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映画『光の雨』を見てきました。あさま山荘事件の前にあった、
「総括」という名のもとに行われた、リンチ殺人事件の話。
前に『カノン』という舞台で、巨大な鉄球がセットを壊したとき、
どっかでこんなの見たことあるなー程度にしか思わなかったほどの
何も知らない私が、何で見ようかと思ったかというと、役者目当て。
近藤大介さんが出てるんです。前売りチケットに名前が載る状態で。
でも、こういう内容の映画に言うことじゃないのでしょうが、退屈でした。
内容が内容だけに「大介君を探せ!」という見方はしてなかったのですが、
途中からゴソゴソと動き出す客あり、寝息を立てる客あり・・・でしたし。
「『光の雨』という映画を撮っている人たちの映画」という二重構造だし、
記録映画を作りたいんじゃないらしいことは、構造的に分かるのですが、
じゃあ、誰に何を言いたいんだかが、ちっとも伝わってこない。
見ながら、彼らが作っている映画だけ見たいなぁと思ってました。
多分ね、作っている人たちの場面にリアリティが感じられないんです。
映画の中で最初に殺される2人が、現実に付き合いだして事件を語っていたり、
普通の会話の中で、冗談ではなく真剣に「自己批判」「総括」を行ったりする。
今の20〜30歳が いきなりこの思想を語ったりするものか?と感じる。
だって、メイキングで役者が口々に言っていたのと同じく、
「自分なら、あんな所に行かない」「分からない」が、私の感覚だから。
そこに居て、目の前で行われたら どうするか?という状況であれば、
彼らの行動は理解できるし演技できるけれど、行かないから「関係ない」。
事件の発端となった もともとの思想自体が、今の私たちが見ると、
真剣に信じていた人がいること自体、信じがたいものであり、また、
その思想が、現在に与えている影響が、全く見えない以上は、
事件の発端自体は結局「ワカンナーイ」「カンケーナイ」代物のままでした。
なぜ信じたのか。それが無いと、彼らへの理解なんぞありえません。
事件を通じて、今の若者を描きたいという意図があったそうですが、
「今」でリアリティを感じなかったので、残ったのは中途半端な印象だけ。
最後に「長い話を聞いてくれて有難う」って、演出家?の声が入るのですが、
どうせなら、「長い話」が聞きたかったです、私は。このまんまじゃ結局、
その世代の人が語り始めたところで、相槌のうち方さえ分からないままだもん。
大体、そのエンディングにするなら何故、原作と同じ設定にしなかったのよぉ(泣)
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