女の世紀を旅する
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2003年03月31日(月) 《 朝鮮戦争の真実 》


《朝鮮戦争の真実》

                     2003.3.31



 北朝鮮においては,情報の捏造も,事実とはまったく異なる゛言いがかり゜も,すべて「革命行為」ということで正当化されてしまう。我々の常識ではとうてい理解できない国家であり,常に疑いをもって接した方がいい.

 戦後,日本の社会や学校では左翼思想が強かったため,社会主義国家を悪として糾弾したりすると,反動的というレッテルを貼られる傾向があり,北朝鮮の真実を見ようとしてこなかった。いまだに日本の高校の歴史教科書では朝鮮戦争を韓国の挑発で起こされたような史実を記載しているのだから呆れる。明らかに北朝鮮が計画し,侵攻したにもかかわらず,その真実を直視しようとしなかった。教育の現場で真実の歴史を教えてこなかったのである。

 実のところ,日本の学校の歴史教師の多くは,朝鮮戦争の知識も希薄なため,いまでも朝鮮戦争で140万人もの死者が出た衝撃の事実を知らないでいる。朝鮮戦争は中共が参戦し,のべ300万人の大軍を派兵したため国連軍との戦いは熾烈をきわめた。米兵の死者も約4万人にのぼっている。こうした日本人だったら知らなくてはならない現代史さえも教えてこなかったから,ほとんどの日本の青年はその惨劇を知らないままでいる。

 そもそも彼の国は建国の歴史から疑ってかからなければならない。いま独裁権力を握っている金正日の生誕地も捏造(中国と北朝鮮の国境にある白頭山で誕生したことになっているが,本当は旧ソ連極東のハバロフスク近郊で生まれた.これを立証する資料はたくさんある)だし,その父・金日成の戦前・戦中の戦歴も捏造であることが判明している。



●あの男は「にせものだ!」

 1945年10月14日、平壌市北部の牡丹峰のふもとの運動場。よく晴れて澄み切った青空の下に、7万人の群衆が集まっていた。この日開かれる朝鮮解放祝賀会に伝説の老将軍・金日成が帰ってくるという噂に、人びとはつめかけたのだった。

日本の朝鮮統治が始まると、愛国的な軍人達の一部は満州やシベリアに根拠地を移して独立の戦いを続けた。やがて1920年代から、一人の勇敢な抗日闘士の名が国内にまで聞こえてきた。金日成将軍である。「いつか金日成将軍が日本軍を打ち破って凱旋してくる」という伝説が生まれた。

伝説が生まれてからすでに20年。人びとは白髪の老将軍の姿を心に描いていた。やがてその金日成将軍が登場すると、人びとは唖然とした。老将軍とは似ても似つかぬ若者だったのだ。この集会に参加していた呉泳鎮はこう書き記している。にせものだ!

広い場内に集まった群衆のあいだにまたたくまに不信と失望と不満と怒りの感情が電流のように伝わった。短い時間ではあるがざわめきが場内をおおった。

金日成の演説が始まると、その朝鮮語はたどたどしかった。「ありゃ子どもじゃないか。なにが金日成将軍なもんか」「ロスケ(露助、ロシア人の蔑称)の手先だ」と人びとは口々に言い出した。そのまま会場から出て行く人もいた。



●ソ連軍大尉キム・ソンジュが金日成に変身した経緯

金日成役を演じたキム・ソンジュは、1912年に朝鮮北部の比較的裕福な漢方医の家に生まれ、7歳の時、父の仕事の都合で満洲に渡り、中国人の学校に通った。そのため、朝鮮語より中国語の方が堪能であった。1931年、19歳の時に中国共産党に入党、抗日遊撃隊に所属して、ゲリラの一隊を率いて戦った。1941年には日本の討伐部隊に追われて満洲からソ連領に逃げ込み、ハバロフスクでソ連軍の大尉となった。

