以前も書いたかもしれないけど。 自分、こうやってネット上でだらだら文章書いていることをほとんどの人間に話していません。 文芸部だったことぐらいは話すけどね。 でも現在も、今でもちみちみ書いてるってことは話していない。 両親だって知らない。 大学の友人数人は知ってるけど、院の友達には言っていない。 職場の人間にだって言っていない。
つまらん人間だと思われているのは、よくわかってる。 両親なんかは心配するぐらいだ。
だけど、「心配してるなら、どうかそっとしておいてほしい」ということがわからない団塊の世代でもあるわけだ……orz
その反面、おもしろいと思われているから困る。 芸人さんをみる目でね。 子供みたいにあやされてね。 真面目に勉強したい時に限って邪魔されるみたいに。
期待されてるのは、道化としての言動だとわかってる。 だからますます疲れてしまうんだけど、相手は「大人の遊び方を教えてあげてる」みたいに満足しているので、それはそれで悪い気分はしない。 非常に困った精神構造ですよ。
このある種の二重生活を、たまにばーーーーとぶちまけたい時があるけど、 そうなると自分の作品を読まれてしまうので、私に益が全くないわけで。 そうなるとぐっとガマンするだけなわけですよ。
そんな事を言っちゃうと、「じゃあ、なんで書いてるのさ?」って話になるわけで。 たぶんそれは、「生まれちゃったモノを存在させる為」みたいな、曖昧な話で。 自分の為とも他者の為でもない、作品の為にって事になる。
読んでもらいたいって気持ちはあるんだけど、「目の前にいる『コイツ』が書いたモノだとは思ってもらいたくない」というか。 消極的な自己顕示欲というか。 それでも共有したいという矛盾というか。
これが自分のネットにおける匿名性を重要視してる最大の理由なんだけど。 作品だけが先にあって、自分は完全に後回しというのが理想なわけですよ。 事実、作品世界の為だけに作者という役を演じてるようなもんですから。
少なくとも、今までは。
今日読んでいた文章で、ふと、思い当たる部分があって。
自分の創作物は 「誰かに向けて発信しているものか」 「誰かのためのものであるのか」 そんな事を考えさせられて。
上にあげたように、基本的に自分は「作品の為に」書いていたような部分もあって。 「誰に?」という疑問はあまり持たずに書いてきた部分もあって。
でも、今思うと、依頼とか知らぬ間に整った状況などで「誰かに」向かって書いている話は、それなりに自分でも納得の行く出来だったりする事が多々あるようで。
今見ると「どうかなぁ〜」な出来でも、手直ししたいって程度で、大幅に変えたいと思うほど酷いものじゃない気がする。
短編なんかは顕著で。 どれが誰とは言わないけど、その都度、読んでほしい誰かを想定して書いたものが多い。 あれだ。カラオケで好きなこの前でラブソング歌う感覚。 相手に「満足してもらいたい」とか「驚いてもらいたい」、「こんな事も出来るんだ」、「こんな事を知ってもらいたいんだ」って気持ちが昂ぶってくる。 自分は単純だから、どこまでどう思われているかわからないけど、少なくとも自分では、自分の中から出てきた「意外なもの」を楽しむ事ができてるような気がする。
その裏に下心がないとは言えない。 でも、ある種の好意を持ってもらう為にがんばる事は、人間として当たり前の行動理由だとも思う。
漠然とした誰かじゃなくて、具体的な誰か。 最近の自分には、そういう部分が無かったかもしれない。
誰か。
さて、誰だろう……?
とはいえ。 私の抱える各次元の世界は、この些細な決定で動き出すシンプルな世界でもある。
そんな事を考えながら、悴んだ手で手帳に走り書きをしたり、キーを叩いている昨今なのです。
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