山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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結婚後は狭いながらも八幡の自宅に両親と同居するつもりでいた。だからハナから同居か別居かなんていう相談もしていなかった。彼女にもそう言っていたし納得もしていたのだった。 私たちが結婚した頃は、まだ「婚礼3点セット」などという家具店のチラシが毎朝の新聞の折り込みに入ってくるくらいで、彼女の母はどうしてもそんな嫁入り道具を娘に持たせて嫁に出してやるのが夢だったようだ。しかし我が家ではそのような大きな家具を持ち込まれると、それこそ寝る場所がなくなるという切実に頭の痛い問題であった。でもこれも父があっさり解決した。 「別になるんだ。」 最初はなんのことかわからなかったが、すぐに別居しろということだとわかった。今の今まで同居路線で計画していたのに、突然アパート探しが始まった。市営住宅のようなところに入りたかったが、いろいろと条件が合わずに諦めた。
結局私の職場と彼女の職場との中間点付近に、ちょうど青年活動でお世話になった先輩がいて、そのあたりに空き部屋を見つけてくださった。6畳二間に同じく6畳のダイニング・キッチン、トイレ付き、風呂なし、駐車場有りだった。徒歩数分のところに「だるま湯」という銭湯があった。全部で6世帯の2階の東側の角だった。子どもが生まれてからは、下の階のオバちゃんに毎日のように叱られた。 部屋を紹介してくれた先輩には仲良くしていただき、行ったり来たりしてよく飲んだ。うちで飲んでいるとやっぱり下の階のオバちゃんがきて、うるさいとひとくさりイヤミを言っていくのだった。妻はこのオバちゃんのイヤミが嫌で早く実家に入りたいといった。
そこで母が定年退職したのを機に、その退職金をあてにして実家の近くに家を新築した。実家は借地に建っており、現行の建築基準法では不適格建築物にあたり、その場所での建て替えは不可能な状況にあった。しかも八幡地区は都市計画法の市街化調整区域の網をかぶっており開発許可を受けられないと建築はできないのであった。それでも建築主の母が古くからの居住者ということで許可が得られ、現在の場所へ自宅が建ったのであった。櫛引八幡宮の西側で付近は神社の森と水田に囲まれ、全く穏やかな日当たりの良好な場所である。父はここから神社や中学校などへ大きな道路を通ることなく散歩できるので安心してリハビリができた。この場所に移転して家族全員が本当に喜んだのである。だから父は独りで散歩に行けるので途中で栗を拾ってきたりして結構楽しんでいるようでもあった。 ところがある時、散歩から帰ってきたら途中で転んだと言って腕を痛がっていた。数日経っても腫れがひかないのをみて妻が市内の整形外科へ連れて行った。そうしたらなんと骨折していた。自宅に居ながら直したが、それ以来父は散歩に出られなくなった。物置に設置したウォーキング・マシンも取っ手に摑まることができないので使わなくなってしまった。これを境に父は独りで外に出られなくなり、どんどん衰えてしまった。
2012年11月22日(木) |
日中青年友好交流’84 |
私が「日中青年友好交流」事業で訪中したのは1984年だから28年も前のことになる。今年28歳になった次女が生まれた年だ。当時の中国共産党胡耀邦総書記の呼びかけによって、日本青年3,000人が中国に招かれた。日本中の各青年組織や自治体などから代表団が組織された。私は友愛青年連盟の団の一員として参加する機会を得た。鳩山威一郎氏を団長に、私は秘書長という肩書きで30名の団であった。
結構なもてなしであった。人民大会堂での宴会があったし、中国政府の要人も出席していた。受け入れる中国側青年の代表が胡錦涛氏であった。
とにかく「熱烈歓迎」であった。当時の中国青年は日本に憧れを持っていた。
どうして今はこうなってしまったんだろうか。
2012年のノーベル文学賞はとうとう中国人にもたらされた。確実視されていた日本人作家村上春樹氏を抑えての受賞だ。ロンドンなどではどちらが受賞するかで賭けが盛り上がっていたという。
