徒然草日記...至都

 

 

時代は巡る。 - 2008年03月23日(日)

あの集団が分裂するらしいとの噂を聞いたのは数日前
00年春、GWも終わりの5月6日ディゲーム
監督東尾、先発潮崎で大差の負けゲーム

初めて西武Dに行って
初めて外野に行って
初めてあの場所で立って応援した

あの頃...

ライオンズの黄金時代が終わって
あの頃の選手たちが櫛の歯が抜けるようにチームを去り
新生ライオンズはいまひとつピリッとしなかった
客席にも空席が目立って
応援も迫力や一体感が失われていた

なんとかしなきゃ。って誰もが思ったかもしれないけど
実際に、外野で、行動を起こしたのは一部のネット集団だった
*ネット集団というのは、あの当時、応援団から侮蔑的に云われたことば

いまでは当たり前のこととなっているスタメン発表時の起立しての応援コール
あのとき、立っていたのは(応援団をのぞいては)私も含めたあの一角だけだった
その数、わずか7〜8人前後...
周囲が(ほぼ)全員座っている状況なので
「なんだ?こいつら?」って感じに見上げられたっけなあ(苦笑)
恥ずかしいったら恥ずかしいんだけど...

その後、初めて、その外野のネット集団で試合後慰労会をした
楽しかったなあ... ほんとうに。
ライオンズの話だけで何時間でも語り合えてしまう心地良さに酔った
それも周囲にライオンズファンがほとんど居なかったから
初めての経験だったからね。

それから今は亡き小関コールも此処から始まったし
後にその集団を称することになったファイメガの発案と作成w
外野のあの場所で
青と白のビニール紐を買ってきたのを皆で分け合い、その場で作成w
試合開始前の時間つぶしでもあったよね。

いま思えばメガホンは簡易拡声器なはずなのに
メガホンにビニールのフサフサを付けてたんだから(笑)
でも、あれを持って振り回して応援したら
実際の人数が少なくても遠目には多く見えるんじゃないか?
という効果を狙ったものだった。

応援歌を(大声で)歌ったりするひとさえ少なかったのに
集団で合唱のように歌うばかりか、
その応援に合わせて素人が振り付けして踊ったり
カブレラの出拍子に合わせて踊りながらのアレックスコール
誰が最初に始めたんだか(覚えてるけどw)玉野スクワット
チャンステーマの最初にメガホンを両手に掲げるのも
(ファイメガだと遠目には余計にたくさんにみえる)
おなじく外野を右に左に走るのも
得点後の、1、2、3、ダーーーっの雄叫びさえも
みんなあの場所から生まれた。

批判もいっぱいあったし応援団との軋轢もあった
けど...

ファンのこゝろからの声援で試合を盛り上げたい、選手の後押しをしたい
その気持ちだけで素人集団が試行錯誤して...
楽しかったよね、ホントに。

猛犬注意!の幕さえも、いまは昔のことだから
此れを最初に掲げたのはやっぱり春、02年GW5月6日の東京D(だと思う)
3塁側外野スタンド中断辺りで掲揚
肝心の犬伏からは「なにに注意するんだろう?」って思われてたみたいだけどw

此の頃から少しずつ少しずつ集団がおおきくなっていって
その分、ひととひととの歪みが(目に見えない形で)生じてきていた。
原則、一生懸命応援したいひとはウェルカム集団だったはず...

でも...

奇しくも伊原監督1年目にしてシーズンぶっちぎりの1位02年
日本シリーズは4タテされちゃったけど(苦笑)
このシーズン終了前後からいろいろなところで歪みが見えて来てて
此の楽しくてしかたがなかった場が自分にとってぜんぜん違う場になりつつあった。
そのことを認めるのが嫌で辛くて仕方がなくってジタバタしていた壱年

それが決定的になっていたことを知ったのが2002年10月5日の観戦後。
(いま、わざわざ此の日記の過去ログで日付を確認してしまった)

あの時の痛みはいまも消えない ってか時々疼く。
でも、そういうのも含めて全部が終わりなんだということを
今回の分裂の話で実感した。

伊原も東尾も伊東も去って
カブレラ地蔵も無くなって
ついでに、25年以上も継続した栄光のAクラスも途切れた。

そして、あの場所も。









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