文
- 道のうえ
2003年08月27日(水)
「まあ、この辺は田舎だからね、わかんない道なんてないし家なんてそれこそ町の端っこから逆側の端っこまで全部言えるよ。もともとここの生まれだし、この仕事始めてもう二十えーと二十七年目か、おお、ずいぶん長いことになりますなァ。で、えーと田原でしたっけ。田原のどこ? え? なに、お客さんあそこの家に用なの? あーあ、悪いこと言わないからやめといた方がいいよ。それに、今ァもう誰も住んじゃいないさ。事件だよ事件。知らない? 知らないの? 新聞に載ったんだよ、ちょっと前。それも全国紙。新聞読んでないの? ダメダメ、そんなことじゃ成功しないよ何やっても。うちの妻の弟が新聞屋でさ。へへ。この辺に住む予定があるんでしたら契約してやって。いやいや、今なら洗剤三個つけちゃうよ、なんてなァ。 ん? ああ、そうそう事件ね。……無理心中だよ。娘さんが弟さんと親父さん刺しちゃって。まあ誰も死んでないんだけどね。弟さんも親父さんも怪我はしたけど逃げられてね、娘さんもちゃんと取り押さえられまして。いや、良かった良かった。怖いねえ、女の人でも何やらかすかわかりませんなァ。自分もせいぜい子供に殺されないように気をつけますわ。ハハ。 え? ちょっとちょっとお客さん、そんなァ、私がそんな事情通に見えます? おお、鋭いねえ。実は私ァそこの家の親父と同窓でね。まあ、ここだけの話としてくれるんだったら話してもいいですよ。……約束ね、ハハ。 そうさなァ、もうずいぶん前のことで私も何年前のことかちゃんとは覚えてないんですけどね、あそこの家、いちばん上の出来のいい子が家を飛び出てどっか行っちゃって。もうそのへんからちょっとおかしかったんですわ。奥さんともぽつぽつ話したことあるんですけどね、あれだけ目を掛けて育ててたっていうのにちっとも気に病んでないわ、家に残った息子も娘も、まるで元から二人きりの姉弟でしたとでも言わんばかりの態度だって……ああ、これはうちのバカ息子から聞いたことなんですけどね。そうそう、息子さんと同窓なの。お客さん察しがいいね。 まあ、で、思うに、もうそん時ァ、あそこの家の皆さん、狂ってらっしゃったんじゃないかな、と。こう。いやいや、確かに普通は普通だったんですよ。でも……なんてかなァ。娘さんの目がね。ちょっとやっぱり違ってたんです。どっかいつも見えてないっていうか……え? ええ、同窓なのは息子ですよ。あ、ああ。いやはや、お客さんホント鋭いねえ。白状すると、娘さんが働いてたファミレスによく行ってたんですよ。へへ。この年でロマンスも何もないですがね、夢見るくらいは自由じゃないですかァ。この娘さんて人が実は案外線の細い感じの奇麗な子でねえ、……え? ああそうそう事件の話ね、事件の。 まあ、そんで、何かおかしいおかしいとは思ってたんですわ。まあ世間から見たらただの無理心中未遂なんでしょ、新聞にもそう書いてあったしねえ。……ふふん、そうじゃないんですよ。ええ。……ここから先は本当の本当にここだけの話ですよ。 実は、あれは無理心中なんかじゃ全然ないと私は思ってるんです。……あれ? お客さん驚きませんねえ。なんだァ。 ええ、ええ、娘さんが弟さんと親父さん刺したのは本当です。けど、無理心中ならそこで奥さんも刺すでしょ? そうそう、当然一緒にいたんですよ。一家団欒てやつ。夕飯時でね。凶器は娘さんがそのファミレスで使ってるケーキナイフ。ケーキにクリーム塗るあれですわ。ファミレスはファミレスでもお菓子屋がやってるやつですから。実際飯より洋菓子の方がずっと美味いんですよ。飯はありゃぼったくりだね。 ああ、はい、事件ね。んで、ええと、奥さんが刺されなかった理由ね。いやあ、これが、なんというか、わからんのですわ。といいますか、ねえ。奥さん、実はその日以来行方不明でね。ええ。行方不明。どこに行っちまったものやら、見当もつきません。これだけ小さな町だから、見つけようと思って見つからないものがあるとは思えないんですが……まあ、このへんはちょっと歩けばすぐ危ないところもあるんですけどね……川ですわ、川。奥さんも、もしかすると……おお、おっかない。 へえ、お客さん、ご存知ですかァ。もしやここの生まれかい? ふうん。 ああそうそう、これはとっておきの話なんですがね、これも何かの縁だから話しちゃいますかね。