起きて、身支度して、急いでごはん。こんなときでもちゃんとお腹は空くし、食べなきゃ持たない。喪服に着替えて、親族はてんでに車に乗って火葬場へ向かう。空は晴れ、うすく雲がかかって春らしい日和。こんなときでなければ、うきうきと口笛でも吹きながら散歩したいような、そんな陽気。
昨日、母は涙を見せなかった。辛くないはずはないのに取り乱さず、なすべきことを淡々と行い、弔問客に応対し、わたしまでをも気遣う。父のアドレス帳をひろげ、連絡すべきところとそうでないところを兄と相談し、電話をかける。電話口の向こうで泣き崩れるのをいたわりながら受話器を置く。母は気丈だった。
数日前から体調を崩して寝込んでいた祖母には、言うべきかどうか迷った。衝撃で病状が悪化でもしたら、と誰もが思った。父は祖母を好きであったと思うし、祖母は長男である父を可愛がっていたのだから、最期のお別れをさせなければ心残りになるだろう。迷った末にそう結論づけて、祖母は物言わぬ息子と対面することになった。わたしはその場に居合わせなかったのだが、祖母も涙を見せなかったと言う。歯のない唇を強く引き結んで、身うちに全てを飲み込んで、別れを告げたのだろう。 とても出歩けるような体調ではなかったから、叔母が付き添い、祖母は家に残ることになった。
朝10時。親族の車はみんな出発した。残るは、棺を積んだバン一台。兄が運転し、棺のそばには母とわたしが付き添う。従姉妹(彼女の両親が亡くなったあと、父が親代わりのように心をかけていた)が、出棺に間に合うように到着するはずだったのだが、来ない。電話してみると、駅からのタクシーがちょうど家の前に着くところだった。挨拶もそこそこに従姉妹をバンに乗せて、出棺となった。
うらうらと、春本番のような晴天。街を抜け、橋を渡り、川面が陽光にきらめいているのを見る。母は父に語りかけるように、どこを通りますよ、とつぶやいている。どこを見ても何を見ても、父と暮らした街の思い出がよみがえる。
読経が終わり、順にもう一度だけ父に挨拶する。許されないことだけれど、父の遺体を燃やすのがとてつもなくイヤだった。ずっとこのまま、家に一緒にいたい。そんな思いが言葉になる前に、火が入った。 棺が窯に消える寸前、最後の最後に、棺に手を添えて、母が泣いた。
--- この国では、人の死は聖職者ではなく、医師(または歯科医師)が確定することになっている。多くの人が病院で、医療機器に囲まれて最期のときを迎えるが、父は自宅で亡くなった。救急車を呼んだときには、すでに遅かったのだと言う。また、事故扱いのときは(かかりつけの医師がなく、1年以内に通院経験のない場合なども)警察と監察医が検死を行い、死亡診断書ではなく死体検案書を作成する(などということも、今回はじめて知った)。 遺体を荼毘に付すときには「火葬許可証」、お骨を墓地に納めるときには「埋葬許可証」が要る。それらは死亡診断書を添えて市区町村役場に死亡届を提出すると交付されることになっている。
故人や遺族の意志がどうあれ、勝手に埋葬など、絶対にできるものではない。人骨がそこらに散乱したらたいへんなことになるので、いちいち決められた手続きを踏むことになっているのだ。生まれるときも死ぬときもシステムと儀式の中。「遺骨を故郷の野山や海にまいてください」などというのも、そう簡単にはゆかない世の中なのだろう。
--- 待合室で1時間半。ガラス越しの陽光が暖かく、子どもたちが無邪気に駆けまわる。お茶やジュース、お酒を配ったり、どんなときにも雑用は発生する。合間を縫って話をすると、皆とめどなく涙をこぼす。ポケットティッシュが足りなくなりハンカチを動員し、それでも足らずに洗面所で顔を洗い鼻をかむ。泣きはらしたまぶた、充血した眼。 いまごろ父の肉体は骨と灰になり、煙は陽炎とともに空へとのぼっているのだ。
「焼き上がり(この表現もなにか滑稽な気配がある)の10分前になったら待合室の掃除に行きますから電話をください」と葬儀屋さんに言われていた。放送が入ったので、兄に携帯で電話してもらう。それから全員で、(文字通り)骨を拾いにゆく。
台車のうえに横たわった、ひとそろいの人骨。病み伏したわけでない急死だったから、父の骨はしっかりと形を残していた。長く入院して薬を飲んでもいなかったから、その色は真っ白だった。ボーンチャイナという、牛の骨灰を使った白く美しい焼きものがあるが、そんなふうな、白い白い骨だった。
--- (続)
疲れてきてまた書き終わらなかった。記憶が薄れないうちに書いてしまわねばいかんのだが。
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・熱い骨箱 ・盛り塩、清め塩 ・朱と金の祭壇 ・通夜18:30〜、菩提寺にて ・法名を見る ・祖母の発熱、急変、入院 ・当直医がいない? ・長い一夜
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