1945年8月9日、ソ連は降伏間際の日本に宣戦布告し、そのわずか1週間後に終戦、キム・ソンジュの出番は一度もないまま、対日戦争は終わってしまった。8月26日にはソ連軍は平壌を占拠し、軍政を敷いた。その上でソ連軍司令部はキム・ソンジュを新生朝鮮の首班に選び、伝説の英雄・金日成役を演じさせたのである。

朝鮮労働党が1983年に出した「金日成主席革命活動史」では、金日成将軍は満洲に踏みとどまって、日本軍と10万回の戦闘を続け、1945年8月9日にはついに日本に対して最終攻撃命令を下し、無敵の関東軍を撃破して祖国を解放し、民衆の歓呼の中を凱旋した、と伝えている。

また息子の金正日は1942年にハバロフスクで生まれたが、それでは辻褄が合わないため、中国と朝鮮の国境にそびえる白頭山に金日成が密営を作った時に生まれたとされ、その一角を「正日峰」と命名し、わざわざ金正日が生まれたという丸太小屋まで作られた。北朝鮮はそもそものはじめから虚偽を固めて作られた国家だった。




●秘密警察国家はスターリニズムのたまもの

キム・ソンジュがニセの金日成だとは誰も公言できなかった。ソ連軍は北朝鮮を占領すると、すぐに本国と同様の秘密警察を組織し、密告を奨励した。こうした秘密警察など保安要員が2万人もいた。

ある34歳の牧師が信徒への説教の中で「解放されたというが、北朝鮮のどこがよいのか。いろいろいうけど倭政(日本統治)時代は金さえだせば寝ながら旅行ができた」と言った。この牧師は反動宣伝罪で5年の懲役となった。このように逮捕された人数は、1946年11月までの1年間に4万4千人以上に上るというデータがある。

ソ連軍は日本の残した工場設備やダムの発電機などを解体して持ち帰った。さらに20万トンの米を供出させた。これは北朝鮮での1年間の産米高の四分の1に相当する莫大な量であった。これにより飢餓が広がり、餓死者が出るほどであった。



●ソ連と中国に後押しされた武力統一の夢

1949年12月、中国の人民解放軍は蒋介石を台湾に追いやって、大陸統一を成し遂げた。金日成はこれを見て、自分も同じように朝鮮を武力統一したいと思ったのであろう。そのために必要なスターリンのお墨付きと支援を得るために、翌年3月にモスクワを訪れた。後に首相となってスターリンを批判したフルシチョフは、回顧録にこう記している。

「そこ(スターリンの別荘)では金日成とその代表団のために晩餐会が催された。われわれはその席で主として、金日成が侵攻するというすでに下された決定について話し合った。彼は絶対に成功すると確信していた。国民は自分を支持するだろう。国民はこの戦争が起こることを期待している。自分には力強い味方があるし、準備はすべて整っている。成功はまったく疑いないと彼は思っていた。」

朝鮮を統一するために、金日成が行動を起こす日が合意された。(1950年6月25日に)戦争が始まった。

金日成は毛沢東の中国共産党とも交渉を進め、兵員を装備付きで借りる約束を取りつける。中朝国境近くには中国の国籍を持つ百万人あまりの朝鮮族が住んでいるが、ここを出身地とする朝鮮系中国人部隊3万人が極秘で北朝鮮に入った。

1950年6月には北朝鮮の全7師団10万人近くが、38度線に集結した。スターリンとの決定通り、6月25日午前5時25分、砲撃が開始され、朝鮮戦争が始まった。



●南からの「全面的な侵攻」

1950年6月26日,朝8時に金日成はラジオ演説を行った。

「売国逆賊の李承晩・傀儡政府の軍隊は、6月25日38度線の全域にわたって38度線の以北地域にたいする全面的な侵攻を開始しました。勇敢な共和国警備隊は、敵の侵攻を迎えうって過酷な戦闘を展開しながら李承晩かいらい政府軍の進行を挫折させました。

