こないだからずっとのんびり書いてた『木苺はわたしと犬のもの』の初稿が上がりました。 第一話、第二話、エピローグ、合わせて原稿用紙400枚ちょっとになったので、ちょうど文庫本一冊くらいの分量で、ネット小説としては間違いなく長編の部類ですよね。 そのうち何らかの形でサイトでも公開するつもりです。
去年の6月頃から今まで、9ヶ月くらい、ずっと、これを書いて楽しく遊んでました。 PC立ち上げてファイルを開けばいつでも続きを書ける書きかけ作品がある生活って、幸せです。 いつでも時間が取れれば続きを書けるから、いつもその時を楽しみにしていられて、しばらく忙しくて時間が取れない時も、お話がPCの中でいつも私を待っててくれるから、それを思えば心楽しくて。 私の場合、ほとんど常にそういう(何かを書いてる途中な)状態なので、おかげで、実生活で多少辛い時でも心の一部には常に幸せを飼っていられて、人生ずいぶん得をしてる、救われている気がします。
一つの作品を書き終わっちゃった時って、ちょっと、毎日行ってた異世界への扉が、その世界での使命が終わったから閉じちゃっていけなくなった……みたいな寂しい感じもします。
ひまひまにゆっくり少しずつお話書いてる時って、大きな缶に入った一粒チョコとかを、おやつの時間のたびに少しずつ食べてるみたいです。 いつでも缶を開ければいっぱいチョコがあるって知ってて暮らしてて、ちょっと一息つく時間が取れれば「さあ、のんびりおやつにしようっと♪」と缶を開けられる幸せ。 仕事をしたり家事をしたりしてても、合間合間に、家に帰ったら、あるいは作業が終わったら食べられるチョコ缶を思い浮かべて、その甘さを心の中で反芻して、楽しく幸せな気分でいられるのです。
だから、一つの缶のチョコを食べ終わっちゃうと、一瞬、途方にくれます。 次にあけられる缶がいっぱいあってよりどりみどりならいいけど、そうでもない時もあるから。
そういう点では、『書くべき小説』は、チョコレートの大箱というより、自家製の果実酒とかフルーツビネガーとか砂糖漬けとかに近いかも。 書いてる時間は、自家製の果実酒を、毎晩少しずつ、ちびちび味わってる日々。 箱入りチョコなら、いつでもいくらでも買ってこられるけど、自家製の果実酒を一本飲み終わっちゃった時は、次を自分で仕込んでなかったら(つまり、次に書きたいものの構想が固まってなかったら)、次に飲むのがなくなる。
私の場合、瓶はいつでもいっぱい並んでて、貯蔵棚に瓶が一本も無い状態は今まで一度も経験ないけど、でも、ほとんどの瓶がまだ熟成してないかもしれなかったり、今飲みたい気分の味じゃないときもあります。 あと、すごく大きい瓶で開けるには覚悟がいるとか、十年前に漬け込んだけど熟成してない気がするのとかあって、そういうのは、発酵したりカビが生えたりしてダメになっちゃってるかもしれなかったり(笑) 一度開けては見たけど熟成が足りない気がして、もう一度、棚に戻すこともあったり。
……なんてふうに、小説を書く時間を『自家製果実酒をちびちび味わう時間』に喩えて気がついたんだけど、私にとって、趣味の創作って、『書いてる時間』がまさに『成果を味わってる美味しい時間』らしいです。 たぶん、書き上げることや公開することや評価されることではなく、書いてること自体が『収穫』なのです。
書き上げて、形になれば嬉しいし、公開して読んでもらえれば嬉しいし、それで共感してもらったり褒めてもらったりすればますます天にも昇るほど嬉しいけど、それらは、楽しいことにさらに素敵なおまけがついてきているのであって、書き上がらなくても誰も読まなくても褒められなくても、私はすでに成果の美酒を、美味しい実りを味わっているのです。
でも、一人で飲むよりみんなが一緒に飲んでくれて、できれば美味しいねって言ってくれたりするともっとうれしいから、公開します。 それでもしも誰も読んでくれなくても、褒めてくれなくても、自分は既に成果を味わっているから損はしなくて、もし誰かが読んでくれたり感想くれたりしたら、その分は、超ラッキーな丸儲けなのです。
そういうわけで、趣味の創作活動は丸儲け!!(笑) こんなうまい話はそうそうないです!(笑)
……と、こう書いて、私、自分が前にもどこかで同じようなことを書いたような気がしてきました。 たぶん、これ、私の、趣味の創作活動をする上での持論なんですね。 『ネット小説丸儲け』論!(笑)
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