-殻-
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マトモであるってことは、どれだけマトモなフリをできるかで決まるんだよ。
何気なく、話の流れで僕はぽつりと呟いた。 すると、すぐ横にいた彼女はそれを聞き逃さずに 「そうですよね!そう思いますよね!」 と言った。 その娘は僕の後輩で、理系の研究室に属しながら文芸部にも所属していた。 まあ、僕も物書きのようなことをしているし、実際のところ文系とか理系とかいう区別は無意味この上ない。文系にも論理的思考や数学的分析力は必要だし、理系にもイマジネーションや文章力は必要だ。 結局は自分の得手不得手を説明するために、どちらかに属しなければ安心できない分類癖がそういう区分けを作っているに過ぎない。 彼女は自分の持っている「負」の部分をよく知っていた。 そしてそれに、言葉という手段を用いて真っ向から立ち向かい、分析し、時には実行に移し、時には現実とのギャップに落胆し、それでも自己の深淵に切り込むことを止めなかった。 その行為は彼女自身を苦しめ、彼女に近い人間をも巻き込んで傷つけた。 それでも彼女はそれを止めなかった。 僕は直接的にそれに関わったわけではなく、後からその事実を知った。 そして、なんの不思議も感じずにそれを受け入れることができた。 自分の中にも、よく似た部分があることを感じたからだ。 ただ大きく違うのは、彼女は「言葉で表現する」ことに絶対的なこだわりを持っていたことだ。 僕は、言葉で自分のイメージを具現化することを強く恐れていたので、違う手段を求めた。 僕にとっては、イメージをイメージのままで放出する手段として音楽を見つけ、それで自分の感情を放出することを覚えた。 言葉は暴走する。 まるで吐き出した瞬間、それ自身が意志を持つかのように。 そこにもハイゼンベルグ的な僕の観念が登場するのだが、やはり言葉にも不確定性がある。 彼女もそれを感じていたようだ。 が、彼女は「だからこそ」言葉で表現することを求めた。 僕は「だからこそ」イメージを保存しつつ放出しようとした。 その違いはとてつもなく大きく、それでいて根本はあまりにも似ている。 それに僕らはお互いに気付いていた。 そのために仲違いもした。 でも、今は平和に、建設的に議論を楽しむことができる。 お互いに変わったと思う。 それが年を重ねたせいなのか、あるいはそれぞれの思考過程が成熟したというか、ある程度の止揚に達したということなのかはわからない。ただ、彼女と議論することはとても楽しく、僕が避けてきた「言葉による具現化」を弊害なくすんなりと実現してくれる。 言葉というのはイメージの乗り物だ。 僕は以前、そう表現していた。 イメージをイメージのまま伝えることはできない、だから言葉に置き換える。 しかし、言葉はイメージを100%表すことができない。 だから僕らは、言葉を発するときに「その言葉」だけではなく、イメージを「託して」いる。 そこに使われている無機物としての記号には、何らかのイメージが乗っている、と。 そしてその言葉は、受け手の中でまたイメージに変換される。 それが完全に元のイメージと同じなのかどうかは、実は誰にもわからない。 ただ、それを期待するしかない。または、信じるしかない。 分かり合っている、という感覚すら、実は幻想に過ぎないのかも知れない。 なのに僕らは、悲しいくらいそれを求めている。 相互理解の不可能性は、同時存在の不可能性に等しいと思う。 いや、厳密には、それを「知る」ことが不可能なんだ。 僕らはとてつもなく孤独で、あらゆるものから切り離されている。 だから求める。叶うはずもない共有を、融合を、存在を。 そして、それは信じることでしか達成されない。 そもそも基準がないのだから、寄る辺ない実存は基準を自己設定することでしか存在できないという矛盾を内包している。更に、共有しようのない「個」の関係性を定義するにはやはり仮定が必要になる。存在を定義した上でもまだ、相互作用を信じるという作業が残される。 なんと曖昧な僕の存在。 なんと曖昧な僕らの存在。 でも、たとえそれが夢だとしても、覚めない夢なら現実と同じだ。 だから僕は、この現実を肯定する。 僕が今いるこの世界を信じる。 そして、他者との関係性を定義し、逆説的に自己存在を定義する。 つまりは社会の存在を信じ、その中での自分を肯定するということだ。 この日記の紹介文にある、「悲観的肯定主義」というのはこんなところに基づいている。 とにかく、僕はいまここにある社会という現実を肯定している。 そして、その中で生きていくことを肯定している。 だから、その社会規範に則った「マトモ」な人間でなければならないのだ。 「僕自身」は「社会」ではない。 社会とは、「無数の個の最大公約数」だと思っている。 まあつまり、ちょっと洒落も入っているのだが「割り切れる」ところが大事なのだ。 もっと言えば、「共通項」ということか。 その「共通」の部分というのは、決してその「個」が持つ本質でなくてもいい。 社会という共同幻想を維持するために、「作られた共通項」が必要なのだ。 それが社会規範というものであり、時に「常識」と呼ばれるものだ。 そこにどれだけ歩み寄れるか。それが「マトモ」を定義すると思う。 話が冒頭に戻るが、それをぽろりとこぼしたら、彼女が反応した訳だ。 ちょっとした驚きだった。 その瞬間、僕が今こうやってだらだらと冗長に説明している「イメージ」が彼女の中に喚起されたのだろうか。 この時のこの感覚が間違いでなかったことは、その後長く続く彼女との議論の過程でどんどん明らかになってくる。情報量が増えるにつれ、その「イメージ」から生まれるイメージが補完され、元のイメージが確かに共有されているであろう可能性を高めていく。限りなく100に近づいてゆく、しかし決して100にはならない。「収束」というやつだ。永遠に達成されないのに、いつまでも近付き続ける。これは実に楽しく、実りある時間だ。 きっとこれからも、彼女とのこういう関係は続いていくだろう。 変な言い方かも知れないが、彼女は「戦友」のようでもあり「同志」でもある。 そして、きっと「コイビト」とは全く違う意味において、僕は彼女をとても大切に思っている。 おこがましいかも知れないが、彼女も僕を大切に思ってくれていると信じている。 何より、こんな関係を持てるこの「現実」を、僕は深く深く愛して止まないのだ。 INDEX| PAST| NEXT | NEWEST |