朝鮮民主主義人民共和国政府は現情勢を討議し、人民軍に決定的な反攻撃戦を開始して敵の武装力を掃討せよ、と命令しました。人民軍は共和国政府の命令によって、敵を38度線以北の地域から撃退し、38度線以南の地域へ10〜15キロメートル前進しました。」


戦争は南からの「全面的な侵攻」によって始まったというプロパガンダである。北朝鮮の建国と同様、統一戦争もまた偽りに分厚くカモフラージュされて始まったのである。日本でも、その後長い間、左翼勢力がこのプロパガンダを振り回したことは冒頭でも紹介したとおりである。




●アメリカの知らぬふり

一方、アメリカの方も北朝鮮の動きを逐一掴んでいたようだ。100人以上のスパイを北朝鮮に送り込み、たとえば朝鮮系中国人部隊が北朝鮮に入り始めたという動きも、各師団の構成と司令部の位置まで克明に報告させていた。

この当時、米国は中国大陸を共産勢力に奪われ、内向きの姿勢に転じつつあった。トルーマン大統領は台湾が中共に攻撃されてもアメリカは介入しないと声明し、またアチソン国務大臣は、アメリカの防衛線を日本まで後退させて、韓国と台湾をはずすと宣言した。

こうした動きは、結果的に金日成にアメリカは介入してこないとの読み違いをさせることになった。金日成は開戦6ヶ月後に、アメリカの介入に対して準備が不足していたことを自ら認めている。

一方で、トルーマン大統領らの内向き政策に反対するマッカーサーやダレスを中心とする右派勢力にとって、金日成の侵攻はまさに飛んで火にいる夏の虫であった。北朝鮮の戦争準備を知りながらも、あえて知らぬふりをして、侵攻を開始させたようである。

北朝鮮の侵攻が始まると、トルーマン大統領は即座に米海空軍に韓国軍支援を命じ、あわせて台湾への第7艦隊派遣による中国からの攻撃阻止、フィリピンでの米軍増強、インドシナでのフランス軍への援助拡大を発表した。一転して、共産主義陣営との対決姿勢を強く打ち出したのである。金日成の冒険は、まさに「やぶへび」だった。

ソ連が欠席していた国連安全保障理事会では6月25日に北朝鮮を侵略者と非難する決議を採択し、7月7日には国連軍の韓国派遣を決定した。



●北の「人民軍」による南の民衆弾圧

侵攻開始の3日後には、北朝鮮軍はソウルを占領し、息つくまもなくさらに南進すると思いきや、3日間もソウルにとどまり、祝勝会をしたり、「反動」の粛清に熱中した。首都ソウルが陥落すれば、民衆の支持のない「李承晩・傀儡政権」はすぐに崩壊するものと考えていたのである。

さらに金日成は北の人民軍が南進すれば、「南朝鮮労働党員20万人が呼応して決起する」と考えていたが、南の民衆は逆に逃げ出した。人民軍が占領した清州では、小学校の生徒数が37%に、中学校では22%に減っている。生徒の7,8割方が家族とともに逃げ出したのである。

それも当然である。北朝鮮軍が開戦後90日間で占領した地域での被害者は、ソウルを含め、投獄されたもの30万人以上、虐殺されたもので身元が判明した分だけで16万5千人、強制連行が12万3000人、「義勇軍」の名目で徴発されて、戦線で命を失ったり、行方不明になったもの10数万人とされている。


また8月頃になると、人民軍は米韓軍を半島の東南の一角に追いつめたが、食料の補給がほとんど尽きてしまい、人民を脅して食料を取り上げたり、盗みも多発して、人民の反感を買った。人民軍から逃亡する兵も激増して、金日成は逃亡兵を見つけたら、その場で射殺せよと命令した。




