テニミュ立海2・いたいのさじゅさん独壇場だね
ある日の決勝終了後、立海ベンチのルーフに映った梢の影の、ひとつひとつの葉の形がやけにくっきり見えました。
西日が強いのだ、と私はなんとなくそう思いました。
それから舞台に差し込む光線が次第と赤味を帯びてきて、ああ間に合わなかったのだな、と思いました。
そして一度閉じた幕が再び上がると、夕闇だけがありました。
テニミュって何がいいの?どこが面白いの?という問いを、どっぷりとはまりこんでいる身でありながらもずっと持ち続けてきました。
そしてこの『三年の夏』に、そのひとつの答えをくれる役者と出会いました‥‥
と、
いうわけで小野くんについて熱く語ろうと思います。
本音で語ろうと思います。
小野くんは若いです。役者としてはムラッ気だと思います。
それを「テニミュならいい」という言い方は、観客としてしたくない。
むしろ「テニミュがそれを求めている」と言いたいです。
お誕生日の公演につい気合が入ってしまう健斗。
最終日が近づくにつれヒートアップしていく健斗。
ついにのめり込みすぎて試合後も表情が固まったまま戻らない健斗。
試合もそうだけど、だんだんベンチトーキンが増えていく健斗。
本当にそれでいいのか小野健斗!!
そんな健斗と蓮二のS3は、観る日によってまったく違う試合でした。
観ていて本当に、この試合がこの先どうなるか分からなかった。
テニミュはそういう舞台です。
公演期間中、何度も「今日は勝てる」と思ったし、逆に「今日あの試合をして負けたならそれでいい」と思った日もあります。
何回見たからということじゃなく、何回見ても、その瞬間できることは試合の行方を見守ることだけです。
そして小野くんの蓮二は、ただただ無心に目の前の試合に打ち込んでくれました。
あの試合には、展開の読めない、不安定ゆえの新鮮さがあってそれが魅力だった。
そういった美点が役者自身の若さや拙さから棚ぼた的に得られたものという観方はもちろんできるでしょう。
しかしそれは本質ではありません。
何にも先立って「テニスの試合」という舞台を輝かせたのは、演技者が欠くべからざる最初のもの、初心です。
柳蓮二が生まれてはじめて打つその一日のその一球です。
もとよりあんな原作ですから、いくら緻密な演出をしようと、いくら匠の技をもって脚本に落としこもうと、ザルはザルで桶にはなれないわけです。
そのザルで水を汲むからには、舞台上で役者の生々しい本気を晒すというような荒業が不可欠なのかもしれません。
それを天上人(上島演出とか。)は須らく知っているように思われ、ために私はテニミュを作品として評価せざるを得ないのですが、それはただの余談です。
いい試合だった。ドキドキした。戦ってくれてありがとう。
そう思えることがテニミュの特権的なおたのしみだと思うわけです。
2007年08月26日(日)