- 2002年12月31日(火) 12/29 いつだっていいときとは限りません。 苦労もつらさも分け合えば楽しい、そう思えたらいいなと思います。 ++ いまどき、同級生を横並びで見ても、 私が消息を知ってるような友人たちは 自分の好きなように生きているか、 あるいは仕事をがんばってるか(自己実現として、なのかな) という感じで(私は妹たちによれば全社のカテゴリに入るらしい)、 あまり結婚とか出産とかあせる感じはありません。 私みたいに、家族がほしいとかいう希望も、 個人の価値観や生き方の範疇とされる時代となりました。 経済的なたがもなくなり(女性も経済力をもっている)、 出産も先日田中美佐子が43歳で初産だったように、 40までは大丈夫、30代後半なんて当たり前、と 生物的な限界も薄れてきているこのごろ、 ごく普通の光景のひとつだと思います。 好きに生きてる友人たちを、 まぶしく、そしてすがすがしく見ています。 ただ。 年賀状のそう親しいわけでもない知人の近況や 家族の写真に、 なぜか今もグサっときてしまう (親しい人の場合、ああ、元気でやってるんだなと想像力を働かせるのですが) どこか超越できていない私です(汗)。 12/30 「ゼロから学ぶ統計学」勉強中。 この本になぜもっと早く出会わなかったんだろう、と非常にわかりやすい。 87歳でなくなった方からピンクの挨拶状。 こういうのっていいわよね、と母が感心。 12/31 書店の店頭で見かけた「ろんりの練習帳」という本が面白そうだったので購入。 紅白の中島みゆき、富山の第四黒部ダムからの中継を見て。 なぜか父と母と私で合唱。 NHKのプロジェクトXが人気というが、もののない不自由な時代に、 ものを作り、不自由さを克服してきた日本人の先輩たちは、 あの番組とともに涙するのだろうか。 ゲストの開発者たちは映像を見ながら涙していることが多い。 昭和日本。 今はものが行き渡り、ものがある時代、便利な時代である。 オイルショックも歴史上のこととしかしてしらないベビーブーマー第二世代。 ものが行き渡ってものがある以上、 ダイエーやマイカルサティーなど量販店の形態が合わなくなるのもやむをえないだろう(安売りで物を買い込む私はどこかもののない時代を引きずっているのかもしれない)。 ただ、だからといって個別化、差異化という名のもとに売ればいいというものではない。 職人のように、直したり、メンテナンスしたり、 ものを大切にしていく姿勢、が重要な気が、個人的にはするのである。 - - 2002年12月28日(土) 内分泌再試験で40点食らいしか得点できなくて(あちゃー)自己嫌悪というか、勉強法を間違っていたことと不勉強を悔やんでいます。へこむわぁ。時間がそれなりにあったのにね。。 本試験の解答例など作ってる場合ではなく、 教科書を精読すべきでした。。 ちょっとやちょっと合格ラインが下がったところでこれじゃあ無理だから、 年明け早々にも、これが最終と仰ってるセンセイに対して、「再々試験かレポートお願いします」と頭下げてお願いしに行く予定。 だって、、これで打ち切りなら、後の科目に対して一気にやる気なくすよぉぉ。 そりゃ、このテストで60点以上ちゃんと得点できてる人もいっぱいいるだろうから結果として不勉強なのは認めるけど。。 あと、訳の分からない(というか、自分ではその時点で必然性を感じていたのだけれど、今思うと、その手紙を書くという行為に逃避していたのかもしれない。関係者にいかに迷惑がかかるか、と思うと顔から火が出る思いである)長文の手紙を2通推敲して出してる場合じゃなかった、のかもしれない。 でも、でも。不勉強なのは認める。自分がいかに阿呆阿呆なのか思うと情けなく悔しい。 でも、留年はしたくない! しない!したくない!したくない! なんとかなるでしょう(するでしょう)、と心をなだめすかして、次にGO。 - - 2002年12月27日(金) 最近、コンビニでご馳走を探すのがささやかな楽しみになっている。 ちょっと内分泌の勉強から気持ちの上、逃避気味だ。いかんぞ。生化学みたいに出席点考慮ではなく、一問2点で白黒つけるから、これから必死で合格目指してがんばろう!(解く問題があれば一番やりやすいんだけど。。) 病院で、スケジュールにおされると弱い、ただ、もうパニックにもならないで落ち着いて過ごしているから、テストの山がある2月をメドに薬はやめましょう、という話をしたばかりなのになぁ。。 ともあれ、留年しないこと! ++ わたしはせっかちな部分がある。時間をかければ穏やかに済むことが、力づくで、あるいは不器用な方法でさっさと解決したがる。どうしてなんだろう。 ++ 先日、友人が休日ふさぎ込みがちになる、と言っていた。 他の友人も、一人暮らしだと生活が乱れやすい、と言っていた。 もちろん、ひとりだろうとなんだろうと、食べて寝て、仕事や勉強をして、自由な時間には好きなことをして、生きていくということに変わりはない。 しかし、ひとりでは寂しすぎる。リズムがなくなる。 かといって、いつも人と接していたり、良く知らない人の中にばかりいれば疲れてしまう。 ほどよく、生きていきたいものだ。 - ああ、老化。 - 2002年12月26日(木) 「めしや丼」という和食チェーン店で、友人と一緒に夕食。水餃子定食を頂く。野菜がとれるのが良い。24時間営業だそうで、びっくり!煮魚もあるし、また行ってみよう。 昨日は友人と高齢者の財産問題の話をしたし、今日はアルコール依存症の話をしたし、どうもHanakoにあるような華やかなF1世代の裏には家族問題が親の老化とともに迫っていると思うのである(親御さんが結構高齢まで元気で、それに直面しなくて済む場合は幸せだと思う)。 そういう事柄に対して、友人は「世間を知っとくのもいいんじゃない?」と非常に前向きな発言をして、ちょっと元気が出た。 なんか最近、なぜか自分が30過ぎたような気がしてたけど、良く考えたら20代なんだよね。。 昨日は、内分泌の解答集を作って、学年の方々に配布中だ。作ったことで頭に入ってれば良いが。。 - - 2002年12月25日(水) 我がままをいったり駄々をこねているようにしか聞こえないかもしれないけれど、辛い。辛すぎる。 私は自分の中にためておけない質だといわれたことがあるが、そう思う。溜めておけない。ごめんなさい。 +++ 昨晩は勉強が面白くて淡々と、、はかどった、というか解答例をまとめて入力していた。 今日は妙な不安にかられている。 お昼、留学している友人と一緒に。ちょっと肯定的に聞いてくれてほっとする。生きることは難関続きなのかなぁ。。 あ〜あ、やはり部屋をがんばって片付けて、泊まってもらった方が良かった。。 