沢の螢

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「杜若」
2003年08月10日(日)

連句でご縁のある人から招待券を送られたので、国立能楽堂に行った。
金剛流の演奏で、出し物は「杜若」。
私は能楽には、詳しくないが、年に一度、こうした機会にめぐまれる。
知った顔もちらほら見えて、それぞれカップルや、グループで来ていたようだ。
正直、途中で少し眠くなってしまったが、たまにはこういう古典芸能に接するのも悪くない。
終わって、招待券を送ってくれた人に挨拶して、会場を出た。
駅までの道筋にある喫茶店に入り、コーヒーを飲んだ。
歩道に向かった席に座っていたら、知った人が何人も横切っていくのが見えた。
夫婦ではないが、それぞれ連れあいを亡くし、応援したくなるような年配のカップルもいた。
私に気づき、二人が手を振った。

能では、何年か前に見た観世流の「道成寺」が印象に残っている。
見せ場があるし、鳴り物も華やかで、面白かった。
古典芸能では、文楽が割合好きだ。
最近あまり足を運ばないが、ひと頃はよく行った。
国立劇場の文楽、この秋には行ってみたいと思っている。
私の好みでは、近松の世話物が、やはりいい。

今月に入り、6日9日と、二つの原爆の日を迎えた。
広島で私の叔母が死んでいる。
母のすぐ下の妹で、未婚のままの死であった。
数年前、中国新聞が調査して、爆心地でなくなった人の名前がかなり明らかになった。
母の実家は、爆心地のまさに真ん中、中島本町にあった。
両親と他のきょうだいが、田舎に行き、一人留守番をしていたその叔母が、犠牲になった。
跡形もなくなった場所で、どこの誰ともわからぬ骨を拾って、葬式をした。
私は、父の出征したあと、弟と、生まれて2歳の妹と共に、母に連れられて、福岡県の父の実家に疎開していた。
原爆が投下されて2ヶ月後、母は私を連れて、叔母の葬儀のために広島へ行った。
その時の、広島の光景は、私の目にはっきりと焼き付いている。
真っ黒な立ち木と、瓦礫の山、その中で、路面電車が走り、人々が行き交っていた。
まだ残留放射能もあったに違いないが、そんなことは、知るよしもなかった。
40代に入って、私は広島在住の友人を訪ねて、広島に行った。
その時原爆資料館に行き、幼い時に見た光景が蘇ってきた。
その後2度、広島を訪れている。
必ず、いまは平和公園になっている、母の実家のあとに行く。
エノラ.ゲイが旋回を始めた時刻、地上では人々の日常が息づいていた。
一瞬にして、10数万という人の命が失われ、生き残った人も、悲惨な苦しみの中で次々と死に、いまも後遺症に悩まされている。
こんな事は、絶対に赦されない。

一墓下の骨の声聴く晩夏かな
叔母の忌やわけてもしるき蝉の声



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