2008年06月10日(火) |
あの日々がなかったら・・・ |
ものすごく長いので読まんでいいです(僕の回顧録です:笑) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「うっとしいこともあったけど、もう笑えるようになったわね」
イベントを終えて 機材を返しに行ったSTUDIO MOONLIGHTで昔話をした
僕がMOONLIGHTに出入りを始めたのは18歳 今からもう25年も前になる
店主&店主の奥さんともホントに長い付き合いになっている
そのあいだ 色んなことを二人にも包み隠さず過ごしてきた
昔話はハードロックをやっていた頃の紆余曲折だ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大学に入学する直前 駆け出しで組んだ京都のバンドは半年でクビになり 我がの実力のなさを棚上げして他のメンツを心底恨んだ
その後に全員2歳ほど年上の大阪のバンドに拾ってもらい そのバンドのギタリストからスパルタ教育を受けた
大阪の吹田で週3日4時間のスタジオ
終電がないためギタリストの家に寝泊りしながら 来る日も来る日も歌詞とメロディを作らされた
そのギタリストは当時の僕よりはるかに歌がうまかった
でも必ず僕に歌詞とメロディを考えさせた
「自分で作らな自分のもんには絶対ならへんよ♪」
書いてくる→ダメ出し&書き直しを延々繰り返す このギタリストのOKをもらうまで8度も書き直した曲もあった
ぺーぺーの僕には実にめまぐるしくしんどい日々 とはいえ僕にはこのバンドに喰らいつくしか術がなかった
必死やった
元がヘタだったこともあり この時期にものすごく伸びた(よーな気がする:笑)
今から思えば一番しんどかったのは ぺーぺーに根気よく付き合ってくれたギタリストだったのだ
スタジオ練習とライブを重ねていくなか 大阪や京都のデカいライブハウスでの出演も見えてきて これからかも?って時期のミナミのバハマでのライブ
クビにした京都のバンドのメンツが全員で観に来た
僕にテープを渡し「もっかい一緒に演らへんか?」と言うた
正直「どのツラ下げて来やがった」と思った(笑)
けれど そのころ大阪のバンドの音がどんどん重くなり 僕の望む方向から離れていっていた
渡されたテープに入っていた曲は メンツへの積もった恨みとは裏腹に僕を揺さぶりたおした
京都のバンドも間違いなく前に進んでいた
悩んだ
どっち取る?
結局は大阪のバンドに隠して二束の草鞋を履いた
週4,5日ほとんど毎晩スタジオで3〜4時間歌う毎日 大阪のバンドのスパルタ教育はその当時も続いていて 新曲の歌詞とメロディを決めるまでに何度も書き直す
大学にほとんど行かなくなった(行けなくなった、か:笑)
そのうちスタジオ代と交通費で バイト代が底を付き身動きがとれなくなった
肉体的にもかなり限界 ※当時のバイトは鉄工所の重労働、でも金は良かったのよ)
『すいません・・・ヤメます!』
ある日の大阪のバンドの練習後にとうとう切り出した
普段は本当に温厚だったベースが 「オマエ、なんで今やねん!」と血相変えて僕に殴りかかってきた
無理もない
4日後やったかに京都の磔磔でライブが決まってた
そのあとの大阪のバーボンハウスも決まってた 大阪のとあるスタジオのレコーディングオーディションも
『やっぱり無理?かけもち』
真っ青になった 京都に住んでいたギタリストにはバレていた
「その気持ちで出るんはもう無理、ええよヤメて」 「そのかわり、磔磔に観においで」
殴りかかってきたベースもそれを見ていたドラムも 怒りというよりは悲しい目で見てたようにも思う
真意は分からなかったけど 僕はその磔磔のライブに恐る恐る足を運んだ(マジメだわ:笑)
換えのボーカルはいなかった そのギタリストがボーカルを兼ねたのだ
うちのめされた
僕が死ぬ気で考えた歌詞とメロディを ギターを弾きながら一字一句間違わず僕よりもちゃんと歌い上げたのだ
「え〜、実は4日前に突然ボーカルが辞めまして(笑)ソイツ今、客席にいます(笑)」
『めちゃめちゃ腹は立ってるけど、頑張りよったらええとも思いマス♪』
まさにグウの音も出なかった
すんごい人やったのだ
さすがにあん時はホンマに凹んだ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
京都のバンド一本になって 前のボーカリストの作った歌詞とメロディをなぞりながら 同時に新曲の歌詞とメロディを作る日を経て そのバンドもライブが中心の動きを始めた
「○○○○はギターバンドや」
そう言われるのは仕方なかったかもしれない それぐらい京都のバンドのギタリストはウマかった
あっちこっちでライブをした その頃はしんどさも感じなかったしあんまり苦い思い出もない
波に乗りつつあった頃は大学の終わりごろ
「アメリカに半年留学したいと思う」
ギタリストの突然の申し出にそのバンドはあっさりつぶれた
まさにバンドの顔だったギタリストが抜ける 残された僕らに換えのギタリストでの存続の道はなかった
なんでだか殴りかかる気はなかった(笑)
あんだけ弾けるギタリストにとって 音楽が「一選択肢」でしかなかったことに 拍子抜けしてしまったのかもしれない
解散して数日後に数件のボーカル加入の依頼がきた
事前にカラオケのテープを送ってもらう 前のボーカリストの声も歌詞もメロディも要らんと言うた
スタジオに入り「ハナモゲラ語」でメロディだけ歌う
または ぶっつけでスタジオに入って曲を一回演奏してもらい そのあとイメージのままにハナモゲラ語で歌う
自分のボーカリストの技量ははるか彼方に棚上げして(笑) その時の素直な気持ちを言うと・・・
【なんでコイツら、こんなヘタなん!?】
どこに歌いに行ってもその思いが駆け巡った 練習量も経験も間違いなく少ないバンドばっかりやった
そのとき分かった 京都のバンドはかなりウマかったのだ
たったひとり 僕をのぞいて(笑)
全部物足りなくてすべての申し出を断った
ハードロックバンドのボーカリストとしてのキャリアはそこで終わり
以降の僕は自分の曲をやるバンドを作る方向にシフトしていった ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あの時の密度が今を支えてる
うっとしいことは確かにあった
でも僕はものすごく恵まれてた
今はあの日々に感謝してます♪
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