女の世紀を旅する
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2003年11月01日(土) 欧米と闘ったマハティール首相の演説「日本なかりせば」

《 欧米と闘ったマハティール首相の演説「日本なかりせば」》

                     2003.11.1








 2003年10月31日に,1981年から22年間,首相をつとめたマレーシアのマハティール氏(77歳)が退任し,新たに副首相であったアブドラ氏(63)がクアラルンプールの国王(スルタン)宮殿で首相就任宣誓式をおこない,同国の第5代首相に就任した。
 
 マハティール首相の辞任を機に,なぜ彼が欧米に歯向かい,アジアの結束を働きかけてきたのか,そしてその中心に日本をすえようとしたのか,を概観しておきたい。





●マレーシアの苦難の歴史

 マレーシアは,15世紀にマレー半島南端に栄えていたマラッカ王国(東南アジア初のイスラム教国)の時代からイスラム教を奉じ,インドネシアと並ぶアジア有数のイスラム国家である。

当時,東南アジアにイスラム教を布教したのはデリースルタン朝時代のインド商人たちで,その多くはイスラム教のスーフィズム(神秘主義.神アッラーとの一体化を説く)の信徒であった。

19世紀にオランダ(インドネシア支配)に対抗してイギリスが東南アジアに進出し,1895年にマライ(マレー)連邦を樹立したが,1942〜45年に日本軍がイギリス軍を破り,マレー半島とシンガポール島を占領した。

日本敗戦後の1946年再びイギリスの支配下におかれたが,1948年からマラヤ共産党など華人を主体にしたかつての抗日人民軍が,完全独立を要求してゲリラ闘争を開始。このためイギリスは戦時中,日本軍に協力したマレー人を味方にして共産党軍を討伐した。1957年にイギリスはイギリス連邦内の独立を認めてマラヤ連邦が誕生し,親英派のラーマンが初代首相に就任した。ラーマン首相はイギリスとはかって,1963年に,マラヤ連邦にシンガポールと,イギリス領北ボルネオ(サバ)・サラワクを加えてマレーシア連邦を建国したが,華人が多いシンガポールは65年に分離独立した。

ラーマン首相は人種間の妥協による国民統合を期したが,69年の総選挙で与党マラヤ連盟党が後退し,華人・インド人の政党や,極右のイスラム政党(イスラム再生運動を推進)が躍進すると,5月13日に首都クアラルンプールで祝賀の華人デモと,連盟党支持のマレー人とのデモが衝突し,48時間にわたる史上最悪の人種暴動(5.13事件)となり,多数の死者が出た。

1970年に首相となったラザクは,憲法を改正し,人種間の経済格差是正のため,90年までに資本所有・雇用におけるマレー人のシェアを30%に拡大するブミプトラ政策(マレー人優遇政策)を採用した。82年に首相となったマハティールは,イスラム再生運動の政治化や,ブミプトラ政策強硬派の巻き返しを食い止める一方,日本の産業技術・労働倫理を導入しようとのルック・イースト政策を推進し,欧米に対抗するためアジア経済共同体の結成を働きかけてきた。

 



●マレーシアの人種対立

マレーシアの国内事情を理解する上で欠かせないのが人種の問題である。住民はマレー人が45%で最も多く,ついで華人(中国系)32%,インド人9%となっている。19世紀末からイギリスはマライ連邦のゴム園の労働力としてインド人(タミール系が多い),錫(スズ)の鉱山開発のため中国人労働者を多数連れてきたことが背景としてある。彼らが,それぞれの社会習慣,文化,宗教を融合させずに複合社会生み出していることが,今日のマレーシアの重大問題となっているのである。

 ことに華人社会が,貧困者が85%に達するマレー人社会をしのぐ勢いにあり,マレー人指導者から恐れられている。華人社会も貧富の格差は大きいが,上層の華人は錫(スズ)鉱山やゴム園の大地主となり,商業・貿易を支配し,法曹界その他各界を牛耳っている。太平洋戦争中,日本軍はマレー人が抱く対華人恐怖を利用してマレー,シンガポール作戦に勝利し,華人圧政の政治をしいた。シンガポールでは華人青年を約2万弱を虐殺したが,その理由はイギリス軍が組織した抗日のダルフォース義勇軍に多くの華人が加わった報復にあった。

