山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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2003年11月30日(日) 日記再開!

二週間前にアクシデントで腰をしたたかに痛めてしまった。今日やっと軽いメールなら打てるぐらいに回復した。そんなことで本来の病気の治療は残念ながら進んでいないが、HPも徐々に開始したい。
⇒詳細は11月14日の日記参照

夕べは夜中に二度も誰かの点滴の機械がアラームを鳴らした。しかも止める気配もなければナースコールする様子もない。何分も鳴り続ける。すっかり目が覚めてあきれた私は自分でナースコールをした。すぐに看護婦が来て処置をしてくれた。この患者さんは難聴らしい。

おかげで今日は寝不足気味だ。午前も午後も、ちょっとベッドに横になるとすぐに眠っている。看護婦に
「日中寝てたら、夜眠れなくなっちゃうでしょう!」
と叱られるが、どうしようもない。

きっと濃霧注意報が出ている盛岡の天気がどんよりしているせいに違いない。


2003年11月29日(土) コルセットはずしてよく眠る

昨夜はじめてコルセットをはずして寝た。夜中にどうにかなったらどうしようと思いとても不安だったが大丈夫だった。けっこうよく眠れた。

昼食は久しぶりに起き上がり、自力で食事をした。こうでなくては喉を通らないというものだ。

夕方になって音喜多さんが現る。相変わらずCROSSは忙しそうだ。それとは別にお正月にヨーロッパへスキーツアーにいくそうだ。音さんはスキーはできないが、ヨーロッパの都市を巡るのが楽しみなのだろう。私も行きたかった。


2003年11月28日(金) サリドマイドの同意書

11月14日金曜日に腰を痛め、2週間の安静を指示されてから今日がその解禁日にあたる。朝食後腰のレントゲンを2枚撮影する。

午後3時過ぎ、整形の先生がみえられ、レントゲンの結果ではやはり骨には異常は認められない。

これまで
「ローリング、30度までのキャッチアップ可」
だったものから
「座位まで可」
となる。ただし自分で痛くない範囲で。

また新たに、寝るときにはコルセットをはずしてよいことになった。今夜はどんな寝心地だろう。

主治医の先生がサリドマイドの同意書にサインをして欲しいと持ってきた。輸入するんだから同意書も当然英語。
先生は、読めるんだったら置いていきますけど、というものだから思わず置いていってもらった。

Important Information and warning for all patients taking Thalidomide.
というタイトルで、

consent for Men
として8つほどの項目がある。例えば

Int_1
I understand that I must not take Thalidomide if I cannot avoid unprotected sex with a woman, even if I have had a successful vasectomy.
女性との避妊しないセックスを拒めないときは、仮に完璧なパイプカットをしていてもサリドマイドを使用してはいけないことを理解します。


2003年11月27日(木) 小林千登勢さん逝く

腰を痛めてから今日で2週間目、期待通り回復していないようだ。というよりは期待のしすぎか。明日は整形の先生が診てくださってどうにかしてくれるだろう。

昼は次長たちが昨日持ってきてくれたじゃじゃ麺をいただいた。盛岡オリジナルの味だ。


朝のワイドショーでは女優の小林千登勢が多発性骨髄腫で亡くなったと言うニュースを放送していた。女優として毛髪が抜けるのは耐えられないとして、抗がん剤の投与を拒んだらしい。ご冥福をお祈りする。


2003年11月26日(水) 海洋立市イベント

昼食前、主治医の鈴木先生がみえられ、今後の治療について話していった。

白血球は上がってきたが、抗がん剤を投与してもIgGの値に改善が見られない。今後このような治療を繰り返しても、治療⇒免疫低下⇒感染症、という繰り返しが懸念される。

そこでちょっと早い気もするがサリドマイドを使ってみようと思うがどうか。考えられる副作用は眠気ぐらいかな。もともと睡眠薬だから。輸入手続があるので1〜2週間かかる。

昼食後、妻神次長と磯嶋主事が来る。「海洋立市」イベントをJRと組んでやることになったらしい。その打ち合わせのため盛岡のJR支社に出張し、ついでに寄ってくれたそうだ。イベントでは大物アーティストを呼ぶらしい。例えばCHEMITRY、EXCILE。JRがキャンペーンで使っているのだそうだ。退院するまでにそいつらをちゃんと把握しておくように次長から釘を刺された。福地村のジャックド祭りに来た「ケミふたり」は聞いたことがあるが、CHEMISTRYの歌はまだ知らない。


