日日雑記
emi



 作品を決定づけるもの

ヨーロッパでは肖像画を描くとき「手や指を何本描くか」でお値段がべらぼーに違ったそうである。
かように作画上のテクニックで最もむずかしいのは手と指。足先も同様だ。特に靴を履いたときの後ろや裏などは相当熟練の力がいる。

あたしは一般の人に比べればかなりマンガやアニメ、イラストを目にする機会が多い。自分も絵を正式に習ったということがあり、技術面での批評は結構からいほうだ(プロに対してという意味で)。
人形は顔が命というけれど、マンガにおいてもそれは言える。だからとにかく表情には最大限力を惜しまない。カッコよく描けることが作家本人のヨロコビだからである。よって顔の上達は早い。その次はその顔が乗るカラダも美しく流れるようになる。しかしこの後の最難関である指先足先に神経を費やす人は少ない。見るほうもどうやらあまり気にしてないように思えるのは、ベテランと言われるマンガ家でもここをクリアしてる例が少ないからである。

美しくツヤの入った黒髪と射抜かれるがごとき鋭い眼差しの美形キャラの、差し出した手が指がデッサン皆無のへにゃへにゃだったらどうよ?あたしはそこで一発で興ざめしてしまうんである。


この頃は乳幼児期からの物量作戦が功を奏しているのか、お子様の作画能力は異常に高い。小学生のお絵描きをみてもカタチができている。スタイル画ひとつとっても、ちゃんと「人間が立っていられてる」のだ。

しかもマンガを描くにあたっては昔からは考えられないほどのツール充実で、極端な話キャラクターだけ描けば済んでしまうくらいである。それについてとやかく言うつもりはない。むしろ余計なエネルギーを回避できて喜ばしいことであるとさえ思う。ストーリーもハードルの低さは否めないが、まあこれも良しとしよう。
ではあと何が今のマンガに必要なのか。
それはあまりに陳腐で書くのも恥ずかしいけれど、「情熱」、それだけである。

以前あるマンガ家(故人)にインタビューした際、「まず描きたいという気持ち、技術はそのあとからついてくる」と話していた。萩尾望都も「マンガABC」という作品の中でほぼ同じことを書いている。
あたしは技術という言葉を聞くたび大友克洋を思い出すのだが、彼以降の作家はそのほとんどが技術的影響を有形無形で受けている。しかし描き込みの細かさだけが売り物のような作品が氾濫する中、大友の作品が確固たる地位にあるのはひとえに彼の作品にかける情熱、それでけではないだろうか。

時代と共に表現方法は変化する。特にマンガのような消費性の高いメディアは5年前の方法論がすでに通用しない。毎日新しくなっていくようにさえ感じる。
かつて大友克洋は彼の作風を真似する作家たちについていみじくもこう語った。
「著作権の問題を言い出したら日本のマンガ家は全員手塚治虫にパブリシティを支払わなければならない」
それに対し、当の手塚は大友の論評について生前語ることはついになかったと言う。

2002年09月24日(火)
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