LORANの日記
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pariさんのメルマガでこの本を知り、読みました。
1920年に刊行された本ですが、その輝きは少しも失われていません。 いや、80年以上を経て一層輝きに満ちているといえます。
サモアの酋長・ツイアビの演説集で、130余ページの小さな本です。 第1次大戦の1915年、ツイアビはヨーロッパの先進国を旅行しました。
純粋でたぐいまれな、透徹した感性の保有者だったツイアビは、パパラギ=白人の社会の虚像と実像をはっきりと見分けていました。
サモアの先祖へ正しい神、愛に満ちた神と言って教えた先輩(白人)たちが、国を挙げて武器を持って戦っている状況を見て、心の中に神がいないことを見抜きます。
パパラギが信じている神は愛ではなく、お金であると喝破しています。 お金はパパラギを病気にし、彼らはお金にとり憑かれている。
(以下本文より) 見渡してごらん。すべては大いなる物に満ち溢れているではないか。 パパラギは行く先々で大いなる心が作ったものを壊してしまうから、自分が殺したものをもう一度自分の力で生き返らせようとするのだ。たくさんのものをつくるから、まるで自分自身が大いなる心ででもあるかのように思い込みながら。
パパラギは貧しく、その国は惨めだから、馬鹿が枯葉を集めて自分の小屋に詰め込むように、物をつかんで集め続ける。だがそのために、私たちを妬み、私たちが彼らと同じように貧しくなればいいと願っている。
物がたくさんなければ暮らしていけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって創られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。 物なしではもう生きていけない。
どのパパラギも時間の恐怖にとり憑かれている。何歳かということを知っているという計算と詮索には大変な害がある。もし、もうたくさんの月が終わっていると、その人はいう。 「じゃあ、私は間もなく死ぬに違いない。」するともうどんな喜びも消え、彼は間もなく本当に死んでしまう。
ヤシは決してだれのものでもない。ヤシは大地から私たちに向かって差し伸べたもうた神の手だ。神はたくさんの手を持っておられる。どの木も、どの花も、どの草も、海も、空も、空の雲も、すべてこれらは神の手である。
私たちの言葉に「ラウ」というのがある。「私の」という意味であり、同様に「おまえの」という意味でもある。二つはほとんど一つであり、同じ意味である。 パパラギは「私の」と「おまえの」以上に違いの大きな言葉はない。
パパラギは神の財産を、神から永遠に譲り受けたという権利を、まるで自分が手に入れているかのように見せかけている。すべてが本当に自分のものになったかのように。恥ずかしげもなく、神のものを盗んでいる。みんながそうしているし、気にも止めていないのだ。
パパラギはこう言って神を否定する。 「みんな、おれのものだ。」
新聞、映画館も彼の目には奇異なものとしか写りませんでした。 すべての人が同じ物を見て、同じ考えをすることに危機感を覚えています。 彼がテレビを見たら、その影響の大きさに驚くでしょう。
私たちが自分たちの世界だけに固まり、同じ価値観だけになることはまさに気違い沙汰と言うことでしょう。
参考図書:パパラギ・はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 立風書房 絵本・パパラギ (以下同じ)
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