●韓国の民衆に石もて追われる人民軍

9月15日、マッカーサー最高司令官の陣頭指揮のもと、約1000機の航空機、数百隻の艦船からなる国連軍は首都ソウルからわずか40キロの仁川(じんせん)に上陸、南下していた人民軍10万の退路を絶った。

ある北の人民軍の連隊長は次のような報告をしている。

金浦郡の民衆たちは、各政権機関がないために反動派の治安隊が組織され、分散したわが軍をみつけしだい無条件に銃殺しており、はなはだしきは連絡兵すら派遣するのが困難な状況にある。

また敵情をさぐるために地方人民と戦闘員をいっしょに派遣しても治安隊の警備に発見され、帰ってくることもできない。この連中は、山の高地、あるいは道路に警備を組織して、わが軍が進撃する目的で行動をはじめたら途中でただちに敵に連絡を組織し、敵は万全の戦闘準備で待機している。

南の人民は、石をもて敗走する人民軍を襲ったのである。9月28日には国連軍はソウルを解放した。浮き足だった人民軍兵士は命令を無視して勝手に退却を始め、将校たちまで略奪した私服を着て民間人に化けて逃げ出す有様だった。




●平壌解放

国連軍が10月9日、38度線を突破して北進を始めると、金日成は動転した。包囲された数万の人民軍を見捨て、首都平壌の防衛態勢も組まずに、10日には中国との国境近くに逃走した。

平壌は10月19日に陥落、米韓を主体とする国連軍は抵抗らしい抵抗を受けることなく、ほとんど無血で入場した。街では「金日成将軍のうた」にかわって伝統的民謡の「西道愁心歌」が歌われ、闇市にはアメリカ製の缶詰なども出回った。

 10月24日、南から李承晩大統領が到着すると、30万人の大群衆が歓迎に押し寄せた。北の民衆はようやく金日成から解放されたのである。しかし、その喜びも長くは続かなかった。




●毛沢東が参戦を決意した背景

スターリンは毛沢東に対して、北朝鮮が予備軍を編成したというカモフラージュのもと、中共軍5,6個師団を即座に派遣できないかと打診した。毛沢東は、中共軍の装備は貧弱であり、数個師団では米軍に対抗できないと考え、また米国と中国、ひいてはソ連も巻き込んだ全面戦争に発展する事を恐れて、参戦をためらった。スターリンは次のような手紙を毛沢東に送った。

私としては(米国との全面対決を)恐れるべきではないと考える。われわれは米国、イギリスよりも強いからだ。もし戦争が不可避ならば、今戦争になった方がよいだろう。米国の同盟者として日本軍国主義が復活し、米国
と日本にとって李承晩の朝鮮が大陸における彼らの前線基地となる数年後よりも、今がいいのである。

毛沢東は中国共産党中央委員会で軍を送ることを決定し、その理由を次のようにソ連大使に語った。

もし米国が中国の国境に進出するならば、朝鮮はわれわれにとって暗い汚点になる。また東北部は恒常的脅威にさらされ続ける。

この後、中国は3年間でのべ300万という大軍を送り込み、再び、平壌、ソウルを奪った。国連は中国を侵略者とする決議を行い、再反撃してソウルを奪回。以後、38度線で膠着状態となり、休戦となった。

この後、金日成は北朝鮮の独裁者として君臨し続けることとなる。金日成はスターリンと毛沢東によるあやつり人形であったともいえる。このあやつり人形によって北朝鮮の人民は抑圧され、戦争に駆り立てられ、現在ではその息子によって飢餓に苦しめられている。

 米軍のイラク攻撃が終れば,いよいよ朝鮮半島が次の有事となるのは必至である。今度は日本にとって対岸の火事どころではなくなる。火の粉がふりかかってくるかもしれない。はたして第二次朝鮮戦争は起こるのか。日本でも多くの人々は固唾をのんでイラク戦争の行方を見守っているが,そこに漠たる次の戦争の予感を看取している。










カルメンチャキ |MAIL

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