| 2011年06月07日(火) |
「手を合わせる」を日常に |
1年三ヶ月ぶりに「ひびき」
パスワードやらが分からなくて困った(笑)
某SNSから退会して ほんの少しネット界に生まれた余暇を用いて 気まぐれに綴っていきたいと思います
「がれき」との住み分けとか、あんまり考えません(笑)
読んだ方が抱く気持ちは どうか読んだ方の胸の内にとどめてください
【読み捨て】で、どうぞ宜しくお願いします ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今年2011年の初めから、 ひとつ始めて続いていることがある
思考を必要としない経過時間を「南無阿弥陀仏」で埋める
※決して宗教にハマったわけじゃない、誤解なきよう
たとえば �,�風呂で湯船につかっている数分 �△�布団に入って眠気がくるまでの数分
頭をめぐらせることない時間が生まれたとき ボクは「南無阿弥陀仏」を連呼するようになった
誰も見てないところでは手を合わせながら、だ
きっかけは2010晩秋にあった叔父の法事だ
その時のお参りはいつもと少し違った
毎回「はい、仕事、仕事」的に経を読み上げる なんとも私的には尊敬出来ない坊さんなのだが(笑)
その日の最後の「南無阿弥陀仏」連呼がやたら長かった
ボクはいつも坊さんと一緒に声を出して拝むのだが その日は息苦しくなってしまうほどにすこぶる長かった
最初のうちは「長い、しんどい、もうええやろ」 てな具合に色々と私心めぐらせる余裕があったのだが
いつのまにか私心が削がれて ただ「唱えることだけ」が残っていた
余計な感情や思考を 差し挟む余裕もなくなるほどに動作を続けると どうやら脳内麻薬が出るようで(笑)
それに味をしめて始めたのだが・・・
今では口で「南無阿弥陀仏」と連呼しながら 頭で別のことを考えられるほどに慣れてしまっている始末(笑)
ね?決して信心が根拠で拝んでないでしょう?(笑)
ただ、日によっては なんとなく心落ち着くときがあるのは確かだ
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そして春から、この南無阿弥陀仏連呼以外に ボクは毎朝かならず二度手を合わせるようになった
まず、朝起きたら部屋のカーテンを開けて 窓越しの太陽に向かって朝日を浴びながら拝む
「すべての生命の源は【太陽】である」
これは、とある明治期の新興宗教の教えで たまたまその文献をネットで興味深く読み 言われてみれば確かにそうだな、と思ったことと 睡眠学における体内時計のリセットの理にもかなう
そうして太陽に手を合わせたあとは
寝室の高いところに祀ってある 「今宮神社」さんのお札に対して
二礼 二拍手 「今日も宜しくお願いします」と合掌 一礼
というのを毎日欠かさずやっている
たまたま今年、町内会の役回りで 今宮神社さんの護符をもらいにいった
もらいに行った人は 町内に配るペラペラのコピー護符ではなく(笑) しっかりとした色紙に手書きの護符をもらうのだ
この護符をもらったことも何かのサイン
そんな気がしている
折りしも東北関東大震災で被災された方 お亡くなりになった方もおられる今日だ
なんの信仰心も持たない【似非】に過ぎないとはいえ
手を合わせるということに ボクなりの意味を持って続けていこうと思う
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