山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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最近中国では「過労肥(かろうひ)」という言葉が流行っているそうだ。 不規則な生活から食べ過ぎてしまい肥満になる。それを「過労肥」という。
数日前の新聞に記事が掲載されていた。 地方紙に写真入りで載るくらいだから深刻なのだろう。
いわゆる生活習慣病そのものだ。
このクニの人たちは何でも他人のせいにしたがるフシがあるが、こんなのも我が国に矛先を向けないように願いたい。
あの「学問のすすめ」を著した福沢諭吉が、晩年に自身の人生を振り返った自伝である。 しかし注意しなければならないのは、語られるべきだが触れられていない人々が数多いるそうだ。例えば福沢に実学を重視するという思想を植えたのは「海防学」で有名な野本真城だが語られていない。
また、故郷中津藩にあった改革党は実学派と尊皇派の二派閥があり、福沢は後に学友から命を狙われた。そういう過去を隠したかったのか、中津の友人たちについては黙している。そういう意味で自伝とは言いながらも語っていない部分も多いのだということを頭の片隅においておかなければならない。
それにしても福沢諭吉という人は偉大な人物だから、どんなに素晴らしい人生を送ったのかと思ったら、意外にもとんでもないことを種々やらかしている。大坂の緒方洪庵の適塾では、大酒を飲んで暴れたり、喧嘩を仕掛けたり、ひどいことをよほどやったようだ。
そのかわり勉強もした。儒学、朱子学の系統を嫌い、蘭学を志した。そのうち蘭語があまり役に立たないと知ると、あっさり英語に転じ、米国へ何度も行って知識や情報を吸収してくる。帰国後、翻訳や著作を多くしたのは知られているとおりである。
終始一貫しているのが「貧乏や身分制度など、一身の独立を阻害する敵を、品位を損なうことをせずにいかにして打ち破ったか」という一点に収斂されている。
あの一万円札で有名な福沢さんがどんな一生を送ったのかを知るのに大変良い一冊である。
2013年02月25日(月) |
「市民会館」の思い出 |
むかーし三八城山の入り口、今は児童館か孔雀荘跡が駐車場になっている辺りに市民会館があった。貧弱な建物だったがその頃は気にも止めていなかった。
幼いある日母に連れられて大川橋蔵一座の公演を観に行ったことがあった。けっこう前に座れたので、後ろの人が投げた紙テープが後ろこんどにガツンとぶつかり、幼い自分にはかなり痛かったと記憶している。だから芝居よりもテープの痛みの記憶しか残っていない。
学生時代に軽音楽部でロックをやり始めてからも八戸にあるホールはその市民会館のみであった。ある日ロックのシンポジウムがあって、あまり売れていないロックグループと何人かの音楽評論家が来た。その中に湯川れい子もいたのでどうしても聞きたいと思った。そしてパネルディスカッションで彼女が言ったのは
「どうしたんですか、この市民会館は。その辺の小学校の講堂でもあるまいに。市長は何をしているの?」
一斉に拍手が沸き起こった。しかし私は拍手をする気持ちになれなかった。湯川氏の言葉にとても恥ずかしい気分になったからだ。それから数年後近くに県内でも立派な公会堂が完成した。その後しばらく県内の音楽シーンをリードした。
やはり大津秀一著「死ぬときに後悔すること25」で紹介されていた本ではなかったかと思う。星野氏は器械体操の先生だったが、指導中の事故で頸椎を損傷し首から下の自由を失う。
その後数年のリハビリの後、口で筆をくわえて絵を描けたり文字を書いたりできるようになる。そして自作の絵や随筆を集め絵本形式にまとめたのが本書である。とても口で筆を運んだとは思えないような美しい花の絵や、こんな境遇にあるとは思えないポジティブなエッセイは読む人すべてに感動や勇気をもたらしてくれると思う。
星野さんは車椅子に取り付けた鈴がチリンと鳴るたび、始めのうちはうるさいと思っていたそうだ。ところがいざ実際の路上に出てみると、道に穴が開いていたり段差があるような所でその鈴はチリンと鳴って教えてくれていると思えるようになったという。 鈴の音一つでも、物事の見方や考え方によって意味が違うことを、この「鈴の鳴る道」が教えてくれたのだ。
最近はフジテレビ系列で「カラマーゾフの兄弟」を日本版に脚本をアレンジして放送していて、そこそこ面白い展開を見せている。
そこで、というわけでもないが、旧ソ連が制作した「カラマーゾフの兄弟」第1~3部のが少し前にNHK のBSPremiumで放送したのを録画したものがあったので二晩かけて鑑賞してみた。 日本版はロシアを日本に置き換えるわけだから大幅に脚色されている。やむを得まい。それに対しロシア版はドストエフスキーの原作に見事に忠実に再現されている。ソ連当時だから変に脚色するとKGB かなんかにしょっぴかれたりするのかもね。