2003年11月25日(火) イボ痔決定

22日の浣腸以来、毎朝順調に便が出ている。肛門の痛みも少しは和らいできたかな。

お昼前になって突然外科の先生が診察にやってきた。
「それじゃ診せてください。ああ、これですね。」
2・3度清拭した後、肛門の淵をつかみ出てきたものを中へ戻すようにこね始めた。イタイ!
「今度はけっこう太いのが入りますのでがんばってもらいますよー。
ベッドの柵に必死につかまりながら私は「ウオー」と声を上げた。今までに味わったことの無い激痛と感触が私の肛門を容赦なく犯し始めた。いったい何を突っ込むんだ!しかし医師と看護婦に押さえつけられている私は身動きすらできないのだった。でもすぐにそれで終わった。

外科医は
「イボ痔ですね。」
と言い残して去っていった。


2003年11月23日(日) 暖かいお見舞い

朝起きてみると肛門が痛い。どう痛いかというと、括約筋をきゅっと締めるとき痛い。とっても痛い。妻に確認してもらうと
「中から何か出てきている」
のだそうだ。看護婦に相談すると主治医の先生が診てくださり、塗り薬と炎症を止める飲み薬を処方してくださった。後で外科の先生も診てくださるということだ。

朝の早い時間に政策推進室の小笠原、大嶋、佐々木の3人が来てくれた。政策推進室ますます面白そうだが、体を壊さないよう働いて欲しい。

直後に叔父の伊藤文雄夫妻が来てくれた。かつて娘さんが入院していたこともあり、かって知ったる岩手医大病院らしい。今回は新幹線に乗ってみたいということで、はやてで来たそうだが、トンネルが十いくつもあって途中で数えるのを止めたと叔母ちゃんは言っていた。

さらに佐京、房間、中山の同級生3人が来てくれた。笑うのは辛いというと、笑わせていくからたちが悪い。そうはいっても遠いところわざわざ来てくれ本当にうれしい。


2003年11月22日(土) 痛み

土曜の休みを利用して、母と長女夫婦、二女が来る。天気予報によれば寒気団が入り込み、大荒れになるということだったので、絶対に車では来るなと言っておいたのに車できやがった。これで事故でもあったら一家全滅ではないか。

いとこの佐々木和雄さんもわざわざ来てくださった。

前回ウンチをしてから出ない暦4日目。もはや浣腸しか選択肢はない。浣腸をしてもらいなんとか排出に成功するも、途中固い部分を出すのにがんばりすぎたせいか出血、痛みを引きずる。(後日これが大変なことに・・・)


2003年11月18日(火) 天国のようなひと時

痛めてから4日目。やはり明け方に便意があるが、すっきり出ないのでつらい。寝て便をするというのは大変なことだ。

午前、汗疹対策のために、看護婦二人で入念に清拭してくれる。特殊な泡を使い、背中、胸、腰、さらにはあの辺まできれいにしてもらった。まるで天国である。

終了後痛み止めの座薬をしてもらうが、以降おなかのニヤニヤが続く。

午後3時ごろ、ベッドサイドでのリハビリを始める。まだこんなに痛いのに始めて大丈夫かと不安があるが、がんばる。リハビリの先生は、このぐらいで済んで良かったと言ってくれた。いかにもその通りだ。骨折でもしていたらそれこそ大変だった。

昨晩、自宅のほうに大坪参事から電話があったそうだ。ホームページが止まったので、具合でも悪くなったかと心配しているらしい。前回腰を痛めたときも同じようなことになった。


2003年11月17日(月) またまたMRI検査

11時ごろからMRI検査があった。あらかじめ、以前造影剤で副作用に苦しんだ話をしておいたので、造影剤なしでの検査にしてくれた。

腰の痛みに耐えて、ベッドからストレッチャー、検査台へと移動する。

検査が始まってすぐに中断する。どうしたのかと思ったら、背骨に金属チタンが入っているのが問題らしい。だからあらかじめ確認したじゃないのよ。手術をした日や、その後どこでMRIをやったかなどを質問され、結局問題ないと判明し検査再開。昼過ぎまでかかる。」

夕方、ベッド上で洗髪、足洗い、清拭をしてもらう。


2003年11月16日(日) 【写真付】花はご法度

栄田さんからいただいたバラの花舘分団の栄田分団長夫妻が来てくださった。フルーツのほかにバラの花束をいただいた。しかし病室に持ち込めないので、今度はみんなが集まる食堂に飾ってもらった。いつものように消防団の話しで盛り上がった。

ウンチが出ないで3日目である。なにしろベッドから一切動くことができない。オムツをして浣腸をすることになった。想像しただけでも屈辱的な姿である。


2003年11月15日(土) 津軽言葉に聞こえた?