今回この莫言氏の受賞にはさまざまな異論もあるようだ。例えば西側にいる反体制派中国人作家たちによると、莫言氏は体制側の人間であり批判の目を持っていないので受賞資格はないとか、前回中国人人権活動家にノーベル平和賞を授与したら反発した中国当局によってノルウェーは経済的に莫大な損失を被ったので、今回は中国に阿て莫言氏に授与したとか。世の中の人々の口に戸は建てられないから言い放題である。中国は中国で前回はあれほどノーベル委員会を非難していたのに、今回は手のひらを返したように受賞は当然だと言っている。日本人作家に勝ったと大騒ぎだ。全く大人気ない。 これは果たしてどうなのか。純文学なのだから読んでみるしかない。読んだ上でそれぞれ批評なり批判なりすればよい。
莫言氏の作品は「幻惑的リアリズムによって、民話、歴史、現代を融合させた」と文庫版のオビには書いてある。この作風は1984年中国語に翻訳されたガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」が大きく影響を与えているそうだ。確かに「赤い高粱」はグロテスクで原色的な表現が随所に出てくる。原作には難しい漢字やありもしない漢字がするそうだ。そういうのも含めて「マジック・リアリズム」と呼ぶという。
作品は一見抗日戦争がテーマになっているようにも思えるが、実はその当時の中国の田舎の社会をリアルに描こうとしたのではないか。戦闘のために命を落とす村人も出てしまうが、そこに暮らす人々の生活を描こうとしたのではないだろうか。 「赤い高粱」はこの文庫に収録されている2篇に続く4篇の併せて一冊の本にまとめられているそうだ。あとの4篇は文庫化されていない。面白いだけにそのままになっているのは残念である。ぜひ続編を文庫化してもらいたいものだ。
今回これを読んでみて、村上氏の作品同様に大変面白い作品だと思った。ノーベル賞にノミネートされるのも当然なのだろう。ただ、売れたかどうかについては村上氏にかなわないのかもしれない。何しろ私も今回初めて「莫言」という名前を知った。暗に「言う莫れ」という意味を含んでいるんだとか。だから「体制内批判者」だとする見方もあるらしい。 今後は政府に干渉されたり利用されたりしないように創作活動をしていけるよう願うばかりだ。まあ、今の体制だと無理だろうけど。「言う莫れ」ということか…
数日前に雹が降ったと思ったら、昨日はとうとう雪が降った。雪といってもちらついた程度だったが。今年の夏はことのほか暑い日が長く続いたのでどうなることかと思っていた。やっと涼しくなったと思ったら、それもつかの間、いきなり寒くなってきた。暑いのも嫌だけど、あまり寒いのも困る。普通に動けない身としては本当に嫌だ。
著者の福澤諭吉を今の日本人はどれだけ知っているだろうか。一万円の肖像、「学問のすすめ」の著者、慶應義塾の創始者というところだろうか。教科書で習う福澤像はこの程度だろう。実はそのほかに啓蒙思想家、洋学者、教育者という側面を併せ持っている。こんなに有名な人物なのに何も知らないということに気付き、とりあえず最もポピュラーな「学問のすすめ」から読んでみることにした。
この本で福澤が言っている「学問」とは社会の役に立つ実用的な学問を指している。そして「国民皆学」、すべての国民が学ばなければならないとして、全部で17篇にわたって「学問」について説き、そのうち2篇を除いては平易な言い回しとなっている。もちろん原文は文語体であろうがその中でも読みやすさを心がけたという。ちなみに本書は明治大学教授の新進気鋭齋藤孝先生がたいへん読みやすい現代語に訳したものだ。
あの有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」のフレーズで始まる「学問のすすめ」とはどんな学問を勧めているのか。それは実学である。何のために学問をするのか。人間は生まれながらにして平等である。国家にしても同様、他国から侮られないよう独立を保つためには国民は学ばなければならない。では学問とは何か。本を読むことだけが学問ではない。実生活も学問、世の中の流れを察知するのも学問である。人間が平等であると同時に政府と人民は対等である。人は平等の権理を持っているということを忘れてはいけない。このような平等関係を西洋では「エクヲリチ(equality)」という。このように本書のなかで福澤は一般国民に対して噛み砕いてわかりやすく説明をしている。 愛国心の問題では、ナポレオン三世の普仏戦争と、今川義元が織田信長に討たれた桶狭間の奇襲とを比較してみせた。
また古い慣習の批判は鋭く、特に儒家に対しては手厳しい。中でも男尊女卑の不合理には鋭く批判する。「女大学」という本に「婦人の三つの従うべき道、幼いときは両親に従い、嫁に行ったら夫に従い、老いては子に従え」とあり、また同書には「妻を離縁できる七つの条件」というものがあるという。福澤はあまりに不公平な論理だという。どうもこれらは中国や朝鮮の儒教界であたり前のようにまかり通っている考え方のようである。
