旗日の設定が変わり、ウイークデイに祝日を作らず、土日に続く月曜日になったことで、以前は、固定していた祝日が、毎年動く。 9月15日に決まっていた「敬老の日」が、今年は、今日である。 一昨日、ある会合で、「何も、土日と続けなくても、いいのにねえ」という意見が多かった。 三日続きにすれば、小旅行などに行きたい人には便利だし、会社にとっても、間に休まれるよりも、かえって効率がいいと言うことなのだろうが、国民が、同じ日に、一斉に休むと言うことが、果たしてそんなにいいことなのかどうか、疑問に思う。 月曜日の授業は、ほかの曜日より時間数が少ないので、年単位の授業計画が、立てにくいという話を、ある大学の先生がしていた。 授業時間が少ないからと言って、給料に差があるわけでもないだろうが、時間給で貰っている講師などは、収入に響くかも知れない。 また、三日間という休みは中途半端で、家庭の主婦などは、家族が居る分、家事が増えるだけということもある。 みんながそうそう、お金のかかる旅行や、外食ばかりして、過ごせるわけでもあるまい。 昨日、母から電話。 「元気?」と訊いているが、本当は、自分がそう訊いて欲しいのである。 8月に行ったきり、ひと月も無沙汰をしてしまった。 ちっとも顔を見せない娘を、気にしているのである。 私も、もう、高齢者のカテゴリーに入っているのだが、母にとっては、いつまでも、娘であり、その世代は、子どもが親のことを気遣うのが、当たり前だと思っているところがある。 しかし、60才半ばを過ぎた私自身も、もう、若い時のように元気なばかりではない。 出かけること自体が、もう、億劫だと言うことが増えてきた。 この前行った時、私が膝の痛みを訴えたので、母は心配して、持ち合わせの湿布薬を貼ってくれた。 いつまでも、親は有り難いなと思い、本当は、言いたいことがあったのに、胸に納めて帰ってきた。 その後、避暑に出かけてしまい、そのままになっていた。 「悪かったね」と謝ったが、母は耳が遠いので、あまり込み入ったことは、電話では通じない。 連休が明けたら、墓参りに行くことになっているので、その帰りに、行こうと思った。 「元気な人には働いて貰って・・」などと言うことを、自民党総裁選の、さる候補者が言っている。 いかにも、男の発想だと思った。 家庭で夫を支えて、過ごしてきた女たちには、どんな言葉を掛けてくれるのだろうか。 また、男にとっても、仕事だけが、人生ではない。 日本の高度成長期、豊かさへの橋掛かりとなって、充分働き、これからは、老後を心豊かに過ごしたいと思ってリタイアした人たちに、まだ、会社みたいな働き方を勧めるのか。 ちょっと発想が貧困すぎないか。 子どもの受難が増えている今、気持ちに余裕のあるおじいちゃん、おばあちゃんの出番を作るとか、若い人たちに、生活の知恵を引き継いで貰うとか、席の空いた大学に、もう一度勉学の機会を与えて、授業を活性化させるとか、いろいろ多様な道がありそうだ。 私の住む市では、幸いこの方面に積極的な市長さんになってから、市民に大学を開放するやり方を取り入れている。 ネットワーク大学と名付けて、昨年から、様々なプログラムを、設けている。 以前の市民講座というと、あまり専門的でない、趣味や健康、入門的なノウハウ物が多かった。 このところ、様変わりしている。 平日は、夜間にも半分くらい時間設定している。 先日、募集した秋期のプログラムのうち、「臨床心理学」と「比較宗教学」という、回数の多い、まじめに取り組む型の講座が、すぐに満杯になった。 高齢者対象と言うわけではないが、前回の例から、多分、半分くらいは、シニア受講生であろう。 今や、もう、小手先の市民講座よりも、こうした物にニーズが高まっているのである。 孫の面倒を見るだけ、受け身で介護をされるだけの、おじいちゃん、おばあちゃんのイメージは、もう私の世代くらいからは、無くなっている。 介護の形も、変わって来るであろう。 高齢者に対するイメージを、変えて行かねばならない。 かといって、若い人と同じ働き方を、強要しても、うまく行かない。 長い人生経験と、生活感覚の中から産み出された知恵、心のゆとりから生まれる、人間に対する見方、感じ方を、いろいろな場で活用し、役立てて貰うこと。 高齢者を邪魔者扱いにして、サービスの質を減らすなど、もってのほかである。 下記の記事を読んで、示唆されること多く、私も、あらためて、その世代に属する人間として、考えてみた。
|