-殻-

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2002年02月10日(日) 水を一杯

「水を一杯、飲ませてくれませんか」
ボロ布を纏った男はそう言って帽子を取ると、女を見つめた。

「水、ですか」
シケモクを銜えた女は、低い塀の向こうで面倒臭そうに呟くと、無精髭に覆われた男の顔をまじまじと見つめた。
「そう、水、です、喉が渇いているのです、もうからからに」

「なぜですか」女は訊ねた。
「なぜ、私はあんたに一杯の貴重な水を施さなくてはならないのですかね」

「水が貴重なことは」男は答えた。
「重々承知しているのです。しかし、私は喉が渇いていて、もう死にそうなのです。そこであなたの家を見つけた。だからこうして頼んでいるのですが」

女は煙草に火を点けると、ふううっとゆっくり上に向けて紫煙を吹き出した。
片手に持ったウオッカの瓶を、ほらほらほらと呷ったかと思うと、簡単に一瓶が空になった。

「こんなご時世ではねえ」
女はここでげふうっと大きなげっぷをし、更に続けた。
「親切は命取りなのさ。ただ一杯の水をあんたに施したところで、私に何か見返りでもあるというのかい。あんたはその一杯の水に一体いくら払うことができるのかねえ」

さらさらと乾いた風が吹いた。男は呆れたように言った。
「あなたは見返りを求めるというのですか。この見るからに哀れな男に対して、たった一杯の水すら恵むことができない、と」
「あんたにそんなことで私を責める資格があるのかい。あんたは自分が生きるために必要なものを自分で調達することができないじゃないか。私があんたに施さないからと言って、あんたに責められる覚えはないよ」
女は5本目の煙草に火を点けると、じゅうっと音を立てて一息でそれを灰にした。

「世の中ってのは、何かを手に入れるためには何かを失う必要があるようにできているんじゃないのかい。あんたみたいな腐れた野郎にだって、何か引き替えにできるものが一つくらいあるんだろう?」
女はどこからともなく二本目のウオッカを取り出し、男の方へ向けてコルクの栓をぼんと抜いた。コルク栓は男のおでこにかあん、と派手な音を立てて当たり、仰け反った男の足下にぽてんと落ちた。
「あいたた、ひどいじゃないですか」
「あんたを狙った訳じゃないよ、栓が飛んだ先にたまたまあんたがいただけのことさ」
「だからあなたは悪くないというのですか?」
「ああそうさ、私はワザとやった訳じゃないからねえ」
と言うが早いか、女はごぼりごぼりと二本目のウオッカを空にした。

「一体どうしたら、あなたは私に水を恵んでくれるのですか」
男はおでこにできた痣をさすりながら言った。
「自分で生きるだけでも精一杯なのに、この上他人に何かを恵むほどの余裕なんて持ち合わせちゃいないよ」三本目のウオッカを流し込みながら、女は答えた。
「あなたはそんな風にウオッカを好きなだけ飲めるほどには余裕があるではないですか。そんなあなたが私にたった一杯の水を施すことがどうしてそんなに難しいのですか」

いつの間にか六本目に突入したウオッカが、既に空になろうとしている。
「誰が難しいなんて言ったんだい?私ゃ、そうすることに意味を見いだせないだけだよ。コップ一杯の水を飲ませること自体が難しい訳ないだろう、水なんて腐るほどあるんだから」
女は足下に積もった煙草の山を蹴散らして、67本目の煙草に火を点けた。
「どうしてあんたは、ここ以外で水を手に入れることを考えないんだい」
女の銜えた煙草がじゅうっと音を立て、女は空になったウオッカの瓶を無造作にぽーんと空中高くに放り上げた。
「ですから最初にも言ったように」
そこまで言ったところで、男の頭にウオッカの空瓶が降ってきて、ぐわしゃんと嫌な音を立てて瓶は粉々になった。

「あいたたた、ですから最初にも言ったように、喉が渇いて彷徨っているところにあなたの家を見つけたのです、ですからこうして頼んでいるのです」
男はガラスの破片にまみれて、ところどころから血を滲ませながらそう言った。

「だからそうすることに意味を感じないと言っているでしょう」
女は27本目のウオッカの栓を、またぼんと抜いた。男は咄嗟に飛んでくるコルク栓を避けた。コルク栓は男の真後ろにあった木の幹に当たり、まっすぐに跳ね返って女の額にこおんと当たった。その拍子に女は飲みかけのウオッカを全部、頭から足の先まで丁寧にかぶってしまった。
「ごふっ、なにするんだいこの馬鹿野郎!」
「わざとやった訳じゃありませんよ、跳ね返った先にたまたまあなたがいたんじゃないですか」
「いや違う、あんたは私が水をあげないものだから私を嫌っている。わざとやったんでしょう、正直にお言いなさい。正直に言うなら許してやってもいいわ」
「そんな無茶な話がありますか。私が額に痣を作って、ガラスで血塗れになっているというのに私が悪いと言うのですか」
「たくさん傷ついている人間が必ずしも被害者であるなんていう思いこみが私ゃ大嫌いなのさ。強くなる努力を怠った輩は、その力に応じて野垂れ死ねばいいのさ」
「私にだって生きる権利はあるでしょう、こんな私でもです」
「こんな私だなんて言うだけの頭があるなら、自分一人で生きるために使ったらどうだいこのくそったれ!」

女は男の横っ面を、28本目のまだ中身の入ったウオッカの瓶で張り倒した。
男の頬骨はぐしゃりとおかしな音を立てて砕け、男は地面に叩きつけられた。
男のちょうど頭の位置には握り拳ほどの石が転がっていて、男のこめかみに直撃した。

「ええい、忌々しい。折角の酒が不味くなるじゃないか」
そう吐き捨てて女は93本目の煙草を銜え、マッチを擦った。

その途端、女の身体に染み込んだウオッカに火が移り、女は炎に包まれた。
「うああちちち!おい!こら!お前がやったんだろう!寝てないで火を消せ!おい!」
男はぴくりとも動かない。
女は転げ回りながらひとしきり男を罵ったが、そのうち言葉にならなくなり、ついにはごぼごぼと呻きながらぶすぶすと燻る黒い固まりになった。








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