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「暗幕」日記

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2002年07月24日(水) 関わるからこそ反発されても/誤解とその対処について

MUSICA FICTA(7月24日・追記2)経由でそれはただの気分さ(7月24日)
逆に言えば、その長期的に見れば善となり得る(これもまた送り手の推測に過ぎません。しかし推測ではなく確実に善となり得ると判断することは恐らく、不可能です。送り手はいわば善となると「賭ける」わけです)可能性を見過ごしてまで「嫌な気分」を与えてはならないと語るいずしさんの言葉が、私にはとても現実離れしたもののように思われるのです。

同意。どうでも良い相手に対しては、相手を不快にさせまた自分自身も不快になる危険を冒してまで意見しようとは思わない。関わりを持ちたいと思う相手だからこそ物言いをつけ批判することもある。相手は素直に耳を傾けてくれるかもしれないし、逆に「おしつけ」と見なされて嫌われるかもしれないけれど、結果がどちらに転ぶかは確実に予測することはできない。
つまり、私は相手を気分よくさせておくことを至上として人と関わってはいない。


異なる意見のすり合わせ


ネットにおいて交流するために最低限必要な、ある程度の読解力と文章表現力を誰もが持っているとは限らないと最近ますます思うようになった。同時に、誤解された際の対応法もまだ常識にはなってないということがわかった。
自分の書いた文章を、意図とは異なって理解(誤解)されたとき、ふつうは誤解を解くよう最善を尽くすものだと思っていたがそうしない人もいる。誤解されたままでふてくされて「どうでもいい」というのはものぐさなんだか大物なんだか。
先日、ある語句が、読み手を感情的に刺激するキーワードになり得ることに無自覚に使ってしまった。わざと相手を怒らせる戦略もあるが、意図せずそうなってしまったとのは私のミスだ。そのことに気づかせてもらい、意図が正確に伝わりやすい文章を書くヒントになったのはありがたいと思っている。
批判や誤解を受けたとき、その原因を相手に転嫁して自らを省みるということをしない人は、せっかくの機会をみすみす捨てている。勿体無いと私は思うが思うだけでただ眺めている。

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