久しぶりにcdを買った。 - - 2002年12月24日(火) 昨日は解剖の総論と循環器の再試験があり、9時過ぎから今日の午後3時半頃まで、久しぶりに思う存分眠った。このあと、現在残す再試験5個、2月まで、進級をかけた気の抜けない日々が続く。 再試験の方は、十分合格点に達してると思われる。本試験と5問共通で、5問別の問題が入っていたけど、まんべんなく勉強しておいたのは良かった(それでもリンパなど、理解が不十分な箇所があることに気付いたけど)。13人受けてたけど、ありゃあ、失礼ながら、全員クリアとはいかなさそうだなぁ。。。 思う存分眠ったところで、おこもりモードで28日の内分泌に向けて勉強です。 - - 2002年12月23日(月) 愛情というのは、そして、何が愛情かというのは、非常に難しい、 そんな気がしている。 少なくとも、一喜一憂するのは、止めよう。デーンと構えること。 電車で、酔っ払いのオジサマがドアに寄り掛かっていて、駅でドアが開く度に危なっかしかった。「酔っ払いってこんなもんや!」とか「喧嘩売るつもりか!」と周りの乗客に向かって言葉を吐きながら、ずり落ちそうになるところを電車の中に引っ張り上げていたけど、車掌さんと話して自分が危ないことをしているのがようやく分かったらしい。 人身事故の元になる現場を見たような気がした。 - - 2002年12月22日(日) 朝、母から電話があった。昨晩留守電にも入っていたが、声がつやつやしていた。父が言ってるより元気だから心配しないで、と。 +++ 仕事と勉強の日。 8時50分頃までウタウタしながら起き出して午前1軒、夜1軒家庭教師(今日は行くまいと心していたが、昨日たまりたまっている課題を見て、ギリギリ間に合うかどうかで、おまけに日曜行かなければ月曜に負担が恐ろしくかかってとばっちりを受けることが目に見えていたので。これは仕事に対する責任感と言うのだろうか?とある友人はそう評してくれたが。。) ともあれ、課題提出に間に合わせるべく、数学は全て、それから化学の有機の構造式は私が猛スピートで解いた(汗)。復習をしっかりしてもらおう。 よって、本年度の忘年会は全てキャンセル(うるうる)。 あと、循環器を理解しよう。 - 生化学試験 / 年内営業は続く。 - 2002年12月21日(土) 住んでいるマンションの前の歩道が、タイル張りにされてきれいになった。 +++ ひとまず冬休み前の授業は昨日で終わり、 今日は年末一大イベントである生化学の試験が行なわれた。 結構、全体的に、睡眠1時間から3時間という感じでがんばり必死モードだった。 まぁ勉強はしたけれど、何分、量が多いので、面白くなって来たところで、正確な理解が不十分なところで試験を迎えた。 蓋を空けてみると、過去問の行列で、センセイが仏に見えた。 が、酵素名とか、阻害剤とか、不正確に解答してた。。 問題も提出したので自己採点がしずらいけど、感覚としては半分弱程度の出来。レポート点も加味されるので、合格ラインをどこに引くかに因るかなぁという感じ。ただ、脂肪酸の辺りなど、もっと勉強しておこうという気になった(他にもそういう気持ちにかられている人はとても多いようだった)。 前期の有機化学が授業と本試験の時にはチンプンカンプンだったけど、それが再試験を受けたおかげで、その勉強である程度理解できるようになり、そのおかげでちょっと生化学に対する親しみが湧いたということはある。 ともあれ、正確で体系だった理解と知識の習得に努めたい。 +++ そのあと、23日の再試験の勉強を友人とする。。といっても、お昼を済ませて、どこが大事かというところで心血管系とリンパ系は全て大事そう、ということを話したところで友人が(私も少々)おねむになり、そこで勉強会は切り上げた。そのあと、ミスドで3時間(ねばって)学習項目を洗ってみたりしたが、解剖で出て来たことやその諮問で聞かれたことが、予め授業で出て来てたんだなということを改めて知った。ま、勉強になって良い。 +++ さらにそのあと家庭教師に。大分自分で主体的に勉強してくれるようになり助かっている。ただ、大学に入学前に提出する課題が山積みになっていることを本人も今日になって(?)知ったようで、締め切りに間に合うかどうか厳しいところである。。 というわけで、生化学の試験修了と同時に即循環器および内分泌に切り替え。 同級生のうち約半分は本日で年内営業修了だろうけれど、私は28日まで年内休まず営業ザンス(笑)。 - - 2002年12月20日(金) 生化学の勉強。昨日は尿素回路を覚えた、と思ったが、解剖実習中に班のメンバーと言い合ってみたらどうも不確かだ。うーん、記憶を濃くしていこう。 いつかは絶対救ってくれるはず、と、今は過去問を中心に勉強中(一昨日、一通りまとめプリントの最後まで到達したけど、ざっと目を通す域を出ていないことを痛感。とにかく、今晩どれだけ頑張れるかだ。 あと、2年前に買った「コンパクト生化学」(南江堂)、コメディカルの学生さん向けの薄めの本なのだけど、字も図も大きめで分かりやすいことを発見! +++ それから私的な愚痴。 学校で周りの若い同級生達が、(私が)もうすぐ人妻になるとか、ジューンブライドとか言って喜んでて、実のところ、聞かれる度になんて応えたら良いのか分からなくて「まだ先のことだけど」と言ってごまかしてる。おばさんっぽく見えるのかなぁとちょっと気にしながら。 +++ ところで、後期に入ってから学年全体的に、猛烈に勉強するようになった。 遊びグループだった男の子達も、連日勉強会をしていたりしているらしい。とにかく熱が入っている。 後期に入ってから、始めの5週間余りは、毎週人体構造学の試験があったことがまずあると思うけれど、今回の生化学も力が入っている。前回の内分泌、組織学で、前者は50人再試該当、後者は同じく70人(一学年おおよそ100人)という恐ろしい事態を迎え、それなりに学年全体としては試験に向けての準備で盛り上がっていたが平均点では通らないという事態を迎え、勉強に加速がかかっているのだ。 ちなみに、次回の内分泌は、センター試験レベルから国試レベルまでまぜてあるらしく、器官とマクロとミクロの理解が必要とのこと。組織学の本に加え、人体解剖学アトラス、発生学の教科書を読んでおけとのことだった。 それはよいこととして、実際に臨床の実習などで動くのはまた違うんだろうなぁと思いながら、準備の不十分さを感じながら、できるだけ進めておこうと思っている。 ++ 覚え書き(現在判明分) 12/21(土) 生化代謝学 23(月) 人体構造論(総論・循環器)再試験 28(土) 人体構造論(内分泌)再試験 1/6(月) 統計 再試験 10(金) 生理学実習テスト? 