マハティール首相が日本に接近した背景を理解するには上のようなマレーシアの歴史を知ることが大切であり,また欧米のキリスト教文明圏やイスラエル(ユダヤ教徒)に対する反発の根底には,マレーシアの伝統的な宗教であるイスラムの視点を忘れてはならないだろう。戦争中,日本軍に協力したマレーシアとインドネシアがどちらもイスラム教国家だった点,欧米のキリスト教文明に対する反発,そして華人の経済支配への反発がマハティール首相のルック・イースト政策の背景にあったとみることができる。 





●村山首相と土井たか子議長への一喝

平成6(1994)年8月下旬、社会党の村山首相は訪問先のフィリピンとシンガポールで戦争責任問題について謝罪した。その村山首相をマレーシアに迎えて、マハティール首相は冒頭こう切り出した。

「 日本が50年前に起きたことを謝り続けるのは理解できない。過去のことは教訓とすべきだが、将来に向かって進むべきだ。日本はこれからのアジアの平和と安定のために国連安保理常任理事国入りして、すべての責任を果たして欲しい。」

また村山首相の6日前にマレーシアに到着した社会党の土井たか子衆議院議長が「二度と過ちは繰り返さない」「歴史への反省」などと口にしたのに対し、「過去の反省のために日本が軍隊(PKO.国連平和維持活動)の派遣もできないのは残念だ」と切り返した。
「ダメなものはダメ」とおよそ非論理的な姿勢でPKOに反対する土井議長に対する痛烈なパンチであった。

「 世界の富から利益を得ていながら、世界に対して責任を負わないということはできません。経済大国・日本にとっては、世界を安定させ、第3次世界大戦のような惨事が引き起こされないようにすることが重要だからです。

国際貿易で膨大な利益を上げながら、半世紀前の戦争への反省を口実に、ODA(政府開発援助)をばらまくだけで、世界の安定に対して何ら貢献もせずにいる日本は、「世界に対する責任」を果たしていないとマハティール首相は一喝する。





●「ルック・イースト」政策

マハティールは、1925年、インド出身で上級会計検査官の父とマレー人の母の9人兄弟の末っ子として生まれた。1941年、16歳の時、日本軍が初めてマレーの支配者・英国軍を打ち破ったのを目の当たりにし、またその規律の良さに強く感動した。我々にもその意思さえあれば、日本人のようになれる、自分たちの手で自分たちの国を治め、ヨーロッパ人と対等に競争でき
る能力がある、と考えるようになった。

けっして裕福とは言えない家庭のため、マハティールは働きながら、医科大学を卒業する。卒業後は、医師として地方の医療活動に専念したが、患者の多くは貧しいマレー人の農民で、その惨めな暮らしぶりになんとかしなければ、との思いに駆られた。64年、下院議員に当選し、政治家としてのスタートを切る。

近代社会における後進性とは貧困を意味し、それが教育の遅れをもたらし、さらに教育の遅れが貧困を永続させる。どこかで、その悪循環を断たなくてはならない。

1973年に訪れた日本で、その悪循環を断ち切る解を得たようだ。街にあふれる高品質の製品も、秒単位の正確さの新幹線も、質の高い教育がもたらしたものである。1981年、首相に就任すると、「ルック・イースト」政策を打ち出した。

怠惰、無気力な植民地根性をたたき直し、日本を見習って、マレー人に労働倫理と技術を身につけさせ、エレクトロニクス産業や自動車産業を発展させて、経済成長を実現しようというのである。

ゴムや錫の原材料輸出国から脱皮して、日本などから積極的な外資導入を図った。96年には一人あたり国民総生産が4370ドルに達し、中進国の仲間入りした。3〜4LDKレベルの住宅を大量・廉価に供給し、生活水準も急速に向上している。躍進する東南アジアの旗手にふさわしい経済発展を実現してきた。




●「日本なかりせば」

マハティールの世界観は、92年10月香港で開かれた欧州・東アジア経済フォーラムでの演説「日本なかりせば」から窺い知ることができる。

「 日本の存在しない世界を想像してみたらよい。もし日本なかりせば、ヨーロッパとアメリカが世界の工業国を支配していただろう。欧米が基準と価格を決め、欧米だけにしか作れない製品を買うために、世界中の国はその価格を押しつけられていただろう。・・・」