明治維新になって身分制度は廃止されたとはいえまだまだ卑屈な国民を見て福澤はなんとかしなければならないと思ったに違いない。このままでは西欧列強に植民地化されてしまう。そこでこのような書物を著し国民を鼓舞しようとしたのだろう。しかも政府ではなく民間の立場からである。民間だったからこそ自由にモノがいえたのかもしれない。
2012年11月13日(火) |
パソコンのリサイクル |
物置を整理してもらったら古いノートパソコンが二つ、ワープロ専用機が一つ、CRTディスプレイが一つ出てきた。これは処分が大変!各メーカーのHPを検索。今はリサイクル法で適正に回収処分してもらわなければならない。それぞれのメーカーから回収の申し込みをした。古いものだからもちろん有料だ。ノートパソコンが3,150円、CRTが4,200円もする。大きな出費だ。
申し込む際、各機種の型番やシリアルナンバーを入力しなければならない。CRTなんかS/Nが紙のシールで貼ってあった。ところがあまりに古いものだから半分破れてはげ落ちていた。これを入力しないと受け付けてくれない。やむを得ず電話をしてどうすればよいか確認し、やっと受け付けてもらえた。後日振込用紙が送られてきて支払いを済ませると今度は郵パックの伝票が送られてきて、やっと回収してもらえるのだ。なんとめんどくさいこと。一社だけはクレジットカードで支払いはを済ませることができたので一段階手続きが進んでいる。
こんなに複雑だと真面目に申し込む人っているのかなあなんて不謹慎なことを思ってしまった。
勉強し始めた中国の歴史も辛亥革命に差し掛かり、魯迅を読んでみた。岩波新書の「辛亥革命」を入手したが古い上にかなり難しいので躊躇している。
魯迅は死の直前親交のあった上海内山書店の日本人内山完造氏に「支那4億人の民衆は大きな病気に罹っている。そしてその病原は例の「馬々虎々」(マーマーフーフー)ということだね。あのどうでもよいという不真面目な生活態度であると思う。」と語ったという。 もう一つの見過ごせない言葉は「没法子(メイファーズ)」(仕方がない)だ。どんなにひどい目にあわされても、ただ「没法子」(仕方がない)としか言えなかった。蹴られても没法子、殴られても没法子、と無抵抗にあきらめきった状態で毎日を過ごしていた。「没法子」はいわゆる「奴隷根性」であり、一種の馬々虎々(いい加減)といえる。では馬々虎々とは「まあまあ」というニュアンスで使われることも多いが本書では専ら「虚偽」「欺瞞」をも含む人間的いい加減さの意としている。
本書は魯迅の一大伝記である。その中で魯迅が一貫して主張し続けるのが中国人の中に見るいい加減な生き方、馬々虎々であった。 時は辛亥革命の中にあったが、もともと魯迅は革命を志す者ではないようだった。仙台医専において見せられた幻灯で、日本軍人が中国人の罪人の首を切り落とす場面を周りの中国人は呆けた顔でその処刑を平気で見ている。何の感情もない。どうでも良い。これこそが中国人の根底に存在する馬々虎々だというのだ。この時の出来事がいわゆる「幻灯事件」であった。これを機に魯迅は医学から文学の道へと転向する。 その後魯迅は「狂人日記」を皮切りに「阿Q正伝」などを発表、中国人の「礼教食人」という欺瞞を成立させたのも馬々虎々という大きな病気だと揶揄している。儒教が忠や孝の美名のもと、人が人の肉を食らうことを礼賛しているというのだ。
なかなかうまくいかない辛亥革命の真っただ中にあったのだが、軍閥の割拠や革命派の分裂などもあって、何度かの蜂起も失敗していた。そんな中1925年孫文が病没。1936年革命を夢見ながら魯迅永眠、享年55。せめてもの救いは戦闘ではなく病没したことである。喘息の発作であったようだ。棺は「民族魂」と刺繍された白い絹旗で覆われたそうだ。日中戦争が始まる9カ月前のことだ。筆者である片山氏は上海で魯迅から直接薫陶を受けたことがあったそうで、それでこれだけ詳細に避難先や講義内容を書き記すことができたのだろうと思った。
できれば予備知識として、最低でも「阿Q正伝」「狂人日記」を読んでおきたい。私はこれから読んでみることにする。
順序からいうと「狂人日記」が先で「阿Q正伝」が後だ。自序を除いて14篇の短篇集である。
