lazarusの日記
lazarus



 書いて覚える・・・・。

山崎透 著

「不登校児童のメンタルヘルスとクラス運営」
1. はじめに
 子どもが学校に行かない、行けないという現象は、
「学校恐怖症」から「登校拒否」へ、そして登校拒否から
「不登校」へとその呼称を変えてきましたが、
それは、社会的には「特殊な現象」から
「どの子にも起こりうる現象」へ、
精神病理学的には神経症の一単位から
様々な病態に伴って出現する症状名
もしくは状態像をさす概念へと
変遷してきていることを反映しています。
それに伴って不登校に対する援助・治療も多様で
柔軟なシステムが求められてきているように思われます。
 本稿では、不登校現象の捉え方、ケースの見立てや
援助の要点、クラス運営の工夫、他者との連携などについて
筆者のおもうところを述べてみたいと思います。

2002年11月20日(水)



 おなじようなもの。

とっくに知ってること。
ひとは、似たりよったり。
肩書きのたくさんあるひとも、ないひとも。
似たようなものを、ちゃんと持ってる。
持ってるけれど
意識してるか否かの違い。
そんなこと、とっくに知ってる。
他人のなかに、「それ」を見つけたとき
なんときちんと整理されて見えることだろう。
自分の中では
こんなに混乱しているのに。
そんなことも、とっくに知ってる。頭の中ではね。
不思議な自分を行ったり来たり。
生まれ出づる悩み。
距離感。
教育タクト・・・・・。
そんないろいろな自分の気持ちを
時間を作って聴いてもらおう、だれかに。タダで。
「いいひと」のボランタリー精神にうったえて。
そうだ、そうだ。我ながらとってもいい考え。
ひとの成長を見守る忍耐強さ。
まとまらなくて、ぼんやりしてることがよい。

「朝、目が覚めて、なんてしんどさ。・・・と、感じるけれど
ひとり、ふたりと診察してゆくうちに
どんどん元気になってゆく自分を感じる。」M氏。

2002年11月11日(月)



 TA

よくは、わからないけれど・・・
(よくわからなくてもやる。
意味がわからなくてもやる。
どこかで聞いたせりふ・・・。
未知との遭遇♪で、リチャード・ドレイファス)

自分の話し方のクセを、とことん知って
ある程度の分析ができ
カウンセリングとして成立する会話のやりとりを
具体的に知る。感じる。体験する。
そのために
やりとりの全体を捉えておけるよう
あたまのなかと、感性を
トレーニングする。
たくさん、たくさんやる。
これまで、生きてきたぶん、
修正もおおい。。。。

これは、自分の問題解決ではなく
課題(目標)の設定である。

2002年11月06日(水)



 

私は、母親の立場で
ピアノの先生の役割を演じてたのかなあ。

リアリストで
ロマンチスト。
だから、魅力があるのかも、みわこさん。
フラットな関係で行こうという発言が
私の意思を決定させた。
どうしようかと迷う事にエネルギーを
もう使いたくない。
くたびれるひととは
もう、ツキアイマセン。
社会性の空洞化が、そこここの
おとなのなかにも存在する。

自分の子どもは
ひとつの人格をもつ。
それが現実。
自分について、リアルに考えると、親は、「自分のゆめ」を
こどもに要求することはできないだろう。
でも、その自分のゆめのなかでこどもと向きあってるおやたち。
そのことについての認識不足。
それも空洞化してる。

2002年11月05日(火)
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