今日は大放出ですよ。こりゃ余計にお金もらわないと。ハハ、冗談冗談。 家で娘さんに刺されたあと、親父さんと弟さん、逃げたって話しましたっけ。ああ、そうそう。新聞にもね。うんそうそう。あれで、親父さんが逃げてきたところってのが、またこれも同窓の男が店長やってる喫茶店だったんですよ。そうそう、私と、親父さんと、その店長がみんな、同窓ね。地元だからね。んで、親父さんですが、娘さんに頭割られててねェ、血まみれで。その喫茶店てのがもう夜八時には閉まっちまうんですが、親父は店の戸ォ破って入り込んだんですよ。防犯装置? ハハ、そんなもんつけた店この辺じゃそうありませんて。親父もね、そんなことわかってるから。おかしいでしょ? そう、その喫茶店、店長は別な場所に家持ってるから、夜中は無人なんですわ。戸を破ったところで防犯装置が鳴り出すわけでもない。頭割られて重症の親父が助け求めて入るとこじゃないでしょ。まあ、錯乱してたってのもあるだろうけどね。見つかったとき、ひどかったらしいですよ。もう、ほとんどホンモノ。ええ、病院行きですわ。 息子はね、もっとひどい。頭の傷が親父さんよりよっぽど深かったらしくてね。頭からだらだら、上半身から下半身にかけてまでずっぽり血にまみれてまみれて。それでふらふら町の中歩き回ってたんですよ。ええ、やっぱりこっちも助けを求めてたわけじゃなくってね。まだところどころに血の跡残ってるんですよ道路の上。まあそうひどい量でもないですがね。血の巡り悪かったんですかね。若い割に。明け方見つかったときは凄かったですけどね。ええ、見ちまいましたよ。ちょうど朝の散歩に出たところでね。がぱっと口開けて笑った表情が張り付いたまんま動かなくてね……死んでるのかと思ったけど、いや、無事ですわ。でもどうかねえ。親父さんみたくわかりやすいイっちまいかたはしてなかったけど、……。 娘さんはね。親父さんと弟さんが家から出てったあともずっと家の中にいたらしいですわ。私ァ見たわけじゃないんですが、娘さんが警察に連行されてったときに家の中ちらっと見たって奴がいて、聞くと家中の家具がめちゃくちゃに切りつけられてて、って話。ね、無理心中じゃないでしょ? まるでおかしいじゃない。 ……いや、お客さん、顔色悪くないかい? 悪かったねえ、こんな話なんかして。でもね、私もね、誰かに話さなきゃやってられなかったんですわ。ああ、もう御代はいらないよ。忘れてください。 や、いけないいけない。考えないようにするのが一番いいんですわ、こんな話。ね。 ところで、お客さんはどちらから?」
タクシーの運転手にお礼を言って、きちんとメーター分の運賃を払って車を降りた。国道沿いの道を歩きながら、つい足元に目が行ってしまう。何年かぶりに帰ってきた町ではじめに聞いた話がそんな事件のことで、さすがに少し気分が悪かった。 町並みは相変わらずだった。大学に面した通りには少し店が増え、けれど以前あった店はなくなり、道まわりが少し奇麗になって、逆に少しごみが増えて、……平和そのものだった。 空にはぽっかりと雲が浮かんでいる。少しぼんやりとしたあと、よし、と気を取り直す。とりあえず、家に帰ってみよう、とあなたは思う。 さて、あなたはこの町に住んでいた。時間の止まったような田舎の町の、現実感の薄い毎日を、父親と母親と妹と弟と一緒に送っていた過去がある。妹が壊そうとしたものはなんだったか、あなたなら理解することができるだろうか? それとも、と思いかけてあなたは首を振る。考えても埒のあかないことはしない。余計なことは考えるな。ともかく、確かにこの脚が歩いていくことだけを信じればいい。そうして、あなたは、確かに家のあった場所までゆっくりと歩き出す。 陽は明るく暖かかった。平和そのものの町が、以前とは違ってひどく幸せなもののような気がしてくる。凄惨な事件があったとはとても思えない。運転手に担がれたのだろうか、とあなたは思いたがっている。けれど現実はそれを許さない。 ひんやりとした気配を背後に感じて、あなたは振り返る。 そこには、ケーキナイフを握り締めておどりかかる、母親の姿があった。
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