ひとみさんの日記

2006年01月08日(日) 永眠

某日記Mi○iのコピペでごめんなさい。

1月2日早朝、同居しておりました祖母が永眠いたしました。
91歳です。

毎日家にはいれかわりたちかわりいろいろな人が訪れるなどし、5日にお通夜、6日に告別式、本日8日が初七日とあっというまにときが過ぎました。
毎日同じ屋根の下一緒に暮らしておりましたので私もさすがにショックで、なんだかやっと少し気持ちが落ち着いてこうして日記をかいております。

ここはほとんど知っている人しかいないから・・
私のひとみという名前は本名です。
漢字でかくと「瞳」。祖母がつけてくれました。
自分でいうのもなんですが気に入っています。

私が生まれてから名前を届ける何日かは父が「静香」という名前をつけました。ベットに「静香」と名前をつけた紙がはってある写真も残っています。しかし、なんか違うとみなにいわれたそうです。
そんな中、ふたつの目でじっと祖母をみつめていたそうで、(当然私にはそんな記憶はなく)そこから祖母が「瞳」はどうかといい、皆で賛成をしたそうです。ほんと静香でなくてよかったですよ。どうみても静香っていう名前の雰囲気とは違いますからね。

そんな祖母とはよく巣鴨に行きました。
帰りにご飯を食べたり洋服を買ってもらったりしました。

祖母は何年も前から痴呆はかなりあり、本当ならば随分と前に病院に入れるべきところでしたが、家族の意向で家でみておりました。12月半ば、週に何回かいっておりましたディサービスからもう受け入れられないと断られ、うちでも限界をこえてしまい病院を探しておりましたが、癌、脳卒中など、はっきりした病気はなく病院はなかなか受けれいれてもらえませんでした。そんな中、とうとう歩けなくなり、12月の最終週、酸素マスクをつけました。後々の話ですが、病院を本格的に探してから1ヶ月ぐらいでとこんなに早く亡くなったのは、祖母は病院に行きたくないと生前から言っていたからかななんて家族で話しました。

12月31日の午前中、24時間はもたないので沙汰をしてほしいとお医者様にいわれ、親戚中が集まりました。しかし午後に点滴をうち、いびきをかいて眠るほど驚くべく回復をみせ、1月1日はとても安定し、「新年あけたよ」とで声をかけ、お医者様からも大丈夫だろうと言われました。あとで思うと最後の力だったんだなと思います。

私は12月30日、23時ごろ会社から帰ってきてから気が気ではなく、ずっと横についており、ほとんど眠っていませんでした。それは両親も同じで家族中が気力体力も限界な状態でした。12月30、31日とは違う1月1日の一日の穏やかな様子、血圧も安定し息もすやすやと眠っている様子をみて、今夜は自分の部屋で寝なさいと両親に言われました。
私も悩みましたが、息も安定して眠っている祖母を夜中にみて「おやすみ」といいそのまま自分の部屋で眠りにつきました。その日は祖母の横に母がついており、1月2日の早朝、母がうとうととしたときを見計らったかのようにそのまま永眠してしまいました。

そして、5時半すぎにおきたときにはもう息がありませんでした。

あんなに家族中で夜も寝ずに側にいたのに、なぜその日に限ってと、誰にも看取られず寂しくなかったのかと悔やまれます。
でも、もしかしたらおばあちゃんは気をつかったのかなとも思います。
救いなのは、最後の顔が苦しんで誰にも気づかれることがなかったというわけではなく、とてもおだやかな顔で、眠りながら息を引き取ったであろうと一目両全であること。

そして母が一番祖母の面倒をみていたのでやっぱり母が側にいたときに息を引き取ったこと。

私は死後のことは詳しくないけれど、四十九日までは、あの世にまだ行かずあの世とこの世の間をさまよっていているのとのこと。
毎日お線香をあげて、天国にいけるようにお祈りするからね。

大好きなおばあちゃん。
この名前をつけてくれてありがとう。

小学生の頃は今みたいに顔がでかくなかったから目が目立って
目デカ人とか目巨人とかいわれていじめられたりしたから嫌だだとか言ってごめんね。

でも、この目でいろいろな物事をみつめていきたいと思う。
目が死んでるといわれないように輝いた目で生きたいと思う。

ほんとうにありがとう。


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