女の世紀を旅する
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2003年06月15日(日) |
現代史探訪 「ラーゲリに消えたサムライ」 |
《 ラーゲリに消えたサムライ(近衛文隆)》 伊勢雅臣 文
――ソ連での獄中生活11年余。スパイになる事を拒否し続 けて、ついに屈しなかった本当のサムライ――
●日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。
同志スターリン、朝鮮国境で3日前にスメルシ(赤軍防 諜部)が日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。 その報告に、スターリンはゆったりと聞き返した。「コノエだと? この夏にヒロヒトが特使として名指したあの人物の息子か?」 「ヒロヒトの特使」とは、日本の降伏も間近の1945(昭和20)年7月に、ソ連に和平工作の仲介を依頼するために元首相・近衛文麿が特使として指名されたことを指す。しかし、その時にはすでにスターリンは日ソ中立条約を破って対日参戦することを決めていたのである。 近衛文麿の長男・文隆が所属する重砲兵第3連隊が停戦命令に従って武装解除に応じ、ソ連軍に投降したのは玉音放送の3日後、1945(昭和20)年8月18日だった。文隆は配下の中隊の部下を集めて、「なあに、川ひとつ越せば朝鮮だ。釈放されたら、さほど手間取らずに内地に帰れる。それまでは一致団結して頑張ろう」と相変わらず元気な檄を飛ばした。 文隆は17歳にして米国プリンストン大学に留学したが、遊び過ぎがたたって中途退学。その後、しばらく父・近衛首相の秘書役を務めた後、上海に渡り、蒋介石政権の高官の娘と恋仲になって、一緒に日中和平工作に乗り出すが、軍部ににらまれて徴兵の対象となり、二等兵として満洲に配属された。今度はよく勉強して瞬く間に中尉まで昇進した。身長1メートル79センチ、体重81キロという堂々たる体躯にふさわしいスケールの大きな人物だった。
●すごいスパイになる!
ソ連国家保安省の防諜担当捜査官ピィレンコフは、保安省次官セリヴァノフスキー将軍のデスクの前に立っていた。将軍はいきり立っていた。 「 いずれこちらの手に取り込むのだ。それはすごいスパイ になる! 日本ではなんとしても工作要員が必要だ。捕虜 を何人協力者に仕立て上げても、共産党支部に直行して集 団入党が関の山。雑魚の集団だ。おまえの仕事は、一本釣 りだ。話がついたら、すぐに帰国させ、国会議員にする。 政党をつくり彼を党首にする。 いいか、コノエを落とせば、レーニン勲章だ! 期限は 1ヶ月。できなければ、やつと一緒に監禁されることにな る。」
●「そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ」
コノエ、もう午前3時だ。17時間もあんたとやりあっ ている。そろそろ吐かないかね。 そう言う捜査官ピィレンコフも駕籠の鳥であった。尋問は盗聴されている。コノエに向かって怒声を発し、頭がおかしくなるくらい、同じ質問を繰り返さねばならない。文隆はきょう一日何も食べていない。頬はこけ、目は落ちくぼんでいた。 「 この8日間、捜査官殿、わたしは50時間尋問されまし た。同じ質問が繰り返されました。何故に報いを受けるの でしょうか? 皇軍将校たるわたしが軍紀を遵守し、陛下 に忠誠を誓ったからですか? わたしは死ぬまで忠義をた がえません。わたしをむりやり裏切らせるようなことはあ なたにもおできになれない。家族、祖国、天皇陛下、わた しにとって神聖にして犯すべからざるすべてのものを裏切 れなんて。」 「そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。」 「父もそうだったが、わたしも死をおそれない。その備え は常にできております。」 「 もういい、コノエ。おまえの生殺与奪の件はこちらにあ る。言われたことをよく考え、分別を示すことだ。おまえ はふつうの捕虜ではない。国家保安部の最高首脳が本件に 関わっているのだ。ほら、紙だ。監房にもち帰り、自分の 罪状を書け。」 「紙は必要ありません、捜査官殿。書くことがないのです。」
