「暗幕」日記
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2002年03月13日(水) |
代理出産は引き合うか |
In the afternoon(3月12日) ある女性Aは、子どもの持てないBのために自分の身体を貸して出産する契約に同意しました。この契約がAにとって金銭的に見合うかどうかという議論をします。生殖技術の現状について手元に資料がないので、具体的なデータなしですむ範囲で書きます。生殖技術が不妊女性への福音になるかどうか等の話はまた別の機会に。
冒頭に記した条件から、AとBについてある程度の想像ができます。まず、AよりもBのほうがお金持ちです。Bは借り腹としてのAと、Aに受胎させ安全に出産させるための技術に対して支払えるほど金持ちです。Aは定職がない可能性が高い。というのは、女性が出産した後も以前と同等の条件で雇用される可能性は少ないからです(既に職業があるのにそれを中断してまで代理出産に同意するとは考えづらい)。Aには一人以上の子どもがいます(それまでに死亡させていなければ)。代理出産に応募できるAは、少なくとも1回、健康な赤ん坊を正常分娩した経験があるはずなので。したがって、Aの生活は苦しい。
子どもを生み、育てる行為は、効率を優先する資本主義社会にはなじまない。当の女性にとっても、最低10か月、労働機会を奪われ、あるいは退職して、そのまま働き続けていれば得られたはずの金銭や仕事をあきらめ、それでも生むのは金銭以外の、報われることが何かあるからなのだろう。ただしその「何か」はこの場合AではなくBに帰属されるものだ。
子どもの持てない女性の血縁が、代わりに出産したケースがある。腹を痛めた子どもは血縁の実子となるので、ひきわたしたあとも血縁だ。 あかの他人の代わりに妊娠・出産し、金銭とひきかえに子どもを引き渡す契約をした、Aのケースでは、子どもは残らない。それではと、金銭的に引き合うかどうかを考えている。
代理出産の代価はどのくらいが相当だろう。出産が場合によっては母子の生命に関わることを考えれば、Aに支払う分だけでも、被保険者死亡時に支払われる保険金額になっておかしくないと個人的には思う。最低ラインでも、職業婦人が無給でも産休・育児休暇を必要とするであろう期間分の年収が必要だろう。この場合の年収は、BではなくAの労働単価で算出されるであろう、Aの代理出産という行為で本来得られたはずの収入が得られなかった、得られなかったのはAが労働した報酬金額であって、Bが出産を免れたために達成できた労働ではないので。
代理出産は職業ではない。人ひとりにこれだけのリスクを負わせるだけの対価を支払える個人は限られている。(代価には生殖技術に対するものも含まれるから、Aに渡る分は全部ではない。1回の代理出産で得られる報酬で、A母子はどれだけの期間暮らせるだろうか)
胎児が備え持つ遺伝子が誰のものであれ、自分の身体で育てている間に情愛もわくであろう。金銭と引き換えに引き渡し二度とその子に関わらないということが心情として可能なのか。また、同じ女性としてAにそれを強いるB側の不妊女性はそのことについてどう考えるのか。
あるいは。Bは女性ではないかもしれない。「不妊の女性のために子どもを生んであげる」とAは思っていたかもしれないけれど。実際のところはどうかわからない。生まれた子はBカップルの実子になると信じて同意したけれど、引き渡したあとその子がどうなるかはわからない。「代理出産」に関する法的規制がなければB側はやりたい放題だ。望まれたのは安価な労働力かもしれないし、この先いささか問題があるので自主規制→化学的に合成できない有機物の提供源かもしれない。
女性とは「生む」性です。言い換えれば「生むか生まないか自分の意志で決定できる」ということです。「自らの意志に関わらず生むこと乃至は生まないことを強制される」のであれば奴隷です。しかし女性の自己決定権というものはまだ当たり前のものとはなってはいない。「家の存続のために俺の血をひく子を生め」という強制力もあるところにはあるし。「結婚して子どもを持って一人前」(独り身や、子なしカップルは一人前でない。そのカップルも異性間のものしか眼中になく、同性カップルは論外)という社会的偏見も当たり前のようにあるし。生殖技術を考える場合見落としてはいけないと私が思うのは、「子どもがほしい」「生んであげてもよい」という女性の気持ちは、それらの背景と無関係ではありえないということです。
目の前の子どもや赤ん坊を「かわいい」と思う気持ちすべてが社会的強制だとは私も思わない。「子どもなんて好きじゃない、かわいいとは思えない」と女性が言えるようになったお蔭で、「母性愛は本能だ」というのは社会的おしつけだと女性自身も気づきはじめている。女性に罪悪感を負わせる罠はいたるところに仕掛けられていて、「どうしても子どもを」と願うのはその罪悪感から来たものかもしれない。
収拾がつかなくなった。この調子だといつまでたっても終わりそうにないので一旦手を止めます。続きは未定。
[追記]In the afternoon(3月13日) なぜ今詩野さんが代理出産について「考え込む」ことになったのかそのきっかけはタレントさんの決意表明だったとわかった。そんな今日この頃(3月8日) 向井さんのケースでは、私の危惧は無用で少なくとも彼女たちの実子として育ててもらえそうだ。
でも最 先端の生殖技術によって、妊娠出産を他人にお任せしなければならないけ れども、我が子を抱くための選択肢が生まれる。 それは本当に当の女性にとっての選択肢なのか。「技術的に可能」→「生むことへの社会的強制」がまた一つ加わるだけではないのか。費用も、女性の身体への負担も考慮されることなく無責任な発言の集積としての。
私の生活の現状では子どもを受け入れる余裕を持たない。まかりまちがって将来、ひとりの子どもの成長を身近で見届けたい誘惑にかられても、自分の血をひく子を生み出すよりは、保護者のいない、まだ成人の保護を必要とする年齢の他人を受け入れる方を選ぶと思う。これは私が私自身親から受け継いだ資質の一部を憎んでいて次世代に伝えたくないと思っている特殊事情があるからだ。要するに、養子ではなぜいけないのか、実子にこだわる心情が私にはわからない。
もしかして私の筆致はあるタイプの女性に対してひどく冷たいものになってしまったかもしれない。「生みたいのに生めない、子どもが欲しいのにできない」女性を一層苦しめる意図で書いたものではない。「子どもができない」事実を彼女らに対して、一層負担にさせ罪悪感を負わせる仕組みに光を当てたかった。
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