中国社会に蔓延している病根は「馬々虎々」(マーマーフーフー)、一言で言うなら「いい加減」「どうでも良い」といった態度のことだそうだ。魯迅はこれに日本留学中に気が付き、それまでの医学を止め文学に転向し、「馬々虎々」と戦い続けた。
「狂人日記」は中国の封建社会においては、支配者が儒教を利用して人間の肉をも食らうことさえも礼賛するという「礼教食人」という欺瞞を暴露している。魯迅は支配者たちが儒教を単に人民を支配する道具として利用していたに過ぎないことを小説で明らかにした。
「阿Q正伝」は魯迅唯一の中篇小説であり、かつ代表作、しかも最高傑作といわれる。ユーモアに満ちた文体で、この作品が成功した原因の一つはこのユーモアによって調子づいた「従容不迫」(しょうようふはく)の文体にあるそうだ。主人公の阿Qはその文体にピッタリのチャランポランないい加減な男であり、この文体でなければ「馬々虎々」の極め付きのような阿Qを表現することができなかっただろうといわれる。 いい加減な阿Qは気分で革命軍につこうとしたり、でも入れてもらえなかったりで、結局は銃殺刑にされてしまう。それでも村人たちは、銃殺は首切りより面白くないなどと不満をいう。彼らもどうでも良い「馬々虎々」なのだ。
魯迅はこの短篇集全体を通してこの「馬々虎々」を告発したかったのだ。
私は24歳のときに妻の真理子と結婚した。現在の世相からするとちょっと早いように感じるかもしれないが、当時(昭和56年)にすれば平均的ではないかと思っている。 私が彼女を知ったのは隣家の同級生(女子)のところに八戸東高校(当時女子校)の同級生たちが数人集まり集会(今でいう女子会か)をしていた時にたまたま顔を合わせたのが初めてであった。ベレー帽をかぶり周りの人たちとはちょっと違う雰囲気を醸している人だった。そのときはそれだけであった。 その後八戸三社大祭で再会した。私は青年活動として沼館にある勤労青少年ホームを拠点に地域的に、地域的に祭に参加できない子どもたちが参加できる道を拓くために「青少年の山車を制作運行する会」(通称:青山会)に参画しお囃子を担当していた。そこへ彼女がやはりお囃子に参加するため白銀の職場から自転車をこいで毎日通ってきた。 私は市役所の道路建設課に配属になっていた。そこに市内でも中心的に青年活動をけん引している人がおり、その人に影響されて私は青年活動にのめり込んでいた。ローターアクトクラブ、素心白ばら友の会、友愛青年連盟、青少年の山車を制作運行する会、そしてそれら多数の組織の横のつながりを組織するサークル連絡協議会事務局まで入り込んでいた。それらの仕事を自宅に持ち帰り、仲間と一緒に深夜遅くまでガリ版を切ったり謄写版を刷る姿を見て母がひとこと言った。「お前のオヤジにそっくりだ!」知らず知らずのうちに父が若い頃していたことと同じ道を辿っていた。私はこれらに彼女を誘った。広報でのガリ切りの仕事とか、深夜までかかった案内状の作成、また食事の支度や後片付けをしてもらった。家事をテキパキとこなす姿を見てとても家庭的な女性だなと思った。 お祭りの練習に自転車でやってくる彼女の背中は汗でブラウスがペッタリと張り付いていた。その背中を見て一生懸命だともちょっと気の毒だとも思った。彼女の自宅は湊地区だったので夜遅くなった時や天候の良くない時は車で送って行くようになっていた。道すがらいろんな会話をするが、話しているうちに小さい頃にとても苦労して育っていることに気が付いた。母親が長期入院を余儀なくされた結果として縁者に預けられることになったそうだ。その辺の経過やその後の育ちが、私の父の生い立ちにも似たところがあると不思議に思った。 その後私は彼女を両親に紹介した。しばらく付き合っていたが、そのうちにもう結婚したいと思うようになった。そんな気持ちを父は理解してくれた。結納や式の日取りもどんどん決めていった。父は親戚にも相談せずに日取りを決めてしまい、案内状まで印刷してしまったので、後日父は親戚中から非難を浴びた。 結婚式も披露宴も八戸グランドパレスで行った。親戚や職場の先輩や同僚はもちろんのこと、当時青年活動をしていた仲間たち、かつての同級生らが祝福してくれた。 父はこの時点でも半身不随のままであったが、披露宴などでの父親の役割は十分にこなしてくれた。特に両家を代表しての謝辞はきちんと原稿を用意していたようで、言語障害が残っていたにもかかわらずスラスラと淀みなく挨拶した。こうして一連の父の行動を見ていると落ち着いていて不安を見せない。意外と度胸がいいのかもしれない。