腰を痛めて二日目、ただただ辛い。せめてもの救いは24時間の点滴が終わり、チューブが外れたことだ。

いとこの有泉夫妻が来てくださる。アレンジメントのお花を持ってきてくださったが、この病院では病室への花類の持ち込みは禁止されている。止むを得ず、妻のアパートへ。

二人が帰った後、隣の老人が
「あの『・・・だすけに』というのは津軽言葉か。」
と質問をされた。
「八戸の言葉ですよ。」
老人は滝沢であるのに、同じ南部の言葉とは思わなかったのか。それぐらい南郷の言葉は違和感があったのか。


2003年11月14日(金) またまた腰を痛める

また大変なことになった。リハビリへ行く途中、点滴台のキャスターがエレベーターとフロアとの隙間にはまって倒れてきた。それを押さえようとして前かがみになったとたん、腰にギクギクッと激痛が走ったのだ。

リハビリの先生たちにあわてて部屋に連れ戻ってもらう。主治医の鈴木先生も心配そうに
「整形の先生に診てもらいましょう。圧迫骨折しちゃったかもしれませんね。」

すぐにレントゲン技師がきて激痛の中、4枚も写真を撮っていった。

夕方整形外科の先生がみえる。
「骨は大丈夫そうなんだけれども、大きな骨折はなくても細かい骨折はあるかもしれない。2週間後もう一度写真を撮ってみましょう。」

そしてベッドの上に以下のような張り紙が貼られた。
「11/14〜11/28
 ローリングと30度までのキャッチアップ可」


2003年11月13日(木) 岩手山に冠雪

今朝は天気が良かった。カーテンを開けると岩手山が六合目付近から冠雪していた。なかなかきれいな光景だったので写真に写してみた。しかし早朝だったので周りのビルや背景の雲とのコントラストが強すぎてあまり良く写らなかった。

朝食時ごろになると町にも日光が降り注ぎ、山の背景に広がっていた雲も晴れ青空となった。食事をしながら食べ終わったら写しておこうと思っていたら、また雲がかかってしまった。シャッターチャンスというのはことほど少ないものだ。写そうと思ったときに写さないと。

いつも取引をしているSOURCENEXTという会社が、これまで使用していたウィルスソフトMacAfeeを扱えなくなったというので、同社が推薦するインターネット・セキュリティ2004というソフトに乗り換えてみた。ところがこのソフトを導入したら、立ち上がりは遅くなるわ、ネット回線が切断できなくなるわで全く調子が悪い。結局アンインストールして元のマカフィーに戻すことにした。なんとも面白くないことである。1,980円返して欲しい。

今日で点滴三日目であるが、特別副作用は出ていない。点滴のために尿の出が少々多い。この先どうなるんだろう。ちょっと心配。

リハビリは二日目。腹筋や背筋の運動が主だ。手術から4ヶ月目で初めてうつぶせになった。怖かった。そうして足を上げ背筋の運動。コルセットをつけているから右の胸の肋骨の部分にゴリッという痛みが走った。たいしたことが無いと思いそのまま続ける。ところが夕方になっても痛い。明日になったな痛みが引けるかな。これも心配。


2003年11月12日(水) リハビリ始まる

今日からリハビリを開始した。(こう書くのは2度目である。労災病院でも一度リハビリを始めたのだった。)リハビリテーション室は地階にある。青森労災病院に比べたらとっても狭い。労災病院のリハビリは充実していると聞いたことがあったが本当だったのだろう。

今回の担当の理学療法士は齋藤花織さんという三十代ぐらいの感じのいい女性。ここでもラッキーというべきか。今日のメニューはベッドでの脚の関節の伸ばし、筋力トレーニングと、上半身の筋トレ。コルセット着用で落ちた腹筋背筋の復活トレーニング。これだけでも最初は負荷がかかる。次にベッドに起き上がって、別のトレーニングを開始しようとしたときに点滴のポンプの警報ブザーが鳴り出した。止むを得ず今回はここでおしまい。次回からは電源コードを持参することにした。

