日常が退屈になってくる。というのは、ある意味でいいことだ。 やることが決まってきて、景色を見慣れてきて、という程度の、 淡い退屈なら。それは、ある意味で安心という部分でもある。 退屈になると失うのは、客観性。 でも得るのは、そこに何が――どんな可能性や夢、 ひいてはロマンが――潜んでいるのかを注視するだけの余裕。 余裕をうまいこと、使っていかないとね。 余裕なく生きることは疲れるから、 余裕をあえてつくって、運用しないとね。 日常に埋没することだけは避けたいと思うからこそ、 日常の中で、眼光だけは鋭くありたいもんだ。 何気ない生活動作の中から探偵が事件解決の糸口を発見するように、 ありふれた、なにげない平常心の中から、 面白い未来の手がかりを見つけたい。 ……そー思いながら沈黙しているんであり、 何も考えていないわけじゃないんだぜ。 というのも最近いろいろな質問を沈黙で返してしまうことがあり、 こちらも精一杯やっているんだが、 相手を納得させられないことから若干の後悔が残ってしまう。 言葉を厳選していたり、言う必要を感じなかったり(高飛車!)、 はたまた口をきく体力がなかったり(これ、わりとよくあるのだ)、 こっちにも色々事情がある。 ノリだけで会話することが下手だから、 いつでも本当のことを、なるべく重要なことを話したいから、 あと小学生の頃「早口だけが能じゃねぇぜ」と同級生に言われたから(?)、 結果としてゆっくり喋ることになってしまっているだけで。 何も考えていないと思われてしまうのはしゃくだが、 かといっていい加減なことは言いたくない。 相手に畏敬の念を覚えていればいるほど、 まあ場合によっては警戒心を持っていればいるほど、 口が重くなるのを感じる。 そして最近、ほんとに喋るのがつらい! おしゃべりなだけに、言いたいことが山ほどあるだけに、 こわいのだ。一度言い出したら止まらない気がして。 信頼できる相手があまりいないせいもある。 つまり、信頼できるとは限らない相手と喋る機会が増えたせいである。 信頼するという行為を、もともとあまりしないからかもしれない。 自分のことを話せる相手は、少ないに越したことはない。 会員制掲示板のパスワードのようなものだ。 知っている人だけは部屋に入ってきていい、というぐらい、 そういう区別は、私にとっては自然なことなのだが、 私の心に壁があるのを「えー、寂しい!」みたいに真顔で言う人が居ると、 じゃああんたは毎晩野宿なのかと言いたくなったりもする。 好きで野宿している人がいること自体はべつに否定しないが、 部屋を持つ人のことを「おかしい」とまで言うのはやめてほしい。 部屋を持つことのメリットを理解できないんならまだいいが、 「部屋があるなんて、ひどい。私たち野宿で我慢してるんだし。 なんであんただけ勝手に部屋つくってんのよっ。」と、 半ばひがみ根性で絡んでくるように見える人もいたりする。 じゃああんたも部屋を持てばいいのにと思うんだが、 そのあたりは彼らなりの事情があるんだろう、たぶん。 自分も相手が理解できないわけだし、理解されなくても仕方ない。 ただ、お互い不快にならずに済む方法ぐらいは探したい。 自分の殻に閉じこもることは否定しない。 ただ「閉じこもりっぱなし」はもったいないとは思うが。 色々面倒くさいけど得るものもある。 疲れたら休むのもよい。いやあむしろ、ちゃんと休まないと。 休むことをさぼっちゃだめだ。 まじめな人はそう思わないと、休むことさえできない。 たぶん大事なのは、 「閉じこもる」や「外に出る」に執着しないことだ。 居場所はどこだっていいや、ぐらいに思っていれば、次に進めるのだ。 心の壁のどっちがわに行こうと、 「ところで、夕飯はなんにしよう」ってなぐらいの レベルのことを考えていればいい。 少しでもおいしい夕飯を食べるために。 どーしてもここにいなきゃいけないとか、思うからいけない。 家で食べようがレストランで食べようが、 自分の栄養になるかどうかを考えていればいいのだ。 |