解剖実習口頭試問(骨盤) 11(土) 組織学総論 再試験 14(火) 生理学実習テスト? 15(水) 生化学実習テスト 25(土) 人体発生学 27(月) 解剖実習口頭試問(背部・下肢) 2/3(月) 解剖実習口頭試問(上肢) 4(火) 神経生理学 13(木) 解剖学実習口頭試問(頭部) 14(金) 臓器生理学? 17(月) 分子遺伝学 20(木) 核酸生物学 21(金) 人体構造学(呼吸器・消化器)再試験 未発表・未定の科目複数アリ - まちがい / お父さん / 実験 / お母さん - 2002年12月19日(木) 何かと自分をまちがえられるのは、自分がちょっと他のところに滑り込んだような気がして、ちょっと可笑しくなることが多い。 今日は、学士編入で入ったと生化学の先生に間違えられて、「文系出身ですか?一つうえに文系出身の人いるけど、学士の人で試験に落ちた人はいないからちゃんとやれば大丈夫ですよ」と励まされたり、若い同級生に「もう入籍したの?(←なぜいきなり聞いて来るのかは不明)名字変わったの?変わると何になるの?」って聞かれたりして、なんかおかしかった。 +++ 夜、テレビで面白いこと放送してた。お母さんとお父さんは離婚しちゃったけど、がんばりすぎている娘の仕事をがんばり過ぎて来た父が応援して、お父さんが今は娘とお父さんが月一回デート(って一緒に買い物とかに出かけてるの。)してるんだって。 成人して、自分が仕事で追い込まれたことを通して初めて、父の姿を理解できたんだって。 なんか分かるなぁって思う。私も、母の気持ちを理解するには何年も、或いは10年20年のギャップがあったり、恥ずかしながら父の障害(父は難聴なんだ。補聴器つけてまぁ普通に生活してるけどね。それをバネに、大学ではオール優だったんだって。不十分なところも沢山あるけど、すごい努力家で尊敬してる)をおぼろげながらも理解できたのも、大学入って、文学部で難聴の友人が出来てからだもん。そういうことってあると思わない? +++ 実験でぽかミスをした(と思う)。おまけに、廃液を間違ったところにちょっとだけど流してしまった。私は平気な顔をしていたけど、私が流して大丈夫と言ったため流してしまった同じ班のメンバーは、間違いに気付いてから思うように実験が進められていないことに気疲したのか泣いてしまった。そのことは他のメンバーが察しで、言わないでおこうと言っていたのに、無邪気に口にしてしまったこと、周囲の人の気持ちを思い遣った行動をとるべきだったとものすごく反省。 +++ 母の入院について、妹とちょっと話した。病状を説明してくれるよう、母に頼んで、家族で話し合おう、と主張する私に対して、妹は言った。誰もあんたみたいにストレートに話してくれと言って心を開く訳じゃない、と。言えるなら言ってる、本人が言うのが辛いから言わないんだ、父がどの程度把握してるかまず確認しよう、と。 母は、入院の前々日電話で話した時も、明るくはりのある快活な声を出していた。優しく、良いお母さんでいたいんだろう。6年前ほどに私が泣いて電話した時に、「いつまでもお母さんはあんたのお母さんなんだから甘えていいんだよ。お母さんにもお母さんがいて、甘えてるんだよ」と言った時のように。その時、どれだけ胸がツンとしたことだろう。母は、おそらく、自分の母に甘えてもきたと思うが、自分の本当のお母さんでないと言うことで小さい時から溝を感じて来たに違いないのに。それなのに、お母さんにもお母さんがいる、と言った母。お母さんには本当のお母さんがいないんだ、と幼稚園の時食卓を囲んでいるときにいきなり泣き出した母と比べて、包容力が格段に違うことを私は感じた。 母。 なぜかこの日記の、ひとつの主要なモチーフとなっている。 - - 2002年12月18日(水) 12/17(火) そろそろ本腰入れて勉強しなきゃ、、と思いながら、バイトから帰るとバタンキュー。またまたバイト中、瞬間的にうとうとしてしまい、金切り声で「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と起こされたしな。。良く眠っている。疲れてるのかなぁ。 12/18(水) 朝から解剖実習。骨盤の骨学と、臀部の筋肉と神経の観察だった。思ったより時間がかかった。 - 母 - 2002年12月17日(火) 母がまた昨日より入院している。 娘達にも心配をかけるまいと、黙っておいてくれと父に言ったらしい。 急を要することではなく、10日ほどで退院できるとのことだが、 一番心配なのは、母が、自分の状態や気持ちを全て自分の中で処理しようとしてしまうことだ。どういう検査を受け、どういう薬剤投与を受け、どういう状態なのか、ということは、母しか把握していない。 それでもいいのかもしれないが、周りの者も把握しておいて良いのではないだろうか、などと思ってしまう。 ただ、これは、医療職を志しているものとして、患者本人と家族や周りのサポートのこと、あるいは周りに親しい人がいない場合のこと、など考えねばならないことだ。 孤独、いや、一人でいることが当たり前になってしまえばそれは普通に耐えられることなのかもしれないが。 ひとり、という深淵。医療ではどうしようもない深淵。 - - 2002年12月16日(月) 一旦朝起き出してから、勉強中の休憩で一眠りのつもりがぐうぐうと10時前まで眠ってしまった。あちゃー。 ゆえに午後出勤。12時52分に学校について、4分で着替えて、腹部の試問へ。今日はかなり癒し系。腹部動脈と腎静脈、鼠径管について尋ねられた。恥ずかしながら、鼠径管を覆って保護している筋肉が外腹斜筋だと今日まで知らなかった。。 次回の解剖実習の手引書の和訳をプリントアウトしてから帰宅。久々に時間が早かったので、駅まで歩く。 これから解剖の予習と生化学の試験の準備。 ++ 妹から連絡があり、母が今日から入院したようだ。妹も驚いていた。 急を要することは無いが、、とのことだが、一番心配なのは、 母は、心を閉ざしがちで、何でも一人で抱え込みがちなところである。 心を開いてもらいたい。 - ずるい? - 2002年12月15日(日) 午前中と夕方と二軒家庭教師。朝はギリギリまで眠って、家庭教師先では昨日に続いてまたまた「お姉ちゃん、お姉ちゃん」とたびたび起こされる始末。合間には美容院でカット。そのあと、また夕方の仕事まで少し眠る。疲れてるのかな。最近、ちょっと運動不足なので、こまめに身体を動かすようにしよう。 昨日勉強会をした折に、再試スパイラルにはまっている私のことを、こんなものに本気になって全力投球してられるか、と、試験の準備を本気でやってない、舐めてかかっている、ずるい、と学士メンバー達が評していると聞いた。