何度も思ったことだが、誰かが他界したことを実感するのは、その人のことを考えてこちらの放った感情を、受け止める相手がいないのだと気付くときだ。 たとえば雑貨屋で、クリスマスプレゼントにちょうど良さそうな品物を見つける。次の瞬間に、誕生日もクリスマスも、ともに過ごすことはないことに思い至る。永遠でなくとも、別離に際しても同じことが言えるだろうが、たとえ道を分かっても、遠くにいても、生きていてさえくれたなら、気持ちが届くこともあるかも知れない。死んじゃったらオシマイ。なにもかも。
家族が年賀欠礼のハガキを準備していて、今年の年賀状の束を見てみたら、青鉛筆で細かなメモが記してあるのに気付いたという。そのことを聞いたとき、かすれた青鉛筆の、父の筆跡を目の当たりにしたような気がした。 いったいいつから覚悟していたのだろう。父はたぶん、死に憑かれていたのだ。立ち向かうことが容易でないとしても、心穏やかな最期の日々を過ごすようにはできなかったろうか。もっともっと心のうちを明かしてくれたらよかったのに、もっと自分のために時間を使えば良かったのに。そんな気持ちも、どこにも届くことはない。
日が落ちて冷たい風が吹いて、感傷が加速する。
--- 右足親指のさきっちょが痛むと思ったら、アカギレが切れている。右手親指にもそれはあって、寒い季節を迎えるたびにひび割れ、出血しては憂鬱な思いを抱かせる。そんな傷口がもう1ヶ所増えてしまった。たいしたことじゃないけど、ちょっとした拍子にちくりちくりと自己主張する、小さな皮膚の裂け目は気分を重くする。
せわしない日々が続き、落ち込んでいる暇もない。ありがたいことなんだろう。28日の月曜に、ただきちさんのお父さんが脳出血で緊急入院したと聞き、肝を冷やしたが、幸いにも手術しなくてもよくて、経過も順調とのことだった。
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