ゆえさんのところでフリー配布されていた小説をいただいてきました。 ティアリングサーガ「祝杯」です。
紫紺の天一面、銀砂をまいたような綺羅星がまたたいている。 視線を下ろせば、やわらかな灯りをともした街並の彼方に、星空を映してあえかにきらめく大海が、おだやかな潮騒を遠くゆったりと繰り返している。 美しい夜だった。 グラナダの領主館。 戦勝を祝う宴の喧騒を背中に聞きながら、シエラは独り露台の勾欄に身をもたれかけさせ、寄せては返す潮の音に耳を澄ませていた。 「ここにいたんだ」 探したよ。 笑いを含んだ声に振り返った彼女は素っ気なく訊ねた。 「何か用?」 「ご挨拶だわね。せっかくいいものを持ってきてあげたのに」 手にした酒壜とふたつの杯を持ち上げてみせる相手に、シエラは玲瓏とした声で冷たく応える。 「あいにくと、お酒はあまり好きではないのよ」 「そう」 クリシーヌはたいして気に留めた様子もなくシエラの脇に位置を占めた。欄干に置いた杯ふたつともを果実酒で満たすと、片一方を手に取って高欄に背を預け、星空を仰ぎ見る。 皙い咽喉が無防備にさらされる様をシエラはちろりと眺め、ついでまた海の果てに視線を戻した。 クリシーヌは黙って酒を干し続ける。 シエラが彼女の存在を忘れかけた頃、ぽつり、独り言のような、細い、かすかな声が耳に届いた。 「戻ってこないね」 「そうね」 主語が抜け落ちていても、彼女が誰のことを話しているかはすぐに知れた。 黙って続きを待つが、しかしいつまで過ぎてもクリシーヌは口を開かなかった。ぼうと力の抜けた眸を、館の一角に注いでいる。 宵闇のせいだろうか。いつもは釣り上がった目尻が鋭い印象を与える造作が、このときばかりは妙に寂しげに目に映った 少時そうして彼女の横顔を眺めてのち、シエラは目線を手元に移した。縁までなみなみと注がれた酒の表面が潮風に波打つさまを見、そしてまた海へと目線を戻す。 まるでその時を待ち受けていたかのように、クリシーヌがまたつぶやいた。 「あたしさ。あんただったら良いなって、そう思ってたのよ」 「……。何が」 「本命」 無言で顔を向けると、にっと、挑戦的な笑顔を返された。 「まだ気持ちの整理はついてないのよ。まだ、あのひとを忘れることはでないでいるの。できることなら、何をしてでも逢いたいって、そう思う。けれど、予感があったのよ。次に自分が惚れるなら、たぶんあいつだなって」 くつくつ、いくぶん自嘲の混じった嗤いを酒で咽喉の奥に流し込んで、クリシーヌは酒壜を取り上げた。 「その場合、あんただったら、何とかなるのよ」 新たに満たした杯に口をつけながら、続ける。 「あ。何とかなるって云っても、あんたよりあたしが勝ってるとか、そう云うことじゃないのよ」 「そうね」 「そう冷静に返さないでよ。気が削がれるじゃない」 「あいにくと、こんな性格なのよ」 「ふん、それは失礼いたしました」 鼻梁にしわを浮かせてクリシーヌは杯を干す。皙い咽喉がこくこくと細かに波打った。 「とにかく、あんたならあたしにもなんとかなったの。だってあたしとあんたは同じ匂いの女じゃない」 シエラはそうね、とため息に似た声を潮風に乗せた。 「似ているわね」 「あいつとなにかわけありのあんたが出てきたときには、だからちょっと嬉しかったのよ。あんたが本命なら、あたしがそれにすりかわることもできるぞ。可能性はあるぞって。……でもさ」 ふう、と長いため息。 「違ったんだね」 「残念ながらね」 「違いすぎるね」 「あの娘とはね」 少時の沈黙。 シエラは海の彼方を眺め、クリシーヌは干した杯にまた酒を満たす。 「善い娘だよね」 「善い娘なのよ」 顔も目線も合わさないまま、ぽつり、ぽつりと声だけが重ねられて行く。 「血の臭いに怯えてる」 「殺すことに罪悪を覚えているのよ」 「綺麗な娘だわ」 「無垢なのよ」 「もう何度も戦場に出ているはずなのにね」 クリシーヌには、そのことが信じられない。 幾度も、何度も戦さ場の土を踏んで、そのたびに生き抜いて、だのに心が血の臭いに染まっていない、そんな人間が存在することが信じられないのだ。
