憂鬱風「好き」とか「愛」とか「袋小路」とか。 - 2003年06月13日(金) 僕は子供の頃、「無心」になりたいと思って、その努力をいつもしていた。 「頭の中を空っぽにして、無心、無心…」 よく考えてみると、それは「無心、無心と考えている」だけであって、全然「無心」などではないのだ。 今から考えると、面白い本を読んでいる時間とか、『ダビスタ』や『三国志』にハマっていた時間、あれがたぶん、いちばん「無心」に近かった。 悲しいとき、辛いときに、世界のすべてから放っておいてもらいたくなることがある。 「大丈夫だよ」と包まれることには、有難さと同時に、その無垢な善意に答えなくてはいけない、という煩わしさがつきまとう。 でも、そんなに引きこもっていても、パン屋さんが作ったパンを食べたり、水道局の人がろ過した水を飲まないと、僕たちは生きられない。 そういう物質には、たぶん「美味しく食べて欲しい」とか「安全であってほしい」という「善なる意思」が多少なりともこめられている。 僕は悲しいくらいにモテナイが、この年になると、「なにものにも愛されずに生きる」というのは、「何も愛さずに生きる」のと同じくらい、もしくはそれ以上に難しいことだという気がしている。 多くの人間は「好きだ」という言葉を知っていて、それを使っているけれど、実はその言葉の強さや意味は、人それぞれなのだ。 「キミのことが好きだ」と言われたとして、それが同じ「好き」という言葉でも、僕があなたを想う「好き」と全く同じ強さでも、意味でもありえない。 この世界には、僕より「好き」とか「愛してる」を簡単にばらまけるヤツもいるし、その言葉の重さに、一生口にすることができない人だって、いるのかもしれない。 誰だって、他人から「好き」と言われることは嬉しい。当たり前だ。 でも、その「好き」を自分の解釈の「好き」と同じだと判断してはならない。 ひとりひとりの持っている辞書は、悲しいほど違うものなのだから。 もし生きているのが辛いときには、僕だったら、寝てしまうか、それが許されないのなら、ゆっくりでも、目の前の仕事をやる。「2ちゃんねる」をアテもなくさまようっていうのもいい。あそこは、そういうときに結構役に立つ。 時間さえ過ぎれば、たいがいの悩みは解決しなくても、どうだって良くなっている。 少なくとも、いままでの僕の人生では。 「逃げるのは恥ずかしい」と思われても、今のところは「立派な遺体」よりも「恥ずかしい生き物」でいたい。 どうにかならないのか!と悩んだときに、「今はどうにもならない」というのを受け入れてみるのも悪くない。そのうち、きっとどうにかなる。 ※今日の「憂鬱」は、たぶんここを読んでいないであろう、ある人の文章を読んで書きました。 しかし、読み返してみると、昔好きだった子の部屋の本棚に、銀色夏生の本を発見したときのような恥ずかしさだな。 ...
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