昨年3月までは賃貸住宅3棟の大家だったが、3.11の大津波で2棟を失った。結果高台にあって管理運営会社に任せていた1棟のみの大家になった。 本書は賃貸住宅に関するあらゆる情報を集め、今後避けることのできない少子高齢化社会に向かい、どのような傾向になっていくのか、どのような対策が考えられるのか考察している。特に賃貸住宅建設会社の動向や、建設後の管理運営方法についても詳しく紹介している。 これまで賃貸住宅を経営してきた人はもちろん、これから新規参入しようと考えている人にとっても大いに参考になるだろう。
私は社会人になってからあらためて書道を習ったが、その動機はやはり父にあった。父はとても几帳面で奇麗な文字を書いた。若い頃通信教育で添削を受け習っていたらしい。私はよく父から「おまえは文字が下手だ。」と言われた。 以前はワープロなどない時代、肝心な役場の書きものや看板などは文字のうまい人が書いた。だから父の勤める役場のものは当時ほとんど父が書いていたらしい。だから今でも何か父が書いたものが残っているかもしれない。ただ自宅に作品として残っているものはない。芸術として書をやっていたわけではないようだ。 私は八戸市役所に土木職として入庁し道路建設課に配属されていた。市道の舗装工事がメインの仕事だ。その時は教育委員会からの委託で、公民館の外構舗装工事のため、公民館の常勤職員と打ち合わせをするために数人で出向いた。ちょうどその頃私は書道教室を物色していたが、その公民館では夜型で講座が開かれており、公民館の職員二人も参加しているという。その講座に参加を決めた。ここで私は生涯の筆の師匠二人と出会う。一人はこの公民館講座の講師である佐藤翠洋先生、もう一人はその佐藤先生の師匠である石橋龍翠先生だ。驚いたことに佐藤先生はまだ三十代であった。受講者は近所のおばちゃんやお婆ちゃんばかりだったので、私は佐藤先生に歳が近いこともあってか大歓迎された。そうはいっても書というのは目に見えて上達するようなものではない。やはり基礎からしっかりと体得しなければならないのだと痛感した。もちろんセンスの良い人は上達がはやい。 世の中にはいろんな書道会派がありそれぞれいろんな主張をしている。そんな中で私たちの所属する「大日本書芸院」はオーソドックスな方だと思う。毎月の競書は一つの題材を、楷書、行書、草書、篆書、隷書、かな、細字の7体を半紙に仕上げ提出する。有段者はこれに条幅数体の提出が求められていた。私たちには石橋先生がお手本を書いてくださった。毎年一回昇段級認定考査があり、師範未満は全員受検が求められた。また、毎年行われる東京タイムス展への出品が有段者以上に義務付けられていた。これで良い成績を収めると、昇段のポイントになるようだった。
父はこんな段・級に関係なく、あくまでも実用書道を目指したようだ。誰かに頼まれれば熨斗袋などもその場でサラサラと書いてあげたようだ。その点私は足元にも及ばない。恥ずかしい限りだ。 書というものは練習したからといって目に見えて上手くなるというものではないようだ。何枚も何枚も同じ文字を繰り返し書いていると、集中力も途切れがちになったり、フラストレーションが蓄積したりするものだ。しかしそれを我慢して乗り越えなければならない。そうすれば一皮剥けた自分に出会うことができるらしい。なんともストイックな趣味である。だから展覧会などで賞をいただいた時は感激も一入である。市の美術展で入賞した時、真っ先に父に報告したら、珍しく褒められた。自宅のサイドボードにその時のメダルが飾ってある。
「モレスキンとは?」最初の3つの章に語られているようだ。 ・モレスキンとは、「まだ生み出されていない白紙の未来」である。 ・モレスキンとは、「浪漫」である。 ・モレスキンとは、「終わりなき好奇心の物語」である。 これ以降はノートの活用術がカラーの実例を挙げて説明をしている。こんなノートが作れたらさぞ楽しいだろうなと思えるページばかりだ。私もせっかくこれからモレスキンの利用を始めるのだから、後で見返したときに残念な気持ちにならないようなノートづくりをしてみたい。 ただ残念なのは、モレスキンでなければならないという決定的な理由が見あたらなかったことだ。最近では百円ショップで「ダイスキン」なるものが出回っているとか?噂によると紙質ではダイスキンの方が優るという話もある。 モレスキンはけっこう高額なだけに、ファッションやブランドにこだわらなければ別に大学ノートで済むことだ。 でも、私は「星の王子さま」のダイアリが気に入ったので使ってみるけど。
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