とても優しくて感激した。リハビリの先生はやはりこうでなくちゃ。どこぞのリハビリでは初日から気分の悪い思いをし、いつまでも同じ気分を味わい続けた。ここだと気分良く回復させてもらえそうな気がする。

病室に戻り看護婦さんに見てもらうと、エアーレベルといってチューブにエアーがたまって警報が鳴ったのだそうだ。ということは電源はバッテリーだけでもいいのかもしれない。

ここは大学病院というだけあって、毎週「教授回診」というのがある。昨日は私の第三内科だったし、今日は隣のベッドの人の神経内科の教授回診だった。これがなかなか物々しい。その教授らしき人に総婦長、そして以下10人ぐらいもの医師がぞろぞろとついて回る。

そういえば市民病院でも科長回診というのがあって、同様の光景が見られた。それを見ているのでこちらでも同じようなことをしているなという感覚で見ていられた。ただ労災病院では一切そういうことはなかった。主治医の先生が一日一回調子はどうですかと回ってくるのみで、市民病院の先生が紹介状を書いてくださったK先生には入院した日に会っただけで、病室にはただの一度も顔を見せなかった。


2003年11月11日(火) 化学療法開始

今日から化学療法が始まった。初日に点滴で薬を5種類一気に投与する。このほかに尿を出すために生理食塩水を24時間点滴する。一日中管につながれていることになる。これには少しずつ一定量を送るために電気のポンプが取り付けられた。

こちらにきてから最初のお見舞いを受けた。大澤さんが見舞ってくださった。ご主人が岩手医大に入院したことがあるなど、盛岡は彼女のホームグラウンドのようになっているのだそうだ。ちょうど良い機会だったので、長期休暇についていろいろと教えていただいた。

どうも180日を過ぎると休職の扱いになるらしい。今月いっぱいで六ヶ月になるので休職にならざるをえないだろう。こちらの病院でも数ヶ月はお世話になるだろうから。

大澤さんには港湾振興対策室時代から大変お世話になっている。当時港湾振興は手探り状態の時で、平成6年に東南アジア航路が開設されてからも、ポーセールスやら県との対応やら本当に大変だった。なにしろすべてがはじめてやることばかりだったのだから。毎日残業をして、どんな方法でやるか激論をして、本当に手探り、手作りだった。ただその分クリエイティブな仕事をさせてもらうことができたと思っている。


2003年11月10日(月) 治療方針の説明

朝起きてみるとどうも喉の様子が変だ。ひりひりするよな感じがする。そのうちに痛くなってきた。病室の中がかなり乾燥しているようだ。先生に話してトローチを出してもらうことになった。

午前中に整形外科のリハビリテーション担当の先生に呼ばれ、いろいろと質問を受ける。明後日から軽いリハビリが始まることになった。ベッドの寝起きとか、補助器具を用いての歩行訓練からやるそうだ。

各種検査が終了し、いよいよ明日から本格的な治療が始まる。夕方主治医の鈴木先生にお話を聞いた。病状については先日聞いたとおりでそのおさらいをし、今後の治療について詳しい説明があった。やはり4日点滴4日お休み、のような以前の労災病院で行った治療と同じような化学療法であるが、薬の種類と量を替えて行う。

選挙権を行使できないうちに選挙が終わった。今までわからずに過ごしてきたものに「惜敗率」というのがある。ちょっと調べりゃすぐに判るのに。これは
「負けた人の小選挙区での得票」÷「小選挙区の当選者の得票」
で計算する。ちなみに比例代表東北ブロックで民主党の5位・6位の差がどうしてできたかというと、
5位 鹿野道彦氏  81,580÷100,764=80.96%
6位 田名部匡代氏 86,909÷70,275=80.86%
となり、田名部氏が鹿野氏にちょっとだけ及ばなかったわけだ。


2003年11月09日(日) 衆議院選挙投票日

今日は衆議院議員選挙の投票日であった。青森労災病院で6日に不在者投票をするために投票用紙の送付を依頼していたのだが、4日にこちらに移ったため結局今回は投票できずじまいだった。権利と義務を行使しなかったという意味において非常に残念である。

