2005年05月23日(月) |
記憶のパズルが合う瞬間 |
結婚してから一人でいる時間ががっくり減った。フルタイムの仕事に出ていない分は増えているはずだが、私は一人で買い物も、映画も、食事も楽しめるタイプの人間であるので、現在そのほとんどが彼といっしょというのは、私にとっては「すごくいっしょにいる時間が多い」という感じなのだ。
さて、今日フィオナ・アップルのCDを聞きながらアメリカの現代作家の短編小説を訳していた。
ある瞬間そのときかかっていた曲、窓からの光の感じ、小説の中身、私のパソコンの文字などのすべてが、ピタッとパズルが合うようにかぶって、私の体がかつて記憶した感覚が全身を浸したのだった。
こういうのって時々誰にでもあると思う。すごーく懐かしくなってその頃仲良かった人に急に会いたくなったりするけど、もう何年も音信普通で会うすべもない。
別にそれでどうこうっていうことじゃないけど、古い友達や昔出会って影響を受けた人、別れてしまったけど大好きだった人、そんな人たちといっしょにいたときの感情がすごくリアルによみがえってきて、呑み込まれる。でもそれはすごく気持ちがいい温かい経験で、今は会えないその人に、ありがとう!とか楽しかったね!あの頃は大変だったね!って言いたくなる。
でもそれと同時に、自分の記憶の中にしかないこんな気持ちは結局だれとも分かち合えない。
こんなとき、誰かといっしょにいても、いなくても、人は結局とてもとても一人なんだと感じる。
風の匂いから引き出される風景、雨の気配から思い出すあの日の音、そのとき感じたやるせない気持ち、甘い記憶、そんなもののすべては私の中に積もっている。私はそれが素敵なものだったら、誰かと分かち合いたいんだけど、近い人であっても、自分の気持ちについて話して、わかってもらおうなんて、なんだか恥ずかしいし、それにうまく説明できそうにない。されに他人は私が感覚的に感じていることなんかには興味がないだろうし、かまっているひまはないだろう。
でも、何か自分の中で反芻しているだけでは物足りないのである。もっと簡単にいえば、すごく感動したときとか、私は誰かにそれを伝えたくなってしまう。自分の中で感じているだけでは何か物足りないのだ。
でもそれはきっと人はとてもとても一人だと感じるからこそ、世界と、他の人とつながりたいと思うんだとおもう。 人は鏡がなければ自分の姿を見ることができない、だから他人という鏡に自分を映すことで自分の存在を確かめようとあがくのかな。
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