たくまーず(笑) - 2005年11月20日(日) ‐まえがき‐ つづくばっかで、 やんなっちゃうんだけど 生意気なことを言いたいワケじゃなくて ジョジョの花京院みてーに ただ、共感をもってくれる人がいれば それで嬉しいだけなんだけど 反論もあれば、それはそれで嬉しいし 要は“芸術”について 真剣に考えてもらうきっかけになれば それで、一個上のレベルで話せる感じがして 僕としては、嬉しいんだよね ‐本編‐ 芸術とは何か 自分、2005年08月20日のリポートで こんなことを書いている 「芸術とは、創り手の心を 何かで他人に伝えること」 8月20日の自分と 今の自分と考えることに 間違いでは無いが、少し摩擦を感じるので 8月20日の馬鹿な自分を フォローしてやると 「芸術とは、創作者の魂を カタチにすること」 これに尽きる 創作者以外の他人が 作品を見て、触れて、感じて どう受け取ろうと それは僕の言う“芸術”から言うと あくまでも二次的な現象だ 大切なのは 創作者が、 自分のやりたいこと 人の意見や、世間体や、縛られた環境を 意識しないで 本当にやりたいコトだけ ただそれだけで 完成されたカタチがあることだ それを言い変えて僕は 魂のカタチ = 「芸術」 だと思っている 要するに “芸術に深みがある”というのは “その人間の魂に深みがある”ということになる ということは その人間の魂に深みがなければ その人間自体が面白くなければ その人間自体に魅力がなければ それはそのまま、その人間の作品に 反映されるのだ 僕は、ここで文章を書くとき 例えば面白い文章を書きたいと思ったとき “面白い書き方”を考える前に、 “テクニック”を考える前に、まず “面白い人間”になろうと考える まず“魂を操作する” それは、ここを4、5年前から 書き続けて、心で理解したことなんだけど そうすると、自然に 面白いフレーズや、言い回しが 魂から勝手に出てくる こぼれてくる ここで改行し、ここでは“僕”と言え ここでは“自分”と言え 統一感など意識しなくても 全体のエネルギーが それをカバーしてくれる 魂のテンション モチベーションの継続が何より大事なのだ だから悲しい文章を書く人の魂は 本当に悲しいのだ 嘘くさい人間は、魂がボロボロなのだ 僕は自分の魂の操作するために 必死で自分と見つめ合う結果 人の魂まで、見えてしまうようになった そして人から 「心が読まれる」と恐れられるようになった… 映画の芸術性ってのは フレームのサイズでも 色調でも フィルムでもビデオでも シナリオでも 役者でも 演出でも 監督の知名度でも なんでもない 結果的に、そこに現れるだけだ そんなの小手先のテクニックは 料理で言うなら お子様ランチの旗みてーなもんだ 芸術性ってのは、 作品トータルで見なければ、観えない 作品トータルで分らなければ、解らない TAKESHIS’に話を戻せば これほど創作者の魂を 分かりやすく出した作品は無い これは、僕が たけし映画ファンだからとか そんなイエスマンの意見じゃなくて 北野武という人間が 頭にこびりついて テクニックどうこうじゃなく 商業的どうこうじゃなく とりあえず外に出したい画だけを とりあえず次から次に出し 集めて一つのカタチにしたという そういう観点から言っている ブレずに 最後まで魂の命令に従った TAKESHIS’ 芸術性? これこそ芸術なんだよ
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