貧しい南側諸国から輸出される原材料の価格は、買い手が北側のヨーロッパ諸国しかないので最低水準に固定される。その結果、市場における南側諸国の立場は弱まる。・・・」

「南側のいくつかの国の経済開発も、東アジアの強力な工業国家の誕生もありえなかっただろう。多国籍企業が安い労働力を求めて南側の国々に投資したのは、日本と競争せざるをえなかったからにほかならない。日本との競争がなければ、開発途上国への投資はなかった。・・・」

「また日本と日本のサクセス・ストーリーがなければ、東アジア諸国は模範にすべきものがなかっただろう。ヨーロッパが開発・完成させた産業分野では、自分たちは太刀打ちできないと信じ続けていただろう。・・・

もし日本なかりせば、世界は全く違う様相を呈していただろう。富める北側はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の顧客の言い値で売り続けていただろう。」





●自由貿易体制を守るために

この演説を聴いていた欧米の記者の中には怒って席を立つ人もいたそうだが、マレーシアをゴムとスズの原材料輸出国から、近代工業国家に脱皮させたマハティール首相の実績を背景とした発言には重みがある。

この演説は単なる日本賛歌と受け取るよりも、南側諸国が「発展する権利」を発揮するには、欧米支配の近代世界システムのくびきを脱して、自由な国際競争を実現する必要がある、という世界観を示したものととらえるべきだろう。

欧米の世界経済支配を排し、自由貿易体制を守るためには、アジア諸国が結束して、強い発言権を持たなければならない。そのための第一歩としてマハティールは「東アジア経済圏(EAEG)構想」を90年12月に発表した。日本をリーダー格にして、ASEAN6カ国(マレーシア、シンガポール、タイ、インドネシア、フィリピン、ブルネイ)、インドネシア3国(ベトナム、ラオス、カンボジア)、さらに中国、韓国、香港が団結しようという壮大な構想である。

「私は閉鎖的な地域主義を信奉しているのではありません。開放的な地域主義の重要性を信じています。しかし、マレーシアのような小国が国際貿易における意思決定にほとんど影響を及ぼさないことにも気づいたのです。国際的な影響力を持つためには、もっと大きなグループをつくる必要がある。・・・」

「アジア諸国の大半は貿易国なので、世界貿易が自由に行われるときに最大の利益を得られます。だから、我々も結集し、ヨーロッパ諸国や南北アメリカが域内市場を保護しようとしている現在の傾向に対抗して自由貿易体制を守らなければならないと考えているのです。




●欧米との闘い

マハティールの突出した提案は、ASEANの長老格スハルト・インドネシア大統領の反発を招いたが、その顔を立てて、スハルトがイニシアティブをとる形で、EAEGをEAEC(東アジア経済協議体)という話し合いの場にする事とした。
他のASEAN諸国もおおむね肯定的で、91年には域内で合意が得られ、次に日本を取り込もうという段階になった。

しかし、これに強硬に反対したのがアメリカである。べーカー国務長官は、東京で宮沢首相相手に気色ばんで「どんな形であれ、太平洋に線を引くことは認められない。マハティール氏の提唱する構想は太平洋を二つに分け、日米を分断させるものだ」とまくし立ててた。日本が参加しなければ、EAEC構想をつぶせると考え、強硬に圧力をかけたのである。

マハティールも負けてはいない。アメリカのお膝元、ニューヨークの国連本部で演説した際には、「欧米が自分たちだけ経済のブロック化を推進しながらEAECを阻止しようとするのは、アジア人に対する人種差別である」とぶち上げた。

しかし、日本政府はアメリカの圧力に屈して、EAEC参加を見送ってしまう。その一方で、タイなどのASEAN諸国は、EAECをより積極的に支持するようになっていった。欧米が、人権、環境問題、労働条件を改善しろとASEAN各国に要求し、反発を招いていたからである。マハティールは、こう反駁した。