こちら盛岡では選挙の話も全く別な様相を呈していて、病室内の話にはもちろんついていけない。なんたって小沢王国だ、民主党が強い。八戸も何とか戦争と言われているが、どうなるのか明日の結果が楽しみである。今回は本当に他人事だ。

同室の一人はどこかのお坊さんらしい。毎朝6時前後になると小さな声で読経が始まる。夕方もお勤めがある。最初はびっくりした。一昨日退院した一人などはその度に顔をしかめていたようだ。ところがだ、なぜか私は慣れてしまった。なんともない。

先日、ワシントンの慶長さんから、病院食評価と看護婦ランキングをやれというお話があったが、看護婦ランキングはこれまでも二度やっているのでできそうだが、病院食評価のほうはどうか。まず、病院は三つしか渡り歩いていない。それに最初の八戸市民病院のメニューがよく思い出せない、などの難点がある。美味いか美味くないかの話なら2・3行でおわってしまいそうだし、どうしたものか。慎重に検討がいるだろう。

今日は妻が八戸の自宅に戻った。短期間ながらアパート住まいのために必要なものを取りにいくのと、自宅整理のためだ。今夜は久しぶりに自宅に泊まる。あまり眠れないんじゃないかと心配してしまう。その点、病院を移っても平気でよく眠る私は何なのだろう。明日は整形外科の診察だ。


2003年11月08日(土) 放送大レポートに苦心

昨日の夕方、主治医の先生がやってきて、骨シンチの結果を教えてくださった。やはり背骨だけでなく、肋骨や骨盤の一部に弱くなっているところがあるのだそうだ。わかっていることとはいえちょっとショック。

今日は特別な治療はないが、昨日の骨髄穿刺の痕の消毒があった。ベッドに横になって若い看護婦さんが消毒液を塗って大きな絆創膏を貼ってくれる。終わって安心し起き上がったらすぐに主治医の鈴木先生が回診に来た。やっと起き上がったばかりなのに寝ていればよかった。

ホテル住まいの妻が、病院の近くのワンルームのアパートを見つけてきた。この際数ヶ月かかるのだろうからそのほうがいいだろう。安いホテルとはいえ何日もだと破産してしまう。

7人部屋から昨日と今日で二人が退院していった。来たばかりの私でもうらやましい。トータルで5ヶ月も入院していることになる。

放送大学は11月ぐらいには退院できるだろうという甘い考えのもと、後期に2科目をとったのだが、こんな状況で放送をきくことができない。そうしているうちにレポートの提出期限が1ヶ月を切ってしまった。教材を持ち込み独学でレポートを完成させるしかない。今日から一つの科目に手を付け始めた。こっちは得意分野なのでなんとかなりそうだが、もう一つのほうは先が思いやられる。とにかく時間が無いが、12月2日に間に合うようやってみたい。


2003年11月07日(金) 【写真付】骨髄穿刺

病室から見た岩手山今日は岩手盛岡に来た証拠をお目にかけようと思う。岩手といえば「岩手富士」ともいわれる岩手山がシンボルだ。4日の日に高速道路で松尾八幡平を過ぎたあたりからずうっと右手に見て走ってきた。しかし、実は病室の窓からビルとビルの間に岩手山の雄姿が見える。毎朝カーテンをあけると、ちょうど私のベッドから見る方向に岩手山がある。金網の入った病室の窓ガラス越しに撮影してみた。

今日の検査は、まず5時過ぎに採血。これはずいぶん早い。

9時半、心電図。

10時半、骨髄穿刺。今回も痛かった。時間になっても検査担当のお姉さんが来ない。しょうがないから先生が自分でやると言い出し始まった。途中で後ろを振り返り、若い医大生(インターン?)らしき男に「やる?」と声を掛け選手交替する。内心大丈夫かよと思いながらも覚悟を決める。消毒や麻酔は順調に進む。そして胸の骨に針を刺す。後ろから先生が「あと半回転締め直せ」と声をかける。さていよいよ骨髄液を注射器で吸い取る。胸の骨を吸い取られるようだ。痛くて「ウウッ」と声が出る。背後から先生が「あっ、そんなに取るな!」と小さく叫ぶ。(おいおい、なにをそんなに取ってんだよー)もう一回。また激痛。