次に今夜見たソ連映画は「チャイコフスキー」であった。これは彼の生涯を追った伝記的映画であった。かといってドキュメンタリー風でもなかった。 十数年間も文通のみで交際を続けたというパトロンのフォン・メック夫人に送った最後の手紙にあった表現に、日本人との違いを感じた。
「あなたのことは死ぬまで忘れません。」
普通なら「死んでも忘れません」と言いそうなところだが。このような表現をするのは、日本人とのロシア人の死生観の違いだろうか。それとも言語的表現の違いか。あるいはただ単に翻訳の仕方によるものであろうか。
ほんの少しの違いではあるが、とても気になる。興味のわいた問題である。
上杉鷹山といえば、一昔前随分とブームになり、もてはやされたことがある。本書も1990年の発行だから、たぶんその頃に書かれたものなのだろう。
著者の童門冬二氏は東京都の職員として局長級を経て、のち、作家となった。歴史の中から現代の素材を探すのが得意だそうだ。本書は同氏の「小説 上杉鷹山」から、現代のビジネスに通じるエッセンスを集め凝縮されているそうだ。
かつてアメリカのJ・F・ケネディ大統領が尊敬する日本人は誰かと問われて、「ウエスギ・ヨウザン」と答え日本人記者たちを当惑させたというエピソードがあるそうだ。以前はそれほどまでに鷹山はマイナーな存在だった。
しかし、江戸時代中期に米沢藩の財政改革を断行した手法は、幕府が行った三大改革が失敗したのに比べ、なぜうまくいったのか。それはすべて「愛」があったからだという。領民や部下へのいたわり、思いやりがあったからこそ改革を推進することができた。
鷹山の改革は、まず「火種を移す」ことから始まった。藩主になって初めて米沢入りしたときに見た荒れ果てた領内に絶望しかけたとき、カゴの中にあった煙草盆の灰皿の底に火種を見つけた。その火種を新しい炭に火を移すように、改革の火も少しずつ移していこうと決心し、供回りのもの達に訓示する。その火種になれと。それを聞いた藩士たちは感動し、国元で実行に移していく。大変感動的なエピソードである。
読み終えるまでに何度涙を拭ったことだろう。今度は是非とも「小説 上杉鷹山」のほうを読んで新たな感動に浸りたい。
母は近所にあるデイケア施設に週2回通っています。 水曜日と金曜日なので今日も行きました。 いつも施設の職員が玄関先まで迎えにきてくれます。 「おはようございまーす。」 と元気な声がしたので、妻が母に知らせに行きました。
「おばあちゃん、『お迎え』が来ましたよ。」
「・・・・・・・」
何事もなく、母はいつものように出かけて行きました。 でも、なんとなく違和感を感じたのは私だけのようでした。
これってどうなんでしょう?私が考え過ぎなのでしょうか。 カギカッコを付けるから変に見えるのでしょうか。
ただの普通の会話がブラック・ジョークになってしまいました。
遣唐使と共に唐に渡った日本の僧円仁によって著された、当時の中国の様子が手に取るようにわかる「入唐求法巡礼行記」を研究したものである。著者のライシャワー氏はアメリカの元駐日大使である。
この巡礼記は円仁が唐を修行旅行したときの日記であるが、当時の中国の様子がいきいきと描写されており、かの有名なマルコポーロの「東方見聞録」よりずっと詳しいという。日本最古の旅日記で、世界三大旅行記の一つといわれる。(もう一つは玄奘三蔵の「大唐西域記」)
この「入唐求法巡礼行記」だが、日本においてもあまり知られていないそうだ。それに注目したライシャワー氏はさすがだ。大使でありながら、やはり学者の素質が大きいのだろう。父親も学者だったという。ライシャワー氏はこれを漢文の原書を読み、それを英訳したのだから凄いといわざるを得ない。
私は円仁はついては名前だけ茲覚大師ということで聞いたことはあったが、こんなに素晴らしい旅の日記を残していたことはこの本で初めて知った。確かに詳細な記録である。以前玄奘三蔵の伝記「大慈恩寺三蔵法師伝」の前半部分である、慧立著「玄奘三蔵」を読んだ。これは詳細な旅の記録ではあるが、人や文化、土地土地についての描写が少なかった。マルコポーロの「東方見聞録」は未だ読んでいない。
比較してみると慧立の「玄奘三蔵」は難しくて読み進めるのが大変だったが、「円仁」は大部でありながら最後まで飽きさせなかった。またライシャワー氏によると当時の中国(唐)については、マルコポーロより円仁の方がはるかに詳細に、しかも正確に記述しているそうだ。確かに面白かった。
当時そういう日本人僧がいたということを我々は誇りに思うべきであると思った。機会をみて「東方見聞録」にも目を通してみたい。
