「安易に自殺した人たち」が責められる本当の理由 - 2004年03月09日(火) 「自殺は悪いことだ」そんなことは至極最もなことにもかかわらず、みんなは「ラスト・サムライ」で渡辺謙演じる勝元の「死の美学」を「これぞ日本人の魂!」とか絶賛するわけだ(いや、僕も嫌いじゃないよ、作り話だし)。 でも、浅田農産の会長夫妻が「自ら死を選んだこと」については、「自殺は良くない!」とか「安易に死に逃げるな!」とか罵倒してしまうわけで。 それを言うなら、勝元だってあんな勝ち目のない玉砕戦術に敵や味方を巻き添えにしなくったってよかったんじゃないの?なんて思わなくもない。 「死刑廃止論者」の多くが、池田小事件の宅間やオウムの麻原のことになると口を濁してしまうのは、なんだかとても不思議なことだ。「死刑廃止」というのなら、「改心した後の永山則夫」について語るより、まずこういう「もっとも死刑に相応しい犯罪者」たちに対して考えなければなるまい。彼らは例外だというのなら「死刑廃止」なのではなくて、「死刑慎重論」(死刑にする犯罪者は、なるべく慎重に判断しよう)であって、別にそれなら僕は異論はない。 浅田農産がやったことというのは、不届き千万なことで、自分の利益と生活を追求するあまり、他人が口に入れるものに対して不感症になってしまった生産者というのは、「万死に値する」と思う。ただ、話を聞いていたら、「弱っている鶏から出荷する」なんてことは、昨日今日はじまったことではないみたいだし、おそらく、この浅田農産だけがやっていることではないのだろう。 こういう感覚っていうのは、本人たちにとっては、料理屋で客が手につけなかったパセリをそのまま次の客に出すのと同じ程度のものではなかったのかな、などとすら感じるのだ。 確かに、鶏インフルエンザというのは怖い。ただし、今のところ日本では死者はいないし、卵や肉からの感染は確認されず、感染ルートは生きた鶏からのみとされている。僕はこの「鶏インフルエンザ隠し」のニュースを観て、「まあ、こういう人たちがいてもおかしくないだろうな」と思ったし、驚きもしなかった。考えてみれば、兵器を売って儲けているよりよっぽどマシじゃないか。だからといって、死にかけた鶏を食べさせられるのは、気持ちの良いものではないけれど。 しかし、言葉は悪いかもしれないが、こうして浅田農産がスケープゴートになったおかげで、今後「鶏インフルエンザ隠し」をやろうとする生産者は、まず出ないだろうと思われる。老夫婦が「死を選ばざるをえない」と追い詰められるようなバッシングを受けて、ブランドイメージも失墜するのなら、せめて自分の命だけでも守っておいたほうがマシだからだ。 そういう意味では、彼らの自殺には「意義」がある。これほどの生産者への「無言の圧力」はないだろう。本当に悲しいことだけど。 西南戦争で、西郷隆盛が敗れたことで、士族たちが「諦めた」のと似たような効果があるのかもしれない。 どうして、「ラスト・サムライ」の勝元の切腹は受け入れられて、社会から追い詰められ、行き場のなくなった老夫婦の自殺はバッシングされるのか?まあ、あの状況では、勝元は切腹しなくても死んでいただろうけど。 僕には、その理由がわかるような気がするのだ。 それは、勝元の死は「自から選んでの死」であり、老夫婦の死は「他の方法がない、追い詰められての死」だから。 「自殺はよくない」「卑怯だ」「説明責任を果たすべきだ」という声を発する人たちも、本当は、わかっているんじゃないかと思う。彼らを死に向かわせたのは、本当は誰なのか?ということを。 でも、それを認めたくないから、死者を「卑怯者!」と罵倒するしかないのだ。まったくどうしようもないことなのだが、浅田農産の人々が、どんなに経緯を理路整然と説明したとしても「反省していない」なんて叩かれるだけだろうし、「会長夫婦が自殺」というひとつの事実以上に、生産者に「隠すことの怖さ」を印象付けられ、今後の「鶏インフルエンザ隠し」を予防できる結末なんて、他に思いつかない。 そんなふうに考えると、彼らも犠牲者には違いない。少なくとも、僕は勝元にはなれないが、会長夫妻のような立場になってしまう自分というのは、容易に想像できるのだ。場当たり的な嘘が嘘を呼んで、がんじがらめになることなんて、そんなに珍しいことじゃない。 「逃げるための死」とかいうけど、自殺というのは普通の人間が「ちょっと死にたい」と思ったくらいで容易にできるものではなく、病的な「死に向かう強迫観念」のようなものに由来することがほとんどだ。「死にたい」と言う人はたくさんいるけれど、本当に死んでしまう人の割合は、そのごくごく一部なのだから。 「安易に死ぬな」とか言うけど、安易に死ぬことができる人間が、そんなにあなたの周りにはたくさんいるんですか? 僕は、自分が彼らを殺した張本人の一人だと思う。それを受け入れるしかないような気がする。彼らのやったことを責めないと、自分や周りの人たちの命にかかわる。彼らを責めた仲間は大勢いることだし。やりすぎたとは思う。死ぬことはなかったじゃないか、とも思う。でも、その一方で、これほど効果的な「抑止効果」はない、とも感じる。そういうふうに感じるのは、人間としては悲しいことなのだが。 嫌われついでに、最後にひとつ言っておこう。 もともと人間というのは、赤の他人の健康より自分の利益が気になるという傾向がある。だって、そうじゃなければ、スーパーやコンビニの食料品売り場で、賞味期限が迫っているものから前に並べられるなんてことは、ありえないと思わないかい?「賞味期限内だから大丈夫」でも、基本的には新しいもののほうが、より「安全」なのでは? 鳥インフルエンザは、今のところ肉や卵を介しての発症は報告されていないし、70℃以上で加熱すれば大丈夫だと言われている。だから、そんなに心配なら、自分で口に入れる前にしっかり加熱するべきだし、それでも不安なら食べなければいいのだ。他に食べるものがないわけじゃない。BSEにしてもそうだが、「安くてそれなりに美味しいもの」には、どこかに歪みがあって然るべきなのではないか。 他人の不実さを責めるだけではなくて、生き延びるためには「自衛手段」も考えておいたほうがいいよ、絶対に。 ...
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