翌1946年4月、文隆はモスクワに送られ、ソビエト国家保安機関の本部ビル・ルビャンカに収容された。このビルには銃殺室や拷問室もしつらえてあり、スターリン時代の暴政のシンボルであった。 その中の何十とならぶ地下墳墓のような監房の一つに文隆は入れられた。便桶の強烈な悪臭をかぎながら、酸っぱい黒パンと水のような囚人スープを与えられる。しばしば夕食後に呼び出しを受け、時には翌朝未明までぶっ通しで尋問を受けた。やがて歯は抜け始め、視力も落ちてきた。まだ30代だというのに、老人のようになってきた。
●「ソ連侵略の策謀」容疑
取り調べが長く続き、3年目の1948年4月19日、文隆は獄中で起訴された。スパイにならない以上、今後の対日カードとして罪人に仕立て上げて人質にしておこうとしたのであろう。起訴理由は、資本主義幇助に関わる犯罪行為の疑いであった。 その内容は、父・文麿の秘書官在任中にその意を体して、中国や満洲国の現地部隊を訪問し、ソ連侵略の策謀をなした事、また昭和20年2月14日、文麿が昭和天皇に上奏したいわゆる「近衛上奏文」に荷担して、国際共産主義に対する妨害をなしたという理由であった。 近衛が首相在任中に日ソ中立条約を成立させた事実だけを見ても、「ソ連侵略の策謀」とは荒唐無稽な理由であった。その中立条約を破棄して対日宣戦布告をしたのはソ連の方である。また「近衛上奏文」とは、日本を中国や英米との戦いに引きずり込んだのは国際共産主義の策謀であったと自省した内容で、現実にソ連のスパイ・ゾルゲと彼に操られた元朝日新聞記者・尾崎秀實が逮捕・処刑されている。しかし文隆は上奏文の存在すら初耳であった。
●ロシア語の嘆願書
起訴されてから、文隆はロシア語を身につけようと決心した。英語の通訳を介さずに、直接ロシア語でやりとりできれば、裁判でも言いたいことが言えるようになる。ダメで元々と、看守にロシア語を学びたいので辞書と紙、鉛筆を支給してくれないか、と頼んだところ、意外にもすぐに露英辞典を与えられた。 またロシア語の書物も、要求すれば無条件に差し入れられた。ソ連の文献を読めば共産主義の信奉者となり、スパイに転向するかもしれない、と考えたのかも知れない。 紙と鉛筆は支給されなかったので、10日に一回の入浴の際に、風呂場で掠めた石鹸屑と、マッチの燃えかすを練り合わせ、即席の墨を作った。これをマッチ棒につけて、タバコの空き箱の裏に文字を書きつける。文隆は毎日最低2時間はロシア語の学習にあてる事を自らのノルマとした。 それから2年ほど、ひたすらロシア語の学習に励んだ結果、文隆はロシア語の読み書きと日常会話には困らないようになった。10分間の入浴を終えて、看守詰め所の前を通りかかった時、ラジオの朝鮮戦争勃発のニュースを聞き取ることができた。 文隆が獄中で書いたロシア語の嘆願書が残されている。寒さをしのぐために取り上げられている毛皮の手袋を返して欲しい、とか、監房の通気窓が氷のために閉まらなくなったので、自分のスプーンで氷を割ろうとした所、折れてしまったので、代品の支給をお願いする、などと、監獄での暮らしぶりが窺われる。 後には、同じ監獄で友人となったヨシダ・タケヒコという日本人が肺病で見る見るうちにやせ衰えていったので、その世話ができるように、同じ房に入れてくれ、と嘆願している。
●「わたくしが敵なら銃殺しなさい」
7年目の1952年1月14日、突然、ソ連国家保安省の部長に呼び出され、判決が言い渡された。禁固刑25年である。文隆は起訴されたという以上、法廷に出て検事と弁護士のやりとりが、たとえ形の上だけでもあるだろうと思っていたが、それすらもなかった。「そんな裁判は聞いた事がない」と文隆は抗議したが、「コノエ、世界一民主的なわが裁判ではすべてが可能なのだ。われわれはブルジョワ法の古めかしいドグマは認めない。」 文隆には知るよしもなかったが、ソ連崩壊後に公開された資料では、このような形で有罪とされた者は385万人、うち82万人が極刑に処されたとされている。裁判の形式などに構っている暇はなかったろう。 大佐は今までの何百回もの尋問によって捜査官たちが作成した調書の抜き書きを示し、「きみの罪状は捜査で証明され、きみも認めた。だから署名せよ」と言う。文隆はロシア語で言った。 「いいですか、大佐。今短刀を持っていたなら、もう何度 も捜査官たちに言ったように、迷わず相手の腹を刺してい たことでしょう。このつまらぬ文書を見せられてこわくな ったとか、びっくりしたからではありません。破廉恥にも わたくしの名誉を侮辱したことに対する抗議です。いかさ ま師のようにわたくしを刑に服させようとしている。わた くしが敵なら銃殺しなさい。その方が分相応だ。」
