2002年08月29日(木) |
好きだからといって同じ物をみてるとは限らない。 |
あるアーティストのファンの行動について、いろいろ思ったことをつらつらかきました。ほのかな怒りに任せて書いてるので、文体がいつもにも増しておかしいかも知れませんが、ご容赦くださいませ。
自分の好きなものを他人に教えるって、難しくないですか? 自分が好きなものだからこそ――他人へ紹介する時の印象ひとつで、その対象への印象が変わってしまうんじゃないか、嫌われてしまうんじゃないかと怖くなったりはしないんでしょうか? もちろん、同じ物を好きでいるというのは素敵な事ですけど。 でもね。 同じ部分が好きだとは限らないと思うんですよ。
たとえば銀色のフォークがあるとして。 あなたがそのフォークを好きなのは、そのフォークが銀製であるからかもしれない。 ある人はその長さやバランスが好きなのかもしれない。 ある人は先端が四叉だから好きなのかもしれない。 販売しているブランドが好きなのかもしれない。 もちろん、いくつかの条件を合わせて好きな人もいるでしょう。 その組み合わせは沢山あって、一つには搾れないはず。
つまり。 そのフォークが好きだからといって、パッケージのデザインまで好きだとはかぎらないんだよ?
フォークを作った職人さんが、外注のパッケージデザインを含めて誉められ続ければ……そりゃ最初は嬉しいかもしれないけど、最後にはこう思うはず。 「俺の作品は、あのパッケージのおかげで絶賛されてるのか?」 「あのパッケージがなければ、俺の作品はクズなのか?」 「パッケージさえ良ければ、クズみたいな作品でも売れるのか?」 私はそうやって自ら潰れていった職人さんを知ってます。
いつも買ってたお客さんだって思うはず。 「私はあの銀のフォークのバランスが好きだったけど、もしかしたらそこが好きなのは私だけ?」 「なんでパッケージの事ばかりはなしてるんだろ? フォークそのものが好きな私は、なんだか場違いな気がする」 「パッケージを含めて誉めないとおかしいのかな?」 「パッケージの話ばかりする人気持ち悪い。しばらくこのフォークを買うのやめよう」 あまりにそのパッケージ派の勢いが大きくなってしまい、買いづらくなってしまった人もいるでしょう。心からそのフォークを愛せなくなった人もいるでしょう。 今は混乱して、どうすればいいのかわからない人もいるかもしれない。 もしかしたら、そのパッケージデザインが変更されれば、パッケージ派はいなくなるかもしれない。 けれど今までファンだった人達――今まで細々とした活動だったとしても、製作者と感性を共有できた貴重な人達が、声を大にして「好きだ」と言いづらくなってしまうかもしれない。最初はパッケージ派だったかもしれないけど、後々フォークそのものの良さに気付いてファンになった人も、自分が元パッケージ派だった事を引け目に感じて買いづらくなるかもしれない。 それは職人さんや残された人達にとって、とても不幸なことではないでしょうか?
好きな事を共有するのは素敵な事ですけど、どうしてもう少し自分のしている事を振り返る事ができないんでしょうか? どうして自分の好きを押しつけようとするんでしょうか? もっと静かに差し出す事はできないんでしょうか? 「もし良かったら使ってみて」といって差し出されたフォークが気に入ればそれでよし、相手が気に入らなかったらそれっきりでいいじゃないですか。
まるごと共有できる方がおかしい。 そんな奇跡なんて気持ち悪くありませんか? 自分と同じ人間がもう一人いるのと同じですよ? 自分自身の存在意義って何?(ちょっと話がでかすぎ?)
押しつけられた者も、押し付けられた物も、共に傷つくとは思わないんでしょうか?
若さ? 経験不足? そんなの理由になりません。 これは道徳やマナーの範囲じゃないでしょうか? こんな事、他人を思いやる事で回避できる範疇じゃないでしょうか?
うーん……こんなに書くはずじゃなかったんですけどね(汗) とりあえず、好きなものを共有しようとする時、ほんの少しで良いから自分の行動を振りかえってみようという話でした。
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