一部あたっているところはあるが・・確かに教養はどうしてまたせねばならなぬのかなど、思ったものだが・・ッて舐めてるだけじゃないんだけどなぁ。。その他は時間確保の難しさ、その中でも瞬発力を出す体力の無さ、変に自分を責めてしまうところ、、こういった要素も絡んでいる。あと、言い訳になるが、10月は調子崩しているところに忙しくなって、回復が遅れ、時間と気分的に勉強に手がつきにくかったというのもあるな。。 でも、ずるい、か。うーん。余裕かましているように見えるのかなぁ。 このごろは、逃避なんだか疲れているんだか、とにかく勉強しなきゃと思いながらよく眠っている。うーん。。睡眠は確保しなきゃならんが、勉強がはかどっていない。。ほんとうに、もっと余裕が欲しい。 お客さん用の敷き布団や、ホットカーペットカバーを揃えた。 あと、以前ポーラ美術館のミュージアムショップで買ったコットン&セルロース製のキッチンワイパーはすぐれもの。食器汚れも素晴らしく良く落ちる。商品情報、販売ショップはこちら。 - - 2002年12月14日(土) 朝、出発のギリギリまで惰眠をむさぼってから家庭教師へ。十分眠っていたはずなのに、家庭教師先でも寝言までいってうつらうつらしてしまう。 午後から生化学の勉強会。過去問の解答を確認しあったという感じだった。みんなが良く理解しているので良い刺激になった。 今週は大学から帰って来てから良く眠った。そろそろ本腰を入れて生化学のネジを巻きます。 - 補 / 生活費・言葉、アメリカで(つづき) - 2002年12月13日(金) 今朝、未明から起き出して生化学の勉強の予定が・・洗濯物を手洗いして干すのに結構時間がかかり、大してはかどらず。おまけに、お弁当を作ったのに、電車で眠ってしまい、慌てて降りた時にお弁当とお茶を置き去りにして来てしまった(汗)。あーあ。。お財布落とすよりはいっか。。 ++ とある読者の方より、ワタクシが話しているのは、NHK的標準語というより、イントネーションやスピードなどの点で島根的標準語ではないか、方言より標準語を好むくせに英語は嫌いだったというのは権力という観点から矛盾する態度ではないか、という御指摘を受けた。しまね的標準語..そうかもしれない。一度だけ広島出身の人に「近い」とずばり「松江か津和野か」と当てられたことがある。聞く人が聞けば、イントネーションから判別可能らしい。我が姉妹はあまりカツゼツがよくなくて、くぐもったような声と話し方をしてるのもあるし。あと権力についていえば、おそらく私は権力、というか権威に弱い人間である。学歴とか、社会的立場とか、そういうことに対してすがるところのある、弱い、いささか自助努力と判断を怠るところのある人間なんだと思う。そしてまた、母の価値判断の態度に非常に似ていると思う。 英語についていえば、下に書いたようなこと・・権力を感じて小学生のアメリカ滞在中に英語を話そうとしなかったというのは、まず何よりも権力を感じたから、というより、間違えることを恐れたという方が実は近い。学校への登校初日、美術室に鉛筆を置き忘れた私は、日本でならったとばかり「ペンシル」と級友にいった(忘れるforgetは知らなかった)。が、それは通じなかった。描くまねでもすれば良かったのかもしれないが、それはキムという名の級友には「ペンシボー」と聞こえ、彼女は怪訝な顔で「ペンシボー?」と尋ね返した。「ペンシル、ペンシル」と私は繰りかえした。が、通じなかった。 そこで私は、それ以上日本でならっていったことばを話そうとするのがいやになった(新しく学ぼうという態度に欠けていた)。そして、同時に、日本でアメリカからお客さんが来た時、日本語を一切交えず父と母が自宅にて接待を卑屈なまでに一所懸命していた姿が思い出され、どうしてアメリカ人の人は日本に来たら英語で接してもらえるのに、日本人がアメリカに来てもそうはいかないのか、と子どもっぽい真直ぐさで腹が立ち、それ以上英語で話さないことに決めたのだった・・ これが私が小学生の時アメリカで英語を話そうとしなかったいきさつである。 ++ 先日書いたことの補足。 なぜ生活費を親から出してもらうと妹(上の妹)から文句が出るのか。 それは、妹が大学の被服学科を卒業したあと、パタンナーへの夢を実現すべく、服飾デザインの専門学校に入学した際、学費の100万だかを自分のバイト代で払ったことによる(親に文句いわれたくなかったんだろう)。そのくせ、私はのうのうと修士に入ってからも学費など親に当然のようには出してもらってたし、さらに留年したりしてたから、妹にしてみればだらしない姉だったことだろう(留年に関していえば、ノーベル賞を受賞した田中耕一さんが、やる気が出なくて大学2年の時留年を経験したということを今日テレビで始めて知った。人生、紆余曲折あっていいんだな、なんて思った)。 まぁ、そんな妹も卒業してから昨年までは服飾関連で働いていたけれど、観念したのか、昨年の11月から公務員を経て現在は半官半民みたいな会社で一般事務職員をやっている。 その他にも、一応私が今の学校に入り直すにあたって親が目くじらを立てなかったことの一つに、私が相応の貯金をしていて(入学時で500万円程度ありました。勤務年数の割に多い額と思います。放漫経営(?)により、現在は約半分になってるはず。ちなみに、6年間完全に自宅外で自弁しようと思えば、1000万円ほど必要と聞きますし、実際そうでしょう)もちろん、それはそれで親に生活費や学費を出してもらう大学院生をしながら、その間働いていた分は自分用にためていた、という、親の経済力に立脚したものではあるが)、生活費は自分で出すと言ったし実際少なくとも今は、自活していることが大きい。独立している、と親はみなしていて、安心しているし、それを少しは周りに対して誇りにしていると思う。 ++ ことば、出雲弁に対してアレルギーのあった私は、当然関西弁も何年も苦手だった。今は、うまく使えてはないけど、ツールの一つかなって思ってるけど。 そして、英語教員をやってたけど、アメリカに滞在していた小学生の時の私は英語嫌いだった。詳細はまた後日に書くことがあるかもしれないが、とにかく、英語がアメリカ合衆国という国の権力(政治的、経済的)を感じさせていやだったのだ。小学校2年にして、鋭い(?)子どもだったのかもしれない。 いや、一応、日本でアンビック(現イーオン)なる英語学校の子ども教室に通っていたし、登校初日には勇んで英語で話そうとしたのだけれど。 