま「気づきのとき」と思います。

人類は数万年〜数十万年の歴史を有すると思います。


この200〜300年間で科学が発達し、産業革命が起き、大量生産が可能になりました。

貧乏だった一般庶民も衣服や住居に困らなくなりました。快適・便利になりました。


先進諸国が恩恵をこうむるために、低開発国の人々は貧困と飢餓に苦しんでいます。

彼らの持つものを奪い取って、私たちは栄華を極めています。


この小さな地球でこのような状態が、いつまでも放置されるていいはずがありません。

私たちは「やさしさ」を取り戻さなければならないと思います。




2006年06月04日(日) さあ、6月が始まりました。

明日は「なごやすぴこん」へ出店します。

7〜8日は千葉県の九十九里浜へ行きます。

9〜12日は「愛媛すぴこん」と松山のセミナーです。

その帰りに、高知県の室戸岬へ行きます。

18日は「横浜すぴこん」です。



新しい「ハートヒーリング」ができて、また新しい展開が始まりました。

7年前と同じ月で、同じパターンです。



前回は13ヶ月で4回引越しをしました。

さあ、これからどのような展開になるのでしょう。



こんな時にはジタバタしても始まりません。

のんびり流れに身を任せて、流れて行くだけです。



ただ動き出したら、しっかりつかまっていないと放り出されてしまうかも知れま

せん。

自分をどこまで信じられるか、試されているのでしょう。


2006年06月02日(金) 幸せと不幸せ



幸せを願わない人はいません。

家族が健康で、仲良く暮らせる幸せを願うのは当然です。


ここまでは誰も異存は無いでしょう。

しかし、幸せを達成するための方法論や考え方は千差万別です。


幸せになるための必要条件が違うことが原因です。

価値観や主義、信条など一人ひとりに違いがあります。



誰からも認められ、愛されることに心を砕く人は多くいます。

世間一般の常識や良識を優先している人も多くいます。

最大公約数的な意見を信じる人も多くいます。


こうして殆どの人の考え方は同じようになります。

みんながそう言っているとか、そうしていることが当然になります。

常識的に生きることが当然であり、よい市民、国民であるという考えかたです。


こうなると、反対意見を言えば社会を敵に回すことになります。

会社で出世することも、社会で認められることも困難になります。

ですから、「長いものには巻かれる」とか「出る杭は打たれる」のように、

反対でも意見は言えない風潮があります。


このような社会での幸せとは、自分の思いや感情を抑圧した上に存在します。

抑圧された感情は病気の原因にもなります。



その反対に、自分が信じるところに従って生きる幸せもあります。

社会的には認められなくても、評価されなくても、自分の心のおもむくままに

生きる幸せもあります。


その生き方を不幸と見る人もいるかも知れません。

でもその人が選択したのですから、それでOKです。


ですから幸せと不幸せは単なる価値観などの相違によることが殆どです。

その価値観を誰にも強制や押し付けをしてはいけません。


社会、国家、民族、宗教などは、この価値観を強制し押し付けます。

私たちはその動きに同調しなくてもいいのです。





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