文
- 花笑み
2004年06月16日(水)
梔子と柘榴がとうとう咲いた、と昨夜の電話で母は言った。梅雨の中休みに入ったこの田舎の町に、まだ夏の花は咲かない。 春と夏とは遊び遊び、秋冬だけが急ぎ足、季節の変わりめは異常気象、山の天気にはどれほど住んでも慣れない。観念してとうとう出した袖なしの服は、雨が降り出せばまたクロゼットの奥に仕舞うことになるだろう。家に帰ってくるころには暑さでぐったりしているのに、夜半すぎには窓を開けてはとても眠れない。 大学に続く道は長く緩やかな上り坂だった。夏至が近付くにつれ、太陽は早起きに快活になる。こちらの都合などお構いなしに投げつけられる光は、昨日まで服に覆われていた腕を焦がした。感覚神経が悲鳴を上げている。痛い。 ふう、と息をついて立ち止まる。鞄の中から羽音のような振動が聞こえた。 『昨日は泊めてくれてありがとう。また週末に』 それだけの短い文面を眺め、もう一度眺め、ため息とともに携帯電話を閉じた。フライパンのように熱された道路に、ぱくん、音が跳ねた。
彼との関係ができたのは先月の半ばだった。人を通しての顔見知りでしかなかったわたしたちがお互いの家に泊まるような間柄になったのは、成り行き、もしくは物のはずみ、それだけのことだ。それだけのことにしなければならない。 起きだしてわたしがいないことをどう思っただろう。授業があるので先に出ます、鍵はドアポストの中に入れてください、そう置手紙は残してきた。呆れただろうか。少しは嫌な気がしたかもしれない。きっと彼は違和感を抱いている。 わたしたちの間に恋愛感情があるか。それはきっとわたしにも彼にもわからない。 彼には恋人がいる。
坂道をゆっくりと歩き出す。この田舎にはまだ花が咲かない。梔子も柘榴も固いつぼみのまま、青い葉だけを茂らせている。 肩口にひりつく痛みを感じた。灼けた皮膚の赤み。手で覆うと、汗ばんで熱を持った掌でさえそこでは心地よく感じた。 ――彼女とは同期入学の、顔見知り同士だった。五十音順の学籍番号が近くて、入学したばかりのころからオリエンテーションやクラス分け、授業でのグループ分けで顔を合わせているうちに親しくなった。学校で会えば言葉を交わす。昼食を一緒に食べて。授業で隣に座ることもあった。けれどもそれだけ。外でわざわざ待ち合わせてまで会ったりは、しない。 わたしと彼女はよく気が合った。一緒にお酒を呑んだこともある。恋愛の話をした。大学の教授の愚痴を言い合った。酔って泣いた。わたしは慰められた。それだけ。――友達、だろうか。 彼女に恋人ができた、と聞いたのは去年の夏だった。人づてに知った。その後も彼女と顔を合わせることは何度もあったけれど、彼女に直截恋人のことを尋ねることはなかった。相手の男のことを知ったのは共通の友人から。わたしはその友人を煩わしく思った。知りたくもないことだった。 あれが、そうだよ。紗江子の恋人。ほら。そう言ってひそやかに指を差した先にいたのが彼だった。
屋外からやっと校舎に入って、汗をぬぐう。窓から空を眺めると、薄い雲がもつれるようにかたまりになって浮かんでいた。歩いているときには気付かなかったけれど、中休みは終わりに差し掛かっているようだ。傘を持ってこなかったことを、ちらりと後悔した。 授業のある四階へ、階段を昇りながら彼のことを考えてみる。大きな肩、腰周り、首筋は汗の匂いがした。薬指には彼女の束縛。
昨日は彼女に会った? 明日も彼女に会うのよね。やっぱり会えば彼女を抱くの? 羨ましいね。彼女がよあなたがじゃないわ。
彼が抱く違和感はいつか疑念になるかもしれない。そんなことには気付かないかもしれない。わたしには否定したい気持ちがある。わたしが好きなのは、彼だ。だから間違ってなどいない。 最後の一段を上って、廊下に出る。途端に息が詰まった。 彼女がいる。焼けた肩や首や胸元がじわりと痛んだ。 掲示板を見上げる彼女は明るい若緑のワンピースを着ていた。まっすぐな背中と細い体が葦のようだと思った。 すぐに教室に入ってしまえばよかった、声を掛けることができなかった、それでも怖気づいた足は動こうとはしなかった。 「あら、こんにちは」 そこに立ったまま動かないでいたわたしに気付いて、彼女は笑顔でそう言った。 「――どうも」 挨拶にならない言葉を返して、薄い笑いを取り繕う。 「これから授業ですか?」 「ええ、二限です。紗江子さん、は、もうお帰りですよね」 わたしたちは間を置いて話す。ひどく親しい遠慮がある。 「――奇麗な色ですね」 内心の怯えを押し殺して、彼女の着ているものを褒めた。視線を上げてしまっては、彼女の白い顔を見なければならなくなる。 する、と指先が動く。彼女の腰の横に添って垂れていた腕が浮き、腿の前あたりの布地を撫で、持ち上げた。揺れが服の裾を伝う。爪に布は滑る。さらりと落ちる。擦れる繊維の音。 「この間出かけたときに見立ててもらったの。ありがとう」 それではこれは、彼が。 「東花さんこそ、いつも奇麗にしていて。涼しげでいいですね、それ」 わたしの目を奪っていたまさにその指がわたしの掌を掬い上げた。胸が潰れる。彼女のつめたい指先がわたしの爪に触れる。ネイルカラーのつるりとした発色。震える。痛い。どうか二度と離さないで。 わたしが何も答えないでいると、彼女は指を放した。わたしの戸惑いを振り払う腕の、手首の時計に目を走らせる。 「そろそろ行きますね。待ち合わせがあるので」 「ええ、では、また」
(「わたしのことが好きなのでしょう」)
彼女の唇からそんな残酷な言葉を聞きたがっているわたしがいる。
彼に会いに向かう彼女を引き止めることは何にもならない。彼女はわたしと彼とのことを知らない。知らないままにしておけばいい。知らないまま彼女のことを汚していればいい。 あなたの恋人を奪ったときに、わたしの花は落ちてしまった。 「またね」 彼女は白い花のように笑った。夏になってしまえばいい。わたしは焼かれてしまいたい。 少し先を歩いて、振り返る。手を振って、彼女は廊下の途切れた向こう、ドアの外へ出て行った。三階の屋根部分、屋上のように開けたコンクリートの上で、かちりと覗いた空は硬質の灰色に見えた。ドアが閉まる。若緑の色彩が遠くに消える。あとに残ったのは空虚な冷ややかさだった。取り返しのつかないものは、こんな冷たい廊下に転がっている。 二限のはじまりを告げるチャイムが鳴っている。わたしはまだ立っていた。ドアの向こうに消えていった人が自分ではないのが不思議に思えた。ぼんやりと見下ろした自分の掌、指先。ネイルカラーが照明を反射している。傷も痕もない表面。彼女の指が触れた。薄藍。凍っていくようだ。 窓の外で砂を洗うような音がする。雨が通っていくのだ。あの人も傘を持っていなかったなと、虚ろに彼女の背中を思った。
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