ともあれ、当然そのような子どもは学校で問題視され(特にアメリカでは、沈黙は美徳ではなかったので)、耳が聞こえないのか、から始まり、知能が低いのではないか、問題がある子どもではないか、と通っていた公立小学校の校長先生から両親宛に手紙が来たりもした。それでも子どもの我々にはおとがめが特になかったのだから、母はどうやって返事したのだろう。 あとになって、つまり、大学生になってから、少数言語を学ぶ旅行好きの友人が出来てからそのことを話したことがあった。彼女は、今までの友人と違う反応を示した。それは庇護されていて、話さなくても安全に生活できたからだ、言った。その通りだった。英語はパワーを感じさせて嫌いだと口を聞かなくてもスクールバスは朝になると私を連れて学校まで行ってくれたし、行けば午前中は英語を母語としないクラスでの授業が保障され、人種差別は特にない落ちついた学校であった。貿易黒字が問題視され、ジャパンバッシングが始まる以前で、それでもニューヨーク州の地方都市にもごくふつうにスーパーにはキッコーマンの現地工場のお醤油と、日清のカップラーメンが並び、サンリオのキティーちゃんのキャラクター商品がひっそりと流通していた。中国人か日本人かとしょっちゅう尋ねられたが、それを理由に子どもの世界で私は不快な思いをしたことはなかった。英語を母語としないこどものための教室には、世界地図がかかげられ、生徒の出身地にはその国旗がピンで止めてあった。バングラディッシュ、ベネズエラ、ナイジェリア、イエメン、韓国、その他数十ヶ国の国旗が踊っていた。日本人の少ない町だったので、お米は韓国人の経営する小さな食料品店でカリフォルニア米を買っていた。乾物の独特のにおいがした。お味噌は手に入らなかったので日本から送ってもらっていた(同じ時期に、日本人の多い大都市に行くと、お豆腐でも油揚げでもスーパーで手に入れることが出来たのは衝撃だった)。韓国の人の顔を見ると、どことなく黒い髪とモンゴリアンの風貌が懐かしかった。日本語の新聞は、1週間遅れで送られて来て、幾つかの日本人家庭の間で回し読みしていた。私も、日本語の新聞が来るのが待ち遠しかった。ニューヨークだとか、サンフランシスコだとか、大都市みたいに日本語の本を売っている紀伊国屋がなかったから、持っていった岩波少年文庫を、繰り返し繰り返し読んだ。現地に住んでいる日系2世のお兄さんは、日本語は流暢だったけど、読むのは骨が折れるといって、私が小難しい本を読んでいると驚いた。 そして、英語を話さなくても、子どもは、話したいという欲求を学校にいる間ちょっとおさえていれば済み、校長先生から両親が注意の手紙を貰うだけのことで、生活は安泰だった。週2日休みがあって、週末旅行にしょっちゅう出かけ、しょっちゅうホームパーティーがあった。輸入牛肉など日本ではまだ流通していなかった頃で、お肉が安くてど〜んと食べられるのは、食べ盛りの私には嬉しかった。美しい(そして人と調和した)自然に囲まれていた。 その点、少数言語を話す者は、往々にして経済的、社会的、政治的に弱い立場に置かれ、世の中によく流通している言葉を話さないと生活ができないことがままある。日本語を母語とする者が、日本語だけで生活できることは、幸せなのだ。 ことば、言葉。 - - 2002年12月12日(木) 生化学の実習は、実験を5時半くらいまでやって、そのあとデータの処理(得られた数値をプロットしてグラフにする)、さらに先生による講議形式の解説があり、8時過ぎまで学校にいた。あまり違和感なくいたけど、よく考えたらこの時間までいたのは始めてだった。 終わると外がとても寒かった。 夕食は、野菜沢山のポトフ(レトルトパウチ食品)、きんぴらごぼう(お惣菜)、べ−グル(ポール・ボキューズのパン)、みかん。野菜不足を感じて野菜を沢山とった。 このレトルトパウチのポトフはなかなか優れものである。コンビニで買った明治製菓の製品で、大きめの野菜野菜が120グラム(一日の理想摂取量の約1/3)が入っている。キャベツ、にんじん、たまねぎ、じゃがいも、さやいんげん、牛肉が具で、248円だった。レンジで2分あたためれば食べごろだ。ほんと、レトルトパウチがよくがんばってるぞ、というくらい入っている。ただ、これだけとって一日の理想摂取量の1/3ということは、いかに野菜は沢山とる必要があるか、ということである。ちなみに、90キロカロリーしかない。ちなみにお昼は学食のおにぎりセット、朝はポールボキューズのレーズンコッペパンとチーズ、ヨーグルト少々、みかん。 例のごとくそのあと3時間ほど眠って、これから少々生化学の勉強をするつもりだ。 - 解剖のある水曜日。 - 2002年12月11日(水) 朝から解剖。8時10分の最寄り発の電車に乗っても(つまり8時に家を出ても)9時からの実習に間に合うことを知ってしまった(汗)。前回の消化器系の血管の走行の確認の続きで、今日は、消化器各器官と、腎臓、副腎を確認した。腹壁後部の血管の走行には確認に相当手間取ったが、4時半には駅についていたし、ラッキー(それでも帰ると疲れて2時間は眠ってた)。 それから、Sonyの携帯は壊れやすいらしく、今朝もいきなり調子がおかしくなった。auショップで直してもらおうと帰り寄りかけたらいきなり直るんだもんなぁ、勘弁してほしいよぉ。ちなみに、同一機種を使っている妹は、すでに修理にだしてまともになっていると言っていた。 デパ地下に入っているパン屋さんでパンを買って帰宅。堅いフランスパンが好きなんだよね。ここではたと、母のことを思い出した。母は、結婚してから暫く(勤めを辞めて、かつ自分のお給料の貯金がなくなるまで)毎日デパートで買い物するのが当たり前だと思っていたらしいが、確かに、帰り道の便利な場所にデパートがあれば毎日食料品なら買うのに寄っちゃうよね。さして高い訳じゃないし(コンビニよりやすいし、モノも豊富)。あ〜あ、どこかしら母の生活パターンに似てるよ。やはり生活を共にして来た親子というんでしょうか。。 帰ってからパンとクノールカップスープと、生野菜サラダとゆで卵で夕食(ちなみに、朝は100円均一だったキツネうどん、お昼は大学の食堂で酢豚の定食400円なり)。そのあと、2、3時間眠って、今は目が覚めて来て生化学の過去問で勉強しているところ。もうちょっと過去問を集めよう。 ++ 昨日は、自分のことばかり考えて、日記にも疲れてくると云々とか書いたし、どのように「私を見て」と思うのか自分を見つめてメールを送ったりしたけど、一日近く経って来てから恥ずかしくなって来た。「わたしわたし」ばかりなのが未熟に感じられて(これでも、だいぶマシになって来ていると思う。去年に比べても)。でも、ちょっとしたメールを読んで、思わず涙してしまった。うれし涙。心が通じ合っているのって嬉しいし、心が暖かくなる。 - リサイクル好き - 2002年12月10日(火) うまく身の回りを片付けたり、真にモノの有効利用をしているとは言い難い私だけれど、リサイクルは好きである。 家具で言えば、ローチェスト、棚二つ、テレビ、洗濯機、鏡、電気スタンドは、養子に頂いた(あるいは買い取った)ものである。 養子に出したものでは、今年度は、ホットカーペット(1畳用)、自転車かな。 前の持ち主がいたものは、由来の物語がまた面白く感じたりする。 新品じゃなきゃいや、という人も世の中には多いのだろうけど、私は抵抗がない。 なぜか。まず勿体無い。使えるものを捨てるのは、モノが泣いているような気がする。 それから、小学校2年生の秋から1年間、アメリカ合衆国に滞在した時、ガレージセールを経験したことは大きい。モノは買うもの、という観念はそこで打ち砕かれた。家具は一通り全て、主にちょうど入れ替わりで帰国するご家族から譲って頂き(だから1週間は家具なしで寝袋を貸して頂いて家具が来るのを待った)、帰国時にはガレージセールで全て売り払った。意外なものも欲しがる方がいると言うこともそこで知った。絵本なんかも人気だった。 次に、文学部の院生時に火災に遭った時、救援の手を方々から差し伸べて頂き、家財道具をほぼ頂き物で揃えてしまった経験も大きい(クラブ活動などでうまく人脈を持っていると、自宅生が入学後何年か経ってからに下宿を始める場合、家財道具を一切譲ってもらって済ませることは十分可能なようでした)。ちなみに、そのときの冷蔵庫やローチェスト、アイロン、テレビなどは、一旦就職した時に気前よく(?)ばらまかせて頂きました。 まぁ、引き取り手がいなかったとしても、声をかけるだけかけてみるというのが私の主義です。 ++ 今日は、ミカエリスメンテンの式の追実験となるような酵素反応の速度の確認実験をした。 帰りには、しょうゆ味の煮物を食べたくなって、 デパ地下で豆藤のお惣菜セットを買って帰る。400円の幸せ。 気分が落ち着きつつあるこの頃とはいえ、いっぱしに研究者として活動や発言している同年代の方の姿をみると、 あぁ、大したことはしてないなぁ。。何してるんだろ、、 ってちょっと落ち込まないでもない。 今はもう別の道って割り切ってるけど、3年くらい前は、文学部の同窓会が出してる研究室便りみたいな欄見て、悔しくなって泣いたもんな(汗)。 あと、(自分では)大分克服しつつあると思うのだけど、「私を見てみて。私を愛して。私のことを可愛いといって」という子どもっぽい涙が疲れてくると頭をもたげる。昨日も、自分でホームパーティーしたいと思ったくせに、連想でいろいろ思い出しちゃって、落ち込んで涙まで出て来たもんな。私ってひどすぎて可愛くなくて人前に出せない人間なのかなぁとか、価値がないのかなぁとか。青春を返してとか(笑)。 実際の私は、そこまで悲観すべき状態でもない、のかもしれないのだけど。 自信、かぁ。むつかしいなぁ。過大なのも困るけど、なさすぎると、ホント私なんか飲み会に顔出すのさえ気が引けちゃうことがあるから。。 バランスとって生きてくのには、まだもうちょっとかかりそうだ。 - 生活の創意工夫 - 2002年12月09日(月) 冬の休暇中に、一時帰国する旧友が2、3日わかこ邸に滞在することになっている。日々、バタンキューで、あまりに散らかっているので、今週一杯は差し当たりテストがないのを幸いに、少しずつ片付けておくことにした。まずは、買ったばかりの布製の釣り下げ型ストックホルダーを二つ早速吊るして、冬の服を納めてみた(通販で頼むと一つ2480円から3480円するのですが、大手スーパーのインテリアコーナーで買うと6段の棚がついて1580円、3段なら980円です)。うーん、私には着てない服が多すぎる。。安物買いをすぐしちゃうし(食料品でも日用雑貨でも、すぐまとめ買いしてしまうのだ)、頂き物は頂くし(服も然り。妹からお古を大量に貰っている)、かといって、バザーやフリマに出す以外は処分しないので、貯まる一方。買い物は精選して、一つ一つ使い切ることが肝要かな。。 ともかく、持っているものを可視化することにした。見えるようにすることで、何があるか把握しておくようにするのだ。 その他わかこ邸に多いのは、書籍と紙類だが(あと買いだめしてある食料品)、書籍は教科書以外は最近は余り増えていない。これも、段ボール製のストッカーを買うのは勿体無いので、段ボール箱をうまく利用することにする。これなら破れてもすぐゴミの日に出せるし、次のも作れるし、今度引っ越す時にも便利だ。 ともかく、年間100万円生活目標に!だ。 居室がすっきり片付いて、じゃらじゃらものを持っていないひとは、ホントすごいと思う。 あと、破れた靴下、ストッキング、そして空きペットボトルを利用して、無印良品で大袋で買ったドライ・ラベンダーを少しずつ入れ、芳香剤を作る。ひとまず5個作って、大学のロッカーや、衣類の間、TVの上に置く。手を動かして工作したい気分になったのは、芸大志望の教え子が、カレンダーを手作りしていることに触発されたのもあるかな。以前の隣人も、カレンダーや身の回りのインテリア、アクセサリーなど、うまく自分で作っていたことを思い出した。何でも買ってそろえる必要はない。 まだまだ片付ける必要があるけれど、なんだかちょっと嬉しい。 あとは、寝袋はあるのだけど、お客さん用にお布団があるといいかな?ってそれはものを増やし過ぎかも(汗)。ともあれ、どんどん改造して住みやすくする予定デス。 - 12/7-8 - 2002年12月08日(日) 12/7(土) 細胞生理学の再試験を受けた。教科書の「細胞生物学Essential」を改めて読み、その内容の濃さに驚いた。ただ、途中で思うように準備できていないことにいらだち、ちょっと逃避モードに入って殿に愚痴メールを打ちまくったり(ひとまずいつも感情を受け止めてくれてありがとう)、さだまさしの自伝的小説をドラマ化した、NHKの夜の連続ドラマ「精霊ながし」の再放送をまとめてみて物悲しくなって泣いたりしてた。朝も行きの電車の中で鬱々隆年しそうになった時どうしようかとか、辞めるべきかとか、考えてたし。。 それでも何とか受けて、客観式だったので早速友人達と食堂で自己採点してギリギリ60点ちょっとありそうなのを確認した(落ち着いて勉強していれば!もっと点が伸びたはず。。汗。間違えたところは復習して理解しておこう)。これを落とすと留年だ、と脅えていたし、おまけに、この細胞生理学が通らないと統計学の再試験を受けさせてもらえない(?)と先生から言い渡されていたので、ひとまず、終わって非常にほっとした。 家庭教師の教え子には、テストが非常に多いこととカリキュラムが詰まっていて終わる時間が読みにくいことを説明し、週1、2回でいいとの了承を得た。