●「近衛文隆を即刻帰せ」
1月20日、文隆はモスクワから、貨物列車を改造した囚人護送車に詰め込まれて、バイカル湖の西にあるイルクーツクのアレクサンドロフスク監獄に移された。帝政ロシア時代から3大中央監獄と呼ばれた国内最大の監獄の一つである。 文隆が収容された49号室は、25畳ほどの部屋に20人余りの囚人がいた。ほとんどが日本人で、関東軍将校や満洲国官吏、外務省領事などの任にあった人々だった。日本語をふんだんに話せることがうれしかった。天気が良ければ1時間ほど狭い敷地内を散歩できるが、冬の間は猛吹雪が吹き荒れて閉じこめられてしまう。 そんな時は文隆の独壇場だった。プリンストン大学の学生合唱団で鍛えた喉で、日本の歌を歌うと、房内はしんと静まりかえり、涙を流す者もいた。またアメリカでの数々の武勇伝を面白おかしく語っては大笑いさせた。まるでレコードのように同じ話を繰り返しせがまれた。 1955年6月に日ソ国交正常化交渉が始まった。この時点でもいまだ2千4百人近くもの「戦犯」がソ連国内に抑留されていた。特に文隆はその中心的存在として、東京や京都では釈放を要求する集会が開かれ、何十万人の署名入りの声明書や嘆願書が出されていた。日ソ交渉では鳩山首相が「近衛文隆を即刻帰せ」と要求した。
●近衛文隆、死す
1956年6月14日、文隆はモスクワの西北およそ2百キロのチェンルイ村のイワノヴォ収容所(ラーゲリ)に移された。外国のジャーナリストも見学できる別荘のような建物で、日本軍の将官クラスや外務省の幹部級が抑留されていた。食事もよく、ここに入れられた日本人は急速に健康を回復していった。しかし、文隆だけは不眠に苦しめられ、気分が優れず一人陰鬱な顔 をしていた。凄まじい尋問と獄中生活を凌いできた文隆には初めての事だった。 抑留者のうちに日本軍の軍医がおり、心配して文隆に言った。 ソ連では政治犯にある種の薬物を使っており、それを何度か注射されると、鬱状態が続き、自殺に追い込まれることがあるという。文隆はいつもの痔の治療の際に、透明な液体の注射を打たれている事を思い出した。 10月19日、鳩山首相が領土問題を棚上げする形で、日ソ共同宣言にこぎつけ、日本人抑留者の帰国も確定した。ラジオのニュースを聞いたイワノヴォ収容所の日本人の間でどっと歓声があがった。文隆も久しぶりにうれしそうな顔をした。 23日、不眠で一夜を明かした朝、ひどい倦怠感と頭痛に襲われた。高熱が数日続き、そのまま29日午前5時、息を引き取った。死因は動脈硬化にもとづく脳出血と急性腎炎とされた。同室で治療を受けていた太田米雄・元陸軍中将は午前4時20分頃、病室を移され、入れ替わりに専属の女医が入って、その後1時間もしないうちに悲報を聞いたという。
●「本当のサムライだ」(ブレジネフ)
1958年1月28日、モスクワ。ソ連共産党中央委幹部会が開かれていた。文隆の未亡人から出されたイワノヴォ収容所への墓参りと遺骨返還の要請にどう答えるか、フルシチョフ以下の最高首脳陣が討議していた。「遺骨を返すしかない、日本なしではやっていけない」という結論が出た後で、国際政治・諜報担当のスースロフが言った。 「プリンスの死は、われわれにとり、ここだから言えるこ とですが、ある種の救済でもあったのです。 同志諸君、ご想像下さい。こんな折りに、日本政界にも う一人のコノエが現れたらどうなりましょう。シベリア抑 留の苦難を耐え抜いた若く生気に溢れた貴公子。40代の 日本人たちは、元軍人であろうとそうでなかろうと、敗戦 に不満で占領の恥辱に我慢がならない。ただちにコノエを 新しい指導者として迎え入れるでしょう。こう言ってもま ちがいはありますまい。3,4年後には、ソ連はその収容 所群島の裏表を知り尽くした日本首相と事を構える羽目に なる」と。 フルシチョフが「賛成だ」と支持の声をあげた。ブレジネフは文隆が何度も脅されながらも、決してスパイにならなかった事を聞いて「あっぱれだ! 本当のサムライだ。」と感心した。 彼は死因を聞いて「マイラノフスキー(スターリンの殺し屋)の手口としか考えられないな」と言った。 「その手口が使われたにしろ、使われなかったにしろ、今じゃ何の意味がある?」とフルシチョフが話を締めくくり、会議を打ち切った。
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