友とは何か。愛とは何か。

MAD TIGERの
のも ...
〜〜  ヲ タ ク の 魂 1 0 0 ま で  〜〜


2006年09月19日(火) 思いを馳せる

どうも!キュィ〜ンギュギュギュギュギュギュゥイィ〜ン(ギターソロ)のMAD TIGERですがいかがお過ごしでしょうか。

今日は、東京都立現代美術館でやっている「ディズニーアート展」を見に行った。



・・・ら、休館でした。







・・・・・・だって、休館日は月曜ってかいてあるヨ?
・・・昨日が敬老の日の振り替えでハッピーマンデーだったからなの?
・・そうなの?
・・・・ふーん・・・・。




で、すっげぇ凹みながら地下鉄に乗って、三越前で降りたところ、なんと本日より『佐野洋子展』をしているというポスターを発見!
佐野洋子さんは、「100万回生きたねこ」等の絵本でおなじみの絵本作家。
その原画が見られるなら、行かずにはおれまいが!!!

ということで、ぶらり途中下車の旅となった。
三越の催し物会場で佐野さんの絵と、そこに付けられた物語を読んでいく。
どことなく物悲しいものばかり。
「おれはねこだぜ」はちょっと面白かった。鯖ばっかり食べている猫が、大量の空飛ぶ鯖に追いかけられる話。
さば、ってなぁ(笑)。なんでサバなんやろうなぁ。
100万回〜のところでは、胸に迫るものがあった。
透明感のある絵柄は、絵本になってもそれが薄れることはない。
実際の原画も、透き通るような、ネコのふんわりした毛が解るものだった。
修正の白インクかと思いきや、それまで計算され、構成された絵の一部だったりと、
原画を見た後に絵本を見ると、絵の点から言えば相当の違いを感じた。
あまりにも感動したので、100万回〜のサイン入り絵本を買ってきた。エヘ!

だって、「ねこ」の風貌が、うちのモジャモジャ虎猫、虎ファルガーにそっくりなんだモン!←キモい

ちなみに、絵本「ラチとらいおん」のらいおんにも似ています。親バカですまん。
ついでに言うと、虎ファルガーにカビが生えたので、通院中です。
あの野郎、本当金のかかるヤツだぜ〜!そこが可愛いんだけど〜!!←馬鹿親




そして、16:30頃上野に到着。上野恩賜公園に入る。
本日の目的は、「ディズニーアート展」(結果;不発)と、「”こころ/夏目漱石”の旅」である。
先日作中に出て来る場所を調べまくり、そこに実際行ってやると息巻いて、本日上野へとやってきたのだ。
時間が時間なのと小雨が降ってきたため、途中で引き上げるしかないのだが、
いけるところまでは行きたいと思い、上野公園を散策。
青々と茂り、風に揺れる木立に、浮浪者が彩りを添える。
鬱蒼と茂っていて、正直これ暗がりだったら(充分薄暗かったが)相当怖いな、といった具合。
実際上野公園は「でる」ことで有名。
それ以上に、自分のイメージは「関東大震災」の時に西郷隆盛像に貼られまくった「尋ね人」のチラシとか
亡くなった人が浮く水路だとか、そういった壮絶なイメージしかない公園である。
それは、自分の愛蔵書「一億人の昭和史〜大正ー昭和の道程〜」に写真ががっつり載っている。

いろんな意味で感慨深いものを感じながら、歩く。
精養軒(三四郎で出てくる)でご飯を食べようと思ったら、フランス料理のフルコースしかないと知り、
すごすごとすぐ隣のキャフェーに入る。
そこの窓際に通してもらい、漱石も来たという「精養軒」(隣だけど)から、同じように風景を見ただろうかと
思いを馳せる。
今はネオンや、ビル群が犇めき合っているが、昔はどうだったんだろう。
もっとがらんとしていたとは思うが、何色の瓦が多かったんだろうか。
どんな建物が突出して見えたのだろうか。やっぱり目立つし僧院なのかなー、などと本気で考えながら食事。
食事は美味しかったが、店員の態度は最低だった。
今度は勇気を出して、精養軒行くぞ―――!!!

本当はそこからさらに歩いて、東大のほうへと行きたかったのだが、時間がなくて断念した。
次回行くことにする。

今回上野恩賜公園に行って思ったのは、「迷子になるわい!!」ということ。
それは別として、作品と照らし合わせて感じたのは、
「よくここを”散歩”という名目で幾度もチョイスしたなぁ」という部分だ。

作中の時代は、明治30ごろからの話である。
現在はカラオケやらゲーセンやら、『遊び』といえば即町に色々なものがあるが、当時はそこまで無かったに違いない。
それは理解しているが、それがどうして時間を潰すため、話をするための
「男同士のお散歩」になってしまうのか、それが不思議。
それは全体的な夏目漱石著書に共通して感じることである。
主人公がことごとくカタブツ。遊びを知らない。
そして、遊ぶ描写がない。
たまに海などに行くけれども、それはそれで、「旅行」で終わってしまう。
都会に戻ってくると、書かれる描写は討論、場所を変えて討論、お散歩で討論、おうちで討論、人の家で討論、とにかく討論まみれ。
いかに夏目漱石自身の『遊び』が足りなかったかが、よく解る描写だと思った。
その代わり季節の移り変わりだとか、自然の描写は非常に素晴らしい。
それが、夏目漱石のしてきた「散歩」の成果なのだろうと自分は思っている。

加えて、本日自分の恩賜公園ぶらり旅中に、討論をしている男二人組みは皆無。
二人で散歩をしながら喋っている男二人組みも皆無。
これが時代の流れなのだろうか。当時の東大生なんかは、熱く公園内で鼻息荒く討論したのかなぁ。
あ、熱唱するストリートミュージシャンは1人いた。←聞いてねぇ


今日はそうやって歩きながら、本当に一歩一歩、足元に生きてきた人と過ぎていく時間の感覚を得ることができた。
自分が踏みしめた一歩の、その場所を、100年前の漱石が踏んだかもしれない。
100年前の漱石の数十年後、関東大震災でそこに人が溢れんばかりに集まり、
その今踏みしめている場所で、誰かが亡くなったかもしれない。
その数十年後、そこに猫が寝転んだかもしれない。
一昨日、そこに犬がおしっこしたかもしれない。
時間が経つのは本当に無情で、でもだからこそ楽しみがあるし、悲しみも薄れていくものだと思う。







あ――――――――萌える!!!萌えるっつーか、もう燃えてるね!!!
作品の中に潜むものを、必死で探ろうとしておる自分であります。
まだまだ行くぞおおぉ―――!!



追伸:2006年09月18日(昨日)の日記に、先日行った長瀞のことを写真つきで書きました。阿左美冷蔵とか。
よかったら見て栗。




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