教育テレビなんか見ねえよ!なんていう人もいるかもしれませんが、最近の教育テレビは以前とかなり変わったと思います。 まず呼び名の以前はお堅い感じの「教育テレビ」から「Eテレ」なんていうハイカラな名前になりました。これはどうでもいいですが、最近では面白い番組をやっています。 以前からやっている学習の番組(「○年生の理科」など)だけでなく、社会人向けのプログラムが増えたように思います。
例えば「日本の話芸」として落語や講談を取り上げてみたり、狂言や能を解説する番組があったりです。
最近注目しているのが「さかのぼり日本史」や「100分de名著」です。
今年最初の「100分de名著」は「般若心経」でした。 仏教徒だとは言いながら、写経はしたことがあっても内容は全然わからないでいいものでしょうか。 そう思いこの番組を視聴しテキストを読んでみました。 目からうろことはこういうことでしょうか。
25分の番組が4回で100分。どんなに長い作品でも100分で解説してくれます。 次作は超大作の「モンテクリスト伯」、楽しみです。
NHKのEテレで毎週放送している「100分de名著」、今年最初は「般若心経」であった。この番組、25分を4回、計100分で名著を紐解いていく。伊集院光とNHKの女性アナウンサーがその本に詳しい人をゲストに迎え解説してもらう。これまでにも「源氏物語」、「武士道」、「ブッダ 真理のことば」などを見た。
「般若心経」は何度も写経したり、「色即是空」などポピュラーな言葉があったり、身近な存在であるにもかかわらず、内容については何も知らずにいた。今回の解説で初めていろんなことを知った。特に「般若心経」は釈迦が直接説いたお経ではないということ。また、釈迦の時代の教えを否定しているということなどだ。
また、「般若心経」は一種の「呪文」だという。唱えるだけで良いというところに神秘さがあり、特に日本人には人気があるのだという。
さて、次2月はデュマ作の「モンテ・クリスト伯」だ。これも既に見ている。
孫の銀次郎は紙で工作するのが好きだ。 余っていたB4のコピー用紙をセロハンテープでくっつけて、いろんなものを作って遊んでいる。
今回は刀や盾を作ってポーズをとっていた。 いったい何のポーズか尋ねたところ
「勇者と剣」
という答えが返ってきた。
著者は加耶大学客員教授をしている韓国人だが、植民地時代の日本統治について肯定的にとらえるのは相当の覚悟がいる韓国において、あえてそういう亡国史観を糾弾している。日帝36年間の統治は韓民族を救ったのだという。
戦後韓国では徹底した反日教育を施したため、歴史教科書は目に余るほどウソ・デタラメだという。
日本が半島に進出するまでは、民衆は李朝朝廷や両班たちに搾取され、生きるのがやっとの有り様であった。道路も、橋梁も、学校や病院もほとんどなかった。農業以外の産業はなく、その農業さえ進歩のないものだった。そういう500年にもわたる李朝時代の真実か韓国では知られていない。
そんな朝鮮半島に日本は莫大な費用を投じて近代化を図り、国民に教育を施した。このことも韓国では全く教えられていない。こんな亡国の国に将来はあるのだろうか、と筆者は嘆く。半島の人々は南北揃って歴史の真実に向き合って欲しい。
八戸地方では「えんぶり」の行事が今日17日から4日の日程で始まりました。 初日の今日は新羅(しんら)神社から三八城(みやぎ)神社まで行列をしますが、途中2回の一斉摺りがありました。
以前は私も八戸市庁郷土芸能保存会の一員として、お囃子の笛吹きで参加しました。
昨日からの雪が積もり、今朝はすっきりと晴れ、絶好のえんぶり日和になりました。
テレビのローカルニュースはさかんにその様子を伝えていました。
著者の室谷克実氏は時事通信社のソウル特派員として半島の様子をつぶさに見てきた。半島に伝わる「三国史記」や「三国遺事」、中国に伝わる「隋書」などを正確に読むと、今まで常識と思われていたことが全くの嘘だということに気付いたという。
例えば稲作などの先進文化は半島から日本が学んだという「定説」はウソだというのだ(これは既に科学的に証明されている。)その他にも ・倭国の勢力が半島南部に存在した。(広開土王碑文に出てくる「任那加羅」は実在したのだろう。) ・倭国の王が半島出身という根拠は全くない。 ・従軍慰安婦は強制だったと言いながら、昔は「献女外交」、現代は「海外遠征売春」を行っているのが韓国。韓国の中央日報が報じている。
こんな歴史を韓国では反日教育のために捏造してしまい、今ではほとんどの韓国人がウソの歴史しか知らない。我が国でも遠慮してそのままにして抗議しないし、知る人はあまりいなくなってしまった。 そういう意味で日韓ともに正しい歴史認識が必要だ。
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