自分に優しく。 - 2005年09月22日(木) 自分に優しいこと。必要なことです。 自分のことは、はっきり言って自分以外に分かるはずもない。それはたとえ親であっても親友であってもです。「あなたは私ではない。」と言われるのがオチ。具体的には、自分について他人が理解し、共感するだなんてことはありえないことで、もしそれを他者に求めるならば、雨に向かって「やめよ!このやろう!」と叫んでいるのと同じです。だから、当然「誰も分かってくれないんだ」なんて卑屈になる必要はないし、分かってもらえないという当たり前のことにストレスを感じるのは高慢でしかない。逆も然り。自分が他人を分かってあげられるなんて超人染みた考えを持つのも高慢でしかない。偶然分かってもらえたり、なんとなく分かるときがあるからうれしいのです。 「自分のことは本当は自分がわかっている。だから優しくしよう。」 そのことを考えれば、他人は自分が思っているよりも自分のことなんて気にしていないのが分かります。ちょっとぐらい変でも嫌われることはない。自分が他人のことをそんなに気にしないのと同じで。 ・・・・・ もし、他人の行動や考えがちょっとでも自分のスタンダードとずれていることが気になって仕方ないなら、それは自分というものの範囲を分かっていない証拠です。「自分がそうだからあの人もそうに決まっている。おかしい。そうでなければ変だ。むかつく。」他人は自分じゃないのに。他者をコントロールしようなんて、お母さんがいないと生きていけないから泣くことによってお母さんを操作しようとする赤ちゃんと一緒。自己の形成ができていないと思ったほうがいい。 ・・・・・ 話を戻して。 つまり自分である自分しか自分を認めることが基本的にはできないのであって、それをすることこそが自分に優しいということです。自分を認識し、どんな馬鹿な自分も、賢い自分も自分であり、それ以上でもそれ以下でもないことを感じる。 しかし、これを都合のいいように捕らえると大変なことになります。具体的には、本当の自分とか、こんなの自分じゃない、とかを考えることです。それは自分で勝手に決めた好きな自分と嫌いな自分、なりたい自分となりたくない自分を分けて、見ると痛くて嫌なほうを見ないようにしているだけです。 それは自分には優しくない。 なぜなら受け入れていない自分の部分があるからです。受け入れられていない部分も自分なのに、そこを否定し続ければ、それでは自己否定となり、自分に優しいとは言えません。受け入れられない自分の部分は何処にやったらしいのでしょう?他人に任せる?はじめに書いたように他人は自分のことを分かってくれていません。ましてや本人も認めない自分の部分を一体誰が引き受けてくれるのでしょうか?行き場のない自分を放って、否定し続ける。これほど自分に優しくないことはないです。もし、引き受けてくれる人がいるのなら、多大な負担を引き受けてくれた奇跡的なその人に感謝をしたほうがいいでしょう。 全部を見て受け入れて、さあどうしようかと考えるのが「自分に優しい」のです。反省と自己否定は違います。見ないようにするのと受け入れて省みるのは大違いです。そうしない限り人は成長しませんし、真に優しくなれません。 本当の「自分に優しい」というのがどういうことかわかったでしょうか? 論文書いていない自分。ごめんなさい。 ...
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