透明思想。
2005年04月12日(火)  昨日の深夜のこと。
父親と志望大学について話し合っていたら、その終いに「自信の無い奴はやめれば(受験しなければ)良い」と言われ酷く衝撃を受け、半ば自棄になってそのまま風呂場に直行して、号泣しながら入浴して(こう書くと笑えるがその時は大真面目)、そのまま少し醒めた頭の中で父親の言葉を反芻しながら『こうして泣いてる自分』と『自信』について考えてました。

そうして見つかった“自分が泣いてた理由”は幾つかあって、
一つに『親がまるで自分の発展性を期待していない様に感じた』という“何とも”な甘えから来る、大袈裟に言うなら裏切られたとか見放されたとか言う自分本位に因る悲しさで、
次に私の『これからの発展性』を予測しない親に対する悔しさで、
…そして最後に、これは『自信』の方にも繋がるところがあるのですが…私が私に『生産性の無い自分に価値を感じられない』という様な、言い様の無い『揺さ振りがけ』を感じた衝撃と切迫感からでした。

考えてみると、私の『自信』は自分の中で、『ともすれば何時でも見失ってしまいそうになる“期待”や“希望”を核にいつも“他人から与えてもらえる色んなもの”がくっ付いて、やっと意識できるもの』であったのかな、と。
本当に情けない、甘えの塊でしかないようなものだったんだな、と。
でもどこにも確信が無いんです。自分の中に。

私が「私」という存在で誰からも切り離される「境界」がどうしても消え去らない時点で、私の事は私だけが管理するしかないのだけれど。

そういうことをぐるぐると考えて、誰もが生まれた瞬間から持ってる訳ではない『自信』を、そんな遠い存在(に私には感じられる)ものを、父親が「在るか無いか」で「あきらめろ」に直結させたのはやっぱり分からなくて、結局そんな取り止めの無い思考をひねった末に…そういう思考に混ぜ返されたのか毒気を抜かれたのか、段々事の発端になった父親の言葉もどんどん遠く感じられてきて、風呂を上がって父親がまだ起きていたのを見てもかけたい言葉は見つからず、どうして良いのか分かりませんでした。

ただ父親がそうして仕事でもないのにパソコン開いていたのは私の受験に関する資料に目を通していたからで、まとまり切らない思考を一つ抱えただけで一杯になってしまう自分は酷く頼りなくて。

時計を見たら深夜二時。
私が風呂場に逃げ込んでから一時間、その前に私も父も散々話し合った末の事だったから、互いに交わす言葉も必要とされなかったけれど。

でもそうして、どうしても私だけの「私事」になってしまう事柄に最後まで付き合ってくれてる“この人”は、私の“親”で無償で在ってくれているのだ、と思い浮かんで肩の力は抜けた気がしました。


■後日談(今日の事)
母に、「父の言っていた“自信”というのは多分“やる気”の事だよ」と言われました。
…………………………………。
…今なら、父に言いたいことが沢山あります。散々泣いてたの、何の為だったんだよ、とか。

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