やっと終わった。先生がずいぶんと優しい声で
「うまく取れましたからね。」
と言って検査終了。本当にご苦労様。疲れた。


2003年11月06日(木) 骨シンチレーション

昨日の日経によると電子政府機能のトップはアメリカであり、わが国はなんと30位に低迷している。決済機能にいたっては日本はゼロという結果になっている。これは恥ずかしい限りだ。アメリカでは免許証の更新さえインターネットからできる。政府が「e-Japan」という構想を出してからどのぐらい時間がたったのだろう。やはり地方から改革していかなければ変わっていかないのだろうか。

岩手医大に移って三日目になる。とても感激していることがある。それは食事が美味しいことだ。生野菜も出るし、漬物が頻繁についてくる。牛乳は岩手牛乳。味付けもいい。ご飯の量も適量だ。大きな病院の食事もちゃんとこうしたしっかりしたものが出せるのだ。そう考えると、これまで入院していた某労災病院の食事は何だったのだろうと思う。あそこの栄養士さんを連れてきて食わせてみたい。

もう一つ、看護師(看護婦)が若くて優しい。年配の看護師ももちろんいるが、私たちの世話をしてくれるのは一般に若い看護師さんたちだ。このことは病院で少しでも気持ちよく生活する上で重要なファクターである。

9時に「骨シンチレーション」の検査に呼ばれる。
「えっ、昨日先生と看護婦さんが6日ではなく11日ですよと、二度も訂正に来ましたよ。」
ということで看護婦が確認に戻っていった。しばらくして「やはり今日やります」とやってきた。どうなっているんだろう?とりあえずついていく。地下のRI検査室で注射をして、「13時30分からの検査です」という紙を渡され部屋に戻る。放射性同位元素の入った注射の薬の手配が11日ではできないため今日やってしまうらしい。

10時から予約していたお風呂を使う。そういってもシャワーだけだが、やはり妻から介護してもらい、無事に済ます。

13時30分、地下のRI室へいき、「骨シンチ」検査を受ける。細いベッドに載って45分。動くなといわれても半分眠りかけ、時々ぴくぴくと動いてしまうが、無事終了。どんどん検査も済ませて、早いとこ治療に入ってもらわないと。


2003年11月05日(水) さっそく検査開始

妻の付き添いのない夜を過ごした。寝汗をかいたときにナースコールで看護婦を呼び着替えを手伝ってもらった。トイレは尿器を用いたあと、看護婦が始末をしてくれた。

いよいよ今日から検査開始だ。まず整形外科に呼ばれる。これまでの経過をきかれる。さすがにレントゲン写真を撮る前に診断はできないらしく、撮影のオーダーをした。そのままレントゲンへいくも、レントゲン技師に
「山村さん、こんなにたくさん撮るんだと1時間もかかっちゃうので、後で呼びますから部屋で待っててくれませんか。」
病室に戻り再度呼ばれたのがちょうど昼食タイム。しかも今日のメニューはラーメン。小一時間撮影したあと戻ってきたときには、素敵にのびていた。

夕方に再び整形外科に呼ばれる。今度は午前中と違う先生だ。教授と呼ばれる先生である。またこれまでの経過を説明する。いろいろと質問されたが、どうだという診断の話はなかった。血液内科の先生に伝えられるのだろう。

夕食前に日記をつけていると主治医の鈴木先生がみえ、パソコンを覗き込んだ。デスクトップは?と訊ねるので、せなの傷だと教えてあげた。
整形の先生はリハビリをやろうといっているそうだ。良かった。社会復帰には欠かせない。


2003年11月04日(火) 岩手医大へ転院

いつもどおりに起床し、いつもどおりに食事をすませる。青森労災病院最後の日だ。娘たちがきて荷物を車につけてもらう。それにしてもすごい荷物だ。いつの間にこんなに持ちもんだのだろう。何しろ妻と二人分なのだから荷物が多いのもしょうがない。

長谷川先生も励ましに来てくれた。ナースステーションでお世話になった看護婦さんたちに別れを告げる。全員出てきて見送ってくれた。これが退院だったらどんなに気持ちがいいことか。

コンビニでおやつと飲み物を仕入れ一路盛岡へと向かう。折爪と岩手山のSAで休憩をしたため盛岡医大に入ったのがお昼直前になってしまった。やっとの思いで第三内科へ紹介状を届けることができた。昨日の月曜日が祝日で病院も休みだったのだろう。外来はどこもたいそう混んでいた。結局呼ばれたのは午後1時過ぎ。それから診察ではなく入院手続きのための質問に対する回答をし、病室へ案内された。中病棟の730号室だ。な、なんと7人部屋だ。超狭い。隣のベッドと50cmぐらいしか離れていない。かなり古そうな建物だ。ベッドの高さ調節も看護婦が4人がかりで持ち上げないとできない。洗面所も車椅子の私が顔を洗いにいくと通路をふさいでしまうほどだ。先が思いやられるが慣れるしかないだろう。