「生命はなにものにも代えがたいほどに重く尊い」 ひとがこの台詞を口に乗せるたびに、クリシーヌは、腹の底から沸きあがる嗤いを押さえ込むのに一苦労する。 それは半分の真実しか云い表していない、半端な言葉だ。 それをさも大切そうに、世の真理だとして後生大事に抱きこんでいる彼らが、憐れで滑稽で可笑しくてしようがない。 無知はときとして哀しく可笑しい。 たしかに命は尊く大切だ。――が。 貴重なのは自分と、自分の周りにあるごく少数のそれだ。それ以外は羽よりも軽くて塵よりも価値無いものでしかない。 一度で良い、戦さと云う名の修羅場に身を置けば、その事実がしみじみしみる。 貴重でかえがたい自分の生命を護るためには、無数個の生命を摘み取る必要がある。そうしなければ、生き延びることなどできないのだ。そこでは自分以外の生命は無価値に等しい。戦さ場に出会う敵方は、人間ではない、価値ない物だ。そうと思い込んで割り切らなければ、戦さ場を耐えることはできない。 ひとつで良い、戦場を生き延びた傭兵は、だから普通は慣れているはずなのだ。 殺すことにも、血の臭いにも。 そこに罪悪感の混入する隙間はない。 無価値のものを潰したところで痛痒は感じないし、無価値のものが流した臭いも気にならない。 そうして、彼らの性根は血の臭いに慣れ、染まって行く。 それが、自分を含めたクリシーヌの識る傭兵だった。そのはずだった。 だのに彼女はどうだろう。 いつも、いつまでも、血の臭いに怯えている。怯え続ける。 それは、殺すことを厭うている徴だ。そうして殺しを厭うとは、自分と他者の生命の間に価値の差を見つけていない証拠である。 彼女にとっては戦さ場で相対する敵方も、たしかに自分と同じ人間なのだ。
なんと靭くて脆く、そうして哀しいまでにあやうい心なのだろう。
いつまでも相手を人間と見続けるのは、彼女の靭さであり弱さであり優しさでありそしてたくましさのあらわれだ。 今はただおののくしかできない彼女は、やがて重みを受けとめることを知るだろう。自らの手が断った生命の重みをそのままに受けとめて、押しつぶされることなく、前を見て歩いて行くすべを知るだろう。 そうしていつか、クリシーヌが抱いているとは別種の真理に到達するのだ。 彼女は自分と根本からして造りが違う。違う人間なのだ。どちらが正しくどちらが悪いわけではない。ただ、種類が違う。昼と夜ほどに、太陽と月ほどに、ものが違うのだ。比べることができないものなのだ。 そのことに気づいたとき、クリシーヌは、彼が彼女に惹かれていないことを願った。 同じ位置に立って争うには、彼女は自分とあまりに違いすぎる。彼女に惹かれる男は、けして自分を見ない。 けれど、願いながらもクリシーヌは同時にまた知っていた。 その矛盾に満ちた、形を保っていることが奇跡にすら思えるほどに脆いこころとそれが持つ可能性に気づいた人間は、それに惹かれずにはいられないことを。そうして、彼がそれに気づけないほどに鈍感ではないことを。 クリシーヌは、知っていた。
「最初から、さ。勝負すら始まってなかったのよね」 クリシーヌの嘆声に、シエラはそうね、とかすかな相づちを返す。 最初から、決まっていたのだ。彼のなかにはあの無垢でか弱くそして靭い輝きがしかと根をはってあったのだから。 静寂。 潮騒が遠く聞こえる。 宴は終局に近づいたらしい。喧騒に間が入るようになった。 クリシーヌは黙然と双眸を伏せて酒をすする。 悔しくはない。だから、自棄酒ではない。ただ、飲んでいたかった。だから飲み続けた。 杯が空になった。 酒壜を持ち上げる。 傾けた壜が一滴しか内容をこぼさなかったことに顔をしかめて不満を表すクリシーヌに、シエラは、自分の肘の脇に置かれたまま、手付かずで取ってあった杯を顎で示した。 「飲めば?」 「悪いね」 「どうせ私は飲まないから」 「そっか」 なみなみと注がれた酒がこぼれないよう、慎重に持ち上げて一口静かにすすると、クリシーヌは嘆息をひとつ、シエラにしなだれかかった。酒に上気した頬を皙い肩にこてんと乗せる。潮風をすって冷えた黄金の巻き毛が鼻先をくすぐった。 「何?」 相も変らず無感動な声色にくつくつと笑いながら答える。 「こんな綺麗な夜はさ、ひとはだが恋しくならない?」 「あいにくだけれど、私はその手の趣味を持ち合わせていないの」 「そう。実はあたしもなのよ」 残念だわね。 クリシーヌは咲い、星空にかかげた杯を一気に干した。
〈了〉
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