良かった。家庭教師の帰り、またまたJRで寝過ごす。有り難いことに寝過ごしても今のところ京都駅で目が覚めているからいいけど。。帰ってから次の朝まで、ぐっすり眠った。 12/8(日) 朝、近所の家庭教師の時間までぐっすり眠った。買い物して、棚に吊るす布製の収納ホルダーを追加で2個(通販やお洒落なインテリアショップの半額で同じものがスーパーでは入手できる)、それから食料品(野菜、卵、大豆製品、それから100円ショップに対抗するかのように100円均一になっていたレトルト食品)大量に購入して歩いて帰宅。歩くのは気持ちがいい。 2時からレトルトのカレーとみかんでお昼。 ちょっと生化学の試験資料に目を通してからもう1軒家庭教師に。 帰省の日程も決めた。 ++ 自分の感情や体調などをコントロールする術を身につけるための術(解決法)を身につけルことが学生期間にはできるし、し終えておくべきこと、と金曜日に学士で入って来られた方が仰っていた。そうだな、と思うと同時に、人を見るまなざしが暖かい方だな、と思った。 それから、なんだかんだと若いクラスメートにも支えてもらってる。理解力とか、刺激になることも多い。ありがとう。 - - 2002年12月06日(金) 金曜日、何をしたという訳でもないけれど、解剖の観察には何か疲れてしまった。なんだか4人班というのは人数が多いような気さえしてしまう。体力的に大変だし、テーブルや教室のスペース、御遺体の用意など、現実的には無理だと思うけど、一人で自分の分は責任持ってみない限り(それかものの分かった指導者についてみせてもらうかしないと)身につかないなぁという気がしている。 防腐と防臭のために解剖実習室では冷房が効いてさえおり、物理的にストレスなんだと思う。 ともあれ、学校で勉強するのを止めてゆったりと駅まで歩いて(帰宅してみると、JRが人身事故で止まっているようなので、さっさと帰って良かったと思った)デパ地下でチキンの香味上げとサラダを買って帰り、ちょっと豪華な気分で夕食。なんかお腹にまだ入りそうだったので、デザートに、冷蔵庫に1ヶ月半前からあったアイスクリーム(エスキモーの「メープルバニラ」100円で、なかなかいける。1カップ140キロカロリーなのも嬉しい)。これから試験の準備。G蛋白の理解が必要かな。 - - 2002年12月05日(木) 酵素を反応させる生化学実習の実験は、反応液を何度か作り直したりして、結構手間取った。ただおかげで、濃度が違うと使い物にならないことは良く分かった。 昨日生活費について書いたが、、自分で(ある程度まで?)用立てねばならぬということであって、派手に遣えはしないが、困ってると言う訳ではない。こうして学び直すことができていることは恵まれているとも思う。ただ、愚痴ったところ、10年来の友人がどうしても困ったら100万か200万は用立てる、出世払いで返してくれ、と申し出てくれ、有り難いと思った。 昼、級友達と話していて、まだまだ細胞生理学の試験の勉強が不十分であることに気付く。飲みのお誘いはお断りして(しくしく)、チャンポンで幸せを感じてから帰宅。帰宅後、一眠りしてから今起きたところです。今から準備。前期、暗号でしかなかった言葉が、最近ようやく意味をなして来たことを喜びましょう。 - 生活費 / わがまま - 2002年12月04日(水) またテストに落ちた(組織学)。十分な知識を身につけていないことは事実であるから勉強するにやぶさかではないが、勉強時間を思うように確保できなかったことに悔しくて泣いた。最近は勉強から逃避なんてしていない(してられない)。ちなみに今回、約100人中合格は31名で、平均点は54点。私も平均点ジャストである。あともう少し勉強を積み重ねておけば良かったのだろう。ついついまた若い同級生に愚痴をこぼす。こちらの感情を受け止めてくれてありがとう。 生活費を稼ぐのは、私のような体力のさしてない(?)人間にとって結構大変で、帰って来たらもうそのままバタンキューだ。今日は予想以上に解剖が長引いたので、家庭教師、遅らせて下さいと言わずにもう今日はキャンセルさせて下さいと行くのを止めてしまった。今月は7日、23日、28日と再試があり、21日には生化学の本試験がある。漏れなく通らないと冗談にもならない。もう、自分のことを優先しよう。 とはいえ、私だって以前の大学は両親に出してもらっていたのだし、留年した時だって生活費や学費のことなんざちょっとも考えずに当然のようにお金を出してもらった訳で、えらそうなことは言えない。 今だって、自分の意志で入り直したんでしょ、しんどいなら辞めたら、と言われれば終わりである。 また、自分の時間を確保したいがために親にさり気なく生活費を出してもらうことについて先月打診してみたが、「貯金があるんでしょ、それまず遣いなさいよ」「出したら有紀ちゃん(妹)たちがうるさいじゃない。」と、目配せをするような口調で素っ気無く却下された。 まぁ、自分で選んだ道なんだ、まずは貯金のさらなる切り崩しですな。 解剖のあと、何かしら歩きたくなって駅まで30分かけて歩いて帰った。 ++ 実習など休みがちな同級生に対して。 だらしないとか(私もテスト落ちまくってるからそう思われてるかと思うと余計悔しい。マイペースな部分もあるからなんとも言えないけど)わがままとかいう意見、構い過ぎる必要もないと言う意見、様々ある。しかし、物理的に起きれない分についてはフォロー可能で(する必要が)あろうし、やはり来ないのはそれなりの理由がある訳で、わがままとかだらしないとかそういうことではない。学生課と友人にできることはあると私は思っている。もちろん、実習を休みがちなことは問題だから、本人がしっかり参加することが必要である。が、それをあげつらうより、参加できる体制を整えることが、建設的なんじゃないかと思う。もちろん、最終的には本人が参加することが肝要であるし、何から何まで回りがする必要はない。 そして何より私が心にとめるべきと思うのは、誰だって常にフルパワーで動けるとは限らないと言うことである。 私は自分にも人にも甘いのだろうか、それとも私は気が長いのだろうか。 - ことば - 2002年12月03日(火) 生化学実習(酵素実習)始まる。自分からテキパキ動かないと、人に頼っていてはどうも進まないと感じた。 ++ ことば、そして土地。 私はどこにアイデンティティーがあり、何が一番自然なのだろう。 出身は、というか高校まで生まれ育ったのは、島根県の松江市である。 閑静な地方都市であったが、同時に壕端の川のように淀んだ、多分に湿り気を含んだ保守的な空気が私は嫌いだった。