「暗幕」日記
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笠井先生はTシャツの首に細く白い襟巻をして現れた。今は七月なのに変でしょうと言いかけて、答えを待たずにその理由に気がついた。白い肌に浮かぶ見間違えようもない気管切開の痕。 その瞬間先生は襟巻きを掻き合わせて困ったような微笑を浮かべた。だから、先生も、俺がその痕に気づいたことに気がついたんだと思う。僕らはどちらからともなく話題を逸らしていた。
僕らが高校三年だった十一月、先生はバイク事故を起こして病院に運ばれた。まる三日間意識が戻らず、一時は生命さえ危ぶまれた。生還を果たした先生はリハビリの結果驚異的な回復を遂げて、この夏休みあけから社会復帰することに決まっている。だが僕らの卒業を見送ることはできなかった。
「荷物は俺が車まで運びますから、先生はどれがご自分のか指し示してくださるだけでいいです」 事故のあと学校関係者が先生の代わりに、当時のアパートを引き払い、私物は俺と同級生で旅館をしている長田が物置に引き取っていた。どうやら一人で生活できるまでになった先生は、その家財道具を引き取るために俺を呼んだのだ。
「普通免許もお持ちでしたよね、二輪だけじゃなく」 「…すまないけど、当分、ハンドルを握る気にはなれないよ。事故の前後は、記憶がほとんどないのだけれど…」 「俺、時間ありますから。」 物置に収納されたのは比較的最近のはずなのに、先生の荷物にはうっすら埃がかかっていた。もしかしたらそのまま忘れ去られたかもしれない、少し型の古いラジカセ。
「あ、ちょっと待って。」 車のトランクを閉めて、長田のおやじさんに挨拶をする前に、先生はサイドミラーの前で立ち止まった。 「まだまともな鏡もなくてね。見苦しいものをお目にかけては申し訳ないから」 男の肌に傷がついて見苦しいというのではなく。 彼と近しい人間ならば誰でも、思いだされてしまうのだ。事故を知らされたときの、心臓が握りつぶされて凍るような気持ちを。誤報であってくれと、死なないでくれと、祈るしかなかったあの時間を。 授業では脱線ばかりで、生活指導もやる気があるんだかないんだかわからないいい加減な人だと思っていた。けれども、この人はちゃんと分かっている。誰かの想いが自分に向けられていて、今回自分を生かしてくれたのはまぎれもないそれらの一部なのだと。
先生の新居に荷物を運び込んだあと、配置を手伝うつもりだった。けれどそれはいいと先生は言って、代わりに飲みに付き合わされた。先生は覚えていないかもしれないけど、俺は覚えていました。先生。前のマンションで、高層から吸い込まれそうになるって言ってましたよね。今度が三階なのは、だからですか? 「俺、大学生は暇ですから、よかったら電話ください」 俺は半ば押し付けるように携帯の番号メモを先生に手渡した。いつか本当に先生が落ちていってしまいそうな気が、まだ、するからだ。
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