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2002年02月12日(火) 自分らしく、俺らしく。

実家から戻ってきたので日記再開。

今月の26日から、ロンドン・パリに向けて10日間(もしかしたら11日間になるかも)旅立つことに決定。まずはロンドン、それからパリ。
マドリード(スペイン)やローマ(イタリア)にも行きたかったけれど、ホテル確保などの事情により今回はこの2都市だけ。
ホテルを現地で確保するようにすればもっと長く滞在しておけるのだけど、海外初めての俺がいきなりできるかどうかわからないし、家族に心配をかけるので、まずはホテルをあらかじめ日本から確保して現地では一人で自由行動して慣れてみることにする。もちろん、ロンドン・パリに行ってみたいというのがまずありきだけど。
すぐには無理だけど、こうやって経験を積んだり語学力をつけたりしながら、いずれ、(あらかじめホテルを確保せずとも)ひとりで自由旅行できるような力をつけたいと思う。自信を持って「心配しなくて大丈夫だ」と家族などに言えるくらいに。
俺と同じ年齢かそれより年下でもすでにその力がある人もいるだろうけど、いまの俺にはない。逆にその人が持っていなくて俺が持っているものもあるだろう。結局、人は自分以外にはなれない。自分なりにしか自分を変えてはいけない。無理に変えようとすれば、焦り、不安になり、自分が持っていたものまで失ってしまう。
俺は見失いかけていたように思う。
そして、そのことに気づかせてくれたのは、他者だ。
他者がいないと、気づかないこと、気づきにくいことがある。
他者がいないと、楽しくないこと、悲しくなることがある。
他者に甘えて生きていきたくはないけれど、
他者に少しも助けてもらわずに生きていくのも無理だ。
人間は孤独だけど、ひとりではない。
そもそも、孤独だと感じるのは他者がいるからこそだ。
ひとりぼっちなら、孤独を意識することもない。
他者の中にいるからこそ、他者に接しているからこそ、孤独だと感じる。
では他者がいなければ孤独を感じなくてもすむのか?
そんな議論は、議論それ自体が目的の場合以外は無意味だ。
実際に俺たちは他者のいる世界に生きているのだから。
その前提を疑い出すと、もはや何も生まれない。
何かを前提としてしか人は思索することができないのだから。
結局、全ての思索は何らかの(突き詰めれば根拠のない)前提の上で成り立っている。だから「真理」に達することなど存在し得ない。「真理」に触れたと思っても、それはその人がそれを「真理」だと思うことにしただけのことだ。ようは、どこで「納得」することにするかの程度の違いだと思う。
「死」こそが「真理」だと思って自殺した人たちもいる。でも死んでしまうと「ゲーム」はそこで終わりだ。思索という「ゲーム」の終わり。別に終わりにしてはいけないこともないし、それは個人の自由だけど、俺は自らの手で「ゲーム」を終わらせるつもりはない。それは俺の「前提」なのだ。「ゲーム」に参加するときに決めた「ルール」なのだ。


パリに行ったらセーヌ川にたたずんでコーヒーでも飲みながら少し思索してみようかな(笑)


sora |MAIL