最も重大なことは、完全看護だということで妻の付き添いができないことだ。止むを得ずしばらくは近くのホテルに投宿して通ってもらうことにする。

午後から主治医の鈴木先生の説明があった。説明の前にいろいろと質問があった。どういう経緯でこの病院に来ることになったのか、前の病院ではどう言われてきたのかなど。

もちろん治療の選択肢が広がるというのが最大の理由だ。骨髄移植やサリドマイドの投与など。しかし先生は今の状態ではどちらも思ったほども効果は期待できないのだそうだ。ほかにどんな治療が適切か検査をして決めていきたいとのことだ。

せっかく来たのに残念だが、一方はっきり説明してくれる医大に来て良かったという思いもある。


2003年11月03日(月) 来訪者ラッシュ

第一生命のドリームキングダムというポイントサービスがあり、ネット上から懸賞やクイズに応募できる。中には「毎月一回応募できます」というコーナーがあり、さっそく11月分の応募をしようとしたら、「既に今月はご応募いただいています」ホームページは10月のままなのだ。月初が休みに当たったのでHPを更新していないのだろう。こういう月ごとの応募を受けるページは休みでも更新してほしいものだ。

朝食後横になった直後に室の今野さんがヨーロッパ視察の写真を持って来てくれた。すぐに起きてデイルームへ行きそこでいろいろお話を聞く。そうしているところへやはり室の磯嶋さんが合流する。いっしょに会話に加わる。そのままお昼近くまで盛り上がる。

その間に、畑中京子さんが今日も来てくれた。お嬢さんとお孫さんたちを連れてやってきた。また差し入れまで頂戴した。

次には叔母の伊藤タキさんといとこの工藤絹子さんが名川のりんごを持参で来てくれた。やはり盛岡へ行く前に顔を見ておきたかったとのこと。

お昼になり室の二人が帰った後部屋に戻ると、田中と書いた紙袋が置かれていた。美容室モンパルの田中ふさ子先生が来てくださったようだ。デイルームにいたのに気づかずに帰ってしまったらしい。

昼食後昼寝をする。昨日の疲れが出たのか1時間半熟睡した。人の気配で目が覚めたら、下水道の工藤、畠山両氏と、県文化観光推進課に派遣されているY原氏が来てくれた。借りていたDVDや本をお返しし、下水道行政についての議論に花が咲いた。

3名が帰ると、バスケットボール協会の上田先輩が来てくれた。先月行われた県の社会人バスケットボール大会の結果を持ってきてくれた。一般もシニアも男女とも三八地区が優勝したということで、社会人は南部地区が比較的レベルが高いということがかわった。

NPO法人循環型社会創造ネットワーク「CROSS」の事務局長、音喜多博さんが来てくれた。10月31日に行われた「北国の循環型社会創造フォーラム」の裏話、苦労話を聞かせてもらった。

妻の同級生で親友の池本智子さんが妻が実家に帰っているときに来てくれた。昨日から妻が何度か電話をしていたらしいが、どうも行き違いになったままなので来てみたら、やはり行き違いになった。いつもはほとんどうちに居るそうだが残念。

夕食前には一度午前中にみえた田中光彦・ふさ子夫妻が来てくださった。私たち夫婦とも結婚前からの長い付き合いなので、顔を見ただけでも本当に励まされる。

夕食後には書道クラブの佐藤先生が来てくださった。ちょっと遠くなるがめげずにがんばって来いと励ましていただいた。


2003年11月02日(日) 【写真付】一時帰宅

今日も快晴だ。外出許可を取り一時帰宅してきた。明後日の岩手医大への転院準備のためだ。(本当はネコのハイドに会うため。)

途中ピア・ドゥに立ち寄り、フードコートでドトールのカフェ・ラテをいただき、本屋さんで本を多数調達する。

家族の一員「ハイド」自宅へ着くと、畑中京子さんから鍋焼きうどんセットの差し入れが届いているではないか。昼食は予定を変更してこれをいただく。その美味かったことといったらやはり食べた人でなければわからない。