「ヨーロッパはすでに保護主義的貿易ブロックを選択している。彼らは自分たちの高い生活レベルと生産コストを守り通すために、東アジア諸国との競争を拒絶しようとしている。(欧米は)あらゆる問題であら捜しををして私たちに対する差別政策を正当化しようとするだろう。彼らはその口実として民主主義、人権、労働条件、環境破壊、知的所有権などといった問題を持ち出している。NAFTAやECの登場でこのような差別による排除はますますひどくなるだろう。




●クリントンへの「NO」

1993年1月にスタートしたクリントン政権は、その4年前に創設されたが、ほとんど機能していなかったAPEC(アジア太平洋経済協議体)を土台にして、アジア太平洋諸国をすべてカバーする巨大な経済ブロックを作ろうとする構想を発表した。ASEAN諸国との対立を避けるためにEAECを容認するが、同時に、それをAPECの中の一機構として、あくまで盟主ア
メリカの影響下に置こうという戦術である。

クリントンは、同年11月にAPEC全加盟国の首脳をシアトルに召集して、拡大首脳会議を開くと発表した。アメリカはそれまでAPECを軽視して、前年のAPEC閣僚会議には一人も閣僚を送らず、また首脳会議をやるなら94年インドネシアでという了解があったのを一切無視して、いきなり全首脳を召集するという盟主ぶったやり方に、マハティールは筋が通らないと反駁した。そしてアメリカは緩やかな協議体であったAPECを、自らを盟主とする経済ブロックに移行することによって、EUに対抗しようとしている、と批判した。

クリントンは、面子にかけてマハティールをシアトルでの拡大首脳会議に参加させようと、貿易上のアメ玉まで持ち出して説得したが、マハティールは一蹴した。欠席の理由は、「身内の結婚式に参加するため」である。わざと刺激的な表現を使って、アメリカのエゴに対して、「NO」と言える政治家であることを、国際社会にアピールしたのである。

 太平洋・東アジアを包括する巨大な経済ブロックなど具体化できるわけがない、というマハティールの読み通り、APECはその後勢いを失っている。またEAEC構想はアメリカの画策によりつぶされたが、1997年のASEAN結成30周年を期に、10カ国に拡大したASEAN+3(日中韓)の毎年の首脳会議が定着してきている。東アジアが結束して世界への発言権を持つべきだ、というマハティールのビジョンは、姿を変えてしぶとく命脈を保っている。




●「マハティールなかりせば」

1997年7月のタイ・バーツ暴落から始まった通貨危機が、マレーシアにも波及した。そのわずか2週間前に、IMF(国際通貨基金)のカムドシュ専務理事は、マレーシア経済を「健全な財政システムを維持しており、他国が手本とすべき国です」と賞賛していた。


それが経済危機に襲われた途端に、欧米マスコミは一変して「縁故主義」「不透明」「政治腐敗」などと、マレーシア経済の長年の「構造的欠陥」を書き立てるようになった。

マハティールが通貨危機をもたらした国際的投機集団を批判し、適切な規制を訴えると、欧米マスコミはさらに「マハティール首相を、自国の金融・財政政策の失敗を人のせいにする」「自由市場を冒涜する無知な指導者」などと、バッシングを繰り返した。マハティールは屈せず、IMFからの支援申し出を拒絶し、非居住者の通貨取引を規制した。
その後、ロシアの経済危機でアメリカの投機家集団が大損をし、米国政府が巨額の資金を使って救済する事態が起こると、ようやく欧米諸国でも通貨取引安定化のための監督強化が合意された。

2001年7月、マハティールの首相としての在任期間は20年を超えた。この間、アメリカからはEAEC構想で目の敵とされ、また民主選挙によって選ばれているのに、欧米のマスコミからはあたかも独裁者であるかのように批判されてきた。それにも屈せず独自の発言を続ける姿勢は、英首相だったサッチャー女史も印象に残るアジアの政治家の筆頭にあげている。

「マハティールなかりせば」、国際社会におけるアジアの発言力は、今よりもはるかに弱いものになっていたろう。マレーシアのような小国の首相にすら、これだけの言挙げができる。そのマレーシアの6倍の人口と、50倍の経済規模を持つ日本は、なぜアジアのリーダーとして言挙げをしてくれないのか?アジアの大国として「世界に対して責任を負ってほしい」とい
うマハティールの日本への願いと期待は裏切られ続けている。


カルメンチャキ |MAIL

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