LORANの日記
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2004年05月15日(土) |
インド・不可触民・佐々井秀嶺上人 |
佐々井秀嶺上人(1935年生れ)は、東京都八王子・高尾山薬王院からの派遣でタイでの2年間を過ごして1967年8月、インドへ入りました。 それ以来、12年間の参篭(外へ出ない)行のつもりが37年にもなってしまいました。 この間、日本へ帰っていないそうです。
独立インド政府の初代法務大臣を務めた、故・ババサヘブ・アンベードカル博士の遺志を継いで、不可触民の仏教への転向を進めました。
インド(人口10億2700万人・2001年調)ではヒンドゥー教徒82.7%、イスラム教徒11.2%、キリスト教徒2.6%、シーク教徒1.9%、仏教徒0.7%、ジャイナ教徒0.5%です。
信者が圧倒的に多いヒンドゥー教の教義にカースト制度という身分制度があります。 カースト制度の4階級の外に「不可触民」と言われる貧民層があり、「見ても、思っても穢れ、触れれば生涯穢れる」と牛、豚以下の扱いを受けていました。
前述のババサヘブ・アンベードカル博士は「不可触民」の出身でしたので、彼らにも「自由と平等」を与えようと憲法の制定をしたのですが、差別はなくなりませんでした。
お釈迦様は仏教の僧伽(サンガ)と呼ぶ信者集団の中に身分制度を持ち込ませず、階級制度もなかったことを博士は知りました。
博士は「不可触民」をヒンドゥー教から仏教へ転向させることで、ヒンドゥー教社会での差別から脱却を図りました。仏教社会にはカースト制度の差別はありません。
1956年10月14日、ナグプールで博士は60万人の「不可触民」を仏教へ転向させることに成功しましたが、ボンベイでの改宗式の2ヶ月前に65歳で急死しました。
博士が亡くなって10年後に佐々井秀嶺上人がその地に入り、遺志を継いだのでした。
佐々井秀嶺上人は「不可触民」と同じ部落に住み、生活を共にしています。 夏には日中は50℃になり、夜でも40℃にしかなりません。 土間にごろ寝しながらの生活を続けながら、この活動を発展させてきました。
排他的なヒンドゥー教徒の激しい抵抗に遭いながらも、「不可触民」の仏教への転向を通して人権の回復を目指すことに専念されています。
そのかいあって、仏教徒は400万人(1981年調)から、公称700万人、実際には1億5000万人以上へ増加したと言われています。
「不可触民」は仏教に転向したことにより、自分の人間性の尊厳を回復できたと言っています。
佐々井秀嶺上人は1995年までに、50のお寺と2つの小学校、1つの診療所を建設しました。
1994年9月24日には、第10回Dr.ババサヘブ・アンベードカル国際賞を受賞しました。 この賞は毎年人類の平和に寄与した人に贈られていて、ダライ・ラマ、マザー・テレサ、アラファト、ネルソン・マンデラ氏などが受賞しています。
佐々井秀嶺上人の生き方を見て、「大きなことをやり遂げる人のエネルギーはとてつもなく大きい」と思いました。上人は日本の仏教会という枠からはみ出してしまったのでしょう。
佐々井秀嶺上人の一途な正義感が、重戦車のように困難な障害を押しつぶし、道を切り開いていったのでしょう。
参考図書:「インド・不可触民の開放をめざして」白鳥早奈英著 かのう書房 「不可触民と現代インド 」 山際 素男 著 光文社新書
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