溜まっていた郵便物に目を通し、娘にパソコンのセキュリティの設定をしてやり、持っていく本を選び、風呂に入って最後にやっとネコのハイドにご対面。どこにも見当たらないと思ったら、ちゃっかりおじいちゃんのベッドで寝ていた。

4時までに戻るつもりがずれ込んで5時近くになってしまった。そうしたら面会に来てくださった方々がたくさんいたのだ。テーブルの上にはお見舞いの品が並んでいた。

いとこの和田さん、叔父の伊藤さんのほか、職場のほうからは、観光課の田村さん、室の池本室長、磯嶋夫妻、せっかく来ていただいたのに留守にしていてすみませんでした。

病室に到着して早々に、今度は室の鈴木氏夫妻と国際交流員のジョシュアが来てくれた。鈴木夫妻というと誰かと思ってしまい、春日の影が薄くなる。鈴木、春日、ジョシュアと言ったほうがわかりやすい。わざわざ来てくれてありがとう。

その後、妻の兄が来てくれた。盛岡へ行ってしまえば、なかなか見舞いにいけないからと話していた。

そしてすぐ、室の大坪参事が来てくださった。いきなり「にんにくアイスを食べよう」と、新郷村で作っているというドラキュラアイスというのを取り出し、娘と3人で食べてみた。にんにくがまるごと半分入っているそうで、刺激が強いので1日1個だけだそうである。(ちなみに子供は半分)まかなか美味だ。

夕食は和田さんが差し入れてくれた鯖焼きを部屋の皆さんとシェアしてたらふくいただいた。これも美味かった。


2003年11月01日(土) 操法大会DVDになる

夕べ寝る前にBSで映画「オータム・イン・ニューヨーク」を観た。ニューヨークで有名レストランを経営するプレイボーイが若い娘に本当に恋をするが、その女性ははかなくも死んでいくという切ないストーリーである。久しぶりに22時まで起きていたら、夜中に着替えやトイレに起きる回数が少なくて済んだ。いつも20時過ぎには寝るのだから早すぎるのだ。

午前中はベッドでごろごろしながら、なかにし礼の「長崎ぶらぶら節」を読んだ。最後のあたりは主人公の芸者愛八の気持ちを思い涙がこぼれた。いい小説だった。

午後には消防団の松田副分団長と出町班長が来てくれた。先日行われたポンプ車法大会の様子を記録したビデオをDVDに変換して持ってきてくれた。我が舘一班は堂々2位に入賞し、来年行われる三八地区大会への出場権を獲得した。

そのDVDを観ている最中に、先日たくさんの本を貸してくださったK氏が、私が転院するのを察知して本をとりに来てくれた。中座して部屋に戻り借りていた本をお返しした。全部はとても読めなかったが、中心商店街の変革を書いた「変わる商店街」など、ユニークなものがあり大変参考になった。

消防団の二人が帰って部屋に戻りしばらくすると、接待部長が来てくださった。岩手医大へ移ることを一通り説明した。仕事のほうは気にせず、治療に専念するようにとの言葉をいただいた。

夕方には妻神次長が来てくださった。昨日は今野主任の帰国報告会があったらしく、たくさん飲んだそうだ。今日は菊まつりのメインイベントであるミス菊の花コンテストが行われていたそうで、携帯で写した写真を見せてもらった。新幹線や洋上風車など仕事の話で盛り上がった。

先進地視察へ行ってきた職員の発表会もあったそうだ。中でも「EM菌」の先進地を視察した職員の発表は面白かったそうだ。一番最後の結論が「EMは胡散臭い」だったそうで、なかなかこの職員は本質を見抜いてきたなと感心した。当市の蕪島海水浴場の水質問題でもEMを撒くなどという誰が考えても(比嘉教授以外)無駄なことはしないでもらいたい。小川原湖周辺町村では小川原湖の浄化のためにEMを活用するらしいが、成果が上がるのかどうか楽しみにしている。

5月にこの比嘉教授とやらが八戸にきて講演をしたことがある。以前からあやしいと思っていたEMについてどんなことを言うのだろうと思い、講演を聴いてみた。とんでもない話をする人だった。
⇒ 講演内容

明日も天気はいいらしいので、外出許可をもらい、自宅へ行ってこようと思っている。ハイドはどうしているかな。


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