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一時期、科学信仰というか、いずれは科学で何でも解明される日が(生きているうちにではないだろうが)来るんじゃないかと思っていた。 だが、たとえすべてを「解明」したとしても、それは科学の言葉でその対象を言い換えたにすぎない。その科学的アイデアを当てはめれば辻褄が合う、というだけのこと。 そのことで対象が制御しやすくなり、技術応用に役立ったりする。だからそれで十分有益なことなのだけど、それ以上でもそれ以下でもない。 たとえば、物理法則を「発見」するというけれど、それは元々どこかに存在していたというわけではなくて、そのような法則を仮定すれば物事の説明が付く、ということなのだ。 たとえば、物質Aが脳内で分泌された際に「喜び」の感情が喚起されるということがわかっても、じゃあどうして物質Aが脳内で分泌されれば人は「喜ぶ」のか、という問いには答えていないのだ。たとえその答えが提示されたとしても、また同じ問いの繰り返しになるだろう。(少し屁理屈っぽい?) 真理の探究としての科学は、科学のルールにおけるパズルゲームのようなものだ。ときどき、新しいルールを追加するけれど。
『ダウン症候群の遺伝子がリアルであるのは、その実体が染色体やDNAであるからではないし、それが染色体やDNAと同一だからでもない。そうではなくて、ダウン症候群の人間が現に生きているからである。その人間がこの世に生まれ出たからこそ、遺伝子のシステムが当の人間に内在すると要請しても許されるのである』(小泉義之『ドゥルーズの哲学』)
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