身動きするのに狭く感じられた。それは、意図せずして松江に長々とすむことになった母が、長々と時間が経つ以前から松江を(というより地元のひと、という言い方を使って、おそらく実家のそばに自分がすんでいないことと、実母に育てられていないため、育児やマイホーム購入にあたって実家の援助を得られないことへのやっかみも入っていたと後になって思うようになった)毛嫌いしていたからかもしれない。 特急と新幹線で、のちには高速道路を通って、父と母の実家に夏休みに家族で行くのが楽しみだった。 その時、ちょうど京都が中間点で、ぽろっと母が「誰かひとり京都でお嫁に行けばいいのに」となにげはなしにいったことを私は覚えている。そして、実家の応接間には、父のとった博士号の賞状が誇らし気にかかげてあり、半ば私が京都で大学生活を送ることになるのは、どこか自然なことであったように思われる。 そして、言葉に関していえば、NHK式標準語が家庭内の共用語であった。 小学生になった時、担任の先生がばりばりの出雲弁を話す先生で、子供心にそれが面白く、家でまねたことがあった。母は、速効「止めなさい!」と叱った。それ以降、ただでさえ言語に(母の指示に)保守的であった私は、出雲弁というものを介在させて(後で思えば介在させなくても良かったのだろうが)コミュニケーションをとることが下手であった。 大学に入ってから、訛りがないと驚かれたりとか、関西の人にとってはイントネーションから関東出身に間違えられたりとか、新しいカルチャーショックがあり、かといって島根県だとか松江に格別な愛郷心を、というかそのコミュニティーに属している感覚が薄い人間としては大いに戸惑った。これが、大都市もしくは大都市の近郊出身なら特に珍しいことではないのだろう、土地への所属意識が、いや、そのコミュニティーへの所属意識が薄いことは。 土地と言葉を巡るアイデンティティ、それは、大学に入って暫くまで、いや土地についてはもっと後まで低層に流れていたのかもしれない、私の問いの一つの中心であった。私設の研究会サークルの発表で何やら話したこともあるくらいだから。 どこかしら宙に浮かんでいるような感覚。 そう、水村美苗の「私小説」なのだ。 京都暮しが長引くに従って、それは私の問いの中心から外れていった。 何しろ、ちょうどナショナリズムだとか、権力だとか、エスニシティだとか、思想の一種の流行りになっていた時で、私もハイデガーの芸術論で卒論を書いた続きでハイデガーと言葉とについて何か言えないかと思っていた。が、主張ばかり先走り、それは頓挫した。 言葉、自分の言葉。 留年を経た後、ナニカの会の後、指導教官と2、3人でからふね屋でお茶したことがある。その時、先生がぽろっと、「自分も小さい頃山口に引っ越して、言葉が違ってずいぶん虐められた」と仰った。もっと早く話せていたら、先生と分かりあえた、いや、研究に意欲を持って臨めたのかもしれない。 今の大学では、若い同級生は関西出身が多いこともあり、なんとなくエセ関西イントネーションで喋ることが多くなっていたが(そして、今の大学の子は「そのイントネーションおかしい」と誰もいわない、というか入学以降は、いわれたことがなかったので)、今日、今の大学入学以来初めて、話し方が不思議だという理由(?)で出身を尋ねられた。 おもわず、答えることを忘れて放心していた。 そうなんだ。関西弁はやはり私のネイティブランゲージではない。 一番話しやすいのは何だろう。 母体にあるのは、おそらく、標準語もどきであり、それで話す時が一番多分楽な気がする。それは決して、東京弁でもないのだろう。 ことば、土地、を巡るアイデンティティは、いや、これから私はどこで暮らし、どのような生活を営んでいくのだろう。 松江は育ったところではあるが、戻ることはないだろう。 少なくとも、出雲弁は私の言葉ではない。 長くいる京都は生活の現在のステージかもしれないが、それ以上ではない。 この過剰なこだわりが逆説した愛情なのかもしれないが、 航海は続く。 - 解剖学試問・第1回 - 2002年12月02日(月) 試問の第1回目(胸郭)があった。 朝も疲れて眠りこけていたので、準備がほとんどで来ておらず、悔しいやら悲しいやらで電車の中で涙が出て来た。あと、弄ばれているんじゃないかとか。ほんとに実行してくれるのか、とか。 そんな不安を、ついつい実施前、同じ班のメンバーに愚痴ってしまう(若い同級生に気遣わせるのもなぁと思いながら、甘えてしまうことがあるんだよね。。)。 始まってみると、意外と試問は雑然と行われた。同じ部屋で行なわれているので、そのまま見学しても構わないし。 担当の先生は厳しいという噂の先生だったけど、それがなかなか、「教育的」試問で、なんとか通して貰えた。班ごとだったし、余り事前に分かってなくてもその場で非常に勉強になった。また、概要を理解した上で、正確に名称や定義を覚えておくことの大切さ、基礎の大切さ、が良く分かった。臓器別にきちんと説明できることとか(心臓、肺、食道、神経)。 余りにも頓珍漢なことを学生がいうものだから、「お願いだからちゃんと勉強して。ひとり年間1000万円かかってるんだから」と先生にいわれた。そうだよな。。(汗) 家庭教師は曜日変更させてもらい、 帰宅後、食事もとらずに朝まで(12/03)眠りこけた。ふう。 目をさましてから生理学実習のレポート(運動神経の最大伝達速度)です。 - 組織学総論試験と家庭教師 - 2002年12月01日(日) 早くも12月、相変わらず解剖とテストの連続という怒濤の日々を送ってます(汗)。 ホルマリンの刺激で咽と目をやられてる。何とかしてほしいよぉ。 そのほかは、部屋の更新をどうするか不動産から尋ねられてて、考え中。 バイトさえなければ(おいおい)大分楽なんだけどね。 昨日土曜日は、組織学総論の試験があった。 あんまりぱっとしない出来だし、そもそも最後まで完璧に勉強してないから、結合・支持組織と神経組織についての知識がかなりあやふやだった。 だけど、使える時間はともあれ粛々と勉強したから、まあ良しとしよう。再試は、該当すれば、受けるよ。 家庭教師の教え子がセンター試験形式のマーク模擬試験を受け、点にショックを受けていた。得点2割だからな。ほんと、薬大に引っ掛かって恩の字だと思う。ただ、応用はきかないけど、真面目な子ではある。なんとか基礎学力つけておくことが必要か。 ただえらいのは、本命の入試がダメでも笑顔で報告してくれるところかな。一人暮らしの練習もぼちぼちはじめているとのこと、なんとか一人立ちしていきそうである。 -
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