思い出の散歩道
こお



 りんご味が美味しいと母は言った。

朝6時、何度目の寝返りだっただろう。
もう数え切れないほど寝返りをした。
寝ていたというよりは横になっていたというほうが正しい。
枕元に置いている形態を見る度に、あまり進んでいない時間にうんざりとした。確かに寝ないといけないという気持ちはあるのだが、どうしてもうまく眠ることが出来ないでいたからだ。たまに少しだけ眠れたかと思うと、すぐに目を覚ましてしまう…だから、進まない時間は悪夢のようにつきまとう。
まだ出かける時間までには余裕があったが、耐え切れずに起きることにした。
家族ももう起きていた。
父はまず会社に顔を出したあとに病院に向かうことになり、私と弟、母方の祖母が先に病院に向かうことになった。
8時にはもう病院について、私達は母と面会し、8時半に手術室に移動……移動なのだが母は点滴を杖代わりに歩いて手術室に向かうことになる。家族はその後についていき手術室前で母に健闘の言葉を送る……母も「行ってきます」と手をふりながら手術室の、自動ドアの向こうに入っていった。
9時、手術開始。
私達はもう一つの手術を受ける方のご家族と一緒に4人用のカラオケルームのような狭い一室で待つように言われた。
確かに狭い一室であったが、テレビのような通路で待たされるよりは全然気持ちが楽だった。
手術は12時ごろまでを予定としていた。
そのため、私達は2組に分かれて食事にいくことにした。
まず父と弟が食事をし、11時ごろに私と祖母が食事にいった。
病院の近くにあるデニーズで軽い朝食を食べ、病院に戻る。
12時頃、ちょうど手術が終わりました。
リンパ腺検査も問題なし。
患部、98グラムを摘出して手術は事なきまま終わったそうです。
あんまり実感わかなったですね。
でも、ベッドに乗せられ、横になったまま運び出されてきた母を見て、手術が行われて終わったというのが分かりました。
それで一緒にエレベータで病室まで移動しました。
「痛い、痛い」と母は言ってました。
とりあえず身体の一部を切ったのですから痛みが伴うのは当然ですし、むしろ痛いということはその部分の神経が生きている証拠ですから、逆に喜ばしいことだと……今なら思えますが、そのときは逆でしたね、全然逆のこと考えてしまいました。
病室で母が、私がいるのかと訪ねていました。
意識ははっきりしているのですが、どうしても身体を起こすことが出来ず、酸素補助や喉の渇きを防ぐためにあまり旨く喋ることも出来ないのでとても弱弱しい病人らしい発言でした。
私は横まで行って、顔を見せると点滴の刺さっている母の手が上げられるともなんとも言えないのですが、意志を持って動きましたので手を出すと強く握られました。
とても強い力で握ってくれました。
ああ、大丈夫なんだ。
そして、母は「うまくいったの? 転移はなかった?」と何度も何度も聞いてきましたで、何度も頷いてあげました。
それから少しして私達は一度家に戻ることになりました。
家に戻るとどっと眠気が襲ってきました。
この二日間の睡眠不足が一気に来たという感じです。
それで私は3時間寝て、また病院に向かいました。
すると母はもう口元に酸素補助などの器具はつけておらず、もう普通に喋れるようになってました。
寝返りが大変で、腰が痛いと苦言をもらしていましたが。
もう冗談みたいなことも言えるようになっていたのが頼もしい限りです。
先ほど帰る際にはなかった微笑みも浮かべられるようになっていて、何も変っていないようにさえ思えます。
就寝の時間が近づき、母が歯を磨いてから寝ることになり、歯ブラシで歯を磨いていると「りんご味が美味しい」と口を濯ぎたくないと母は言ってました。
……ばかw

なんか今日初めて面会に行ったのですが(今までずっと外泊してきたりとかでいけませんでしたw)、病院の面会時間は午後3時〜午後8時までらしいのです。
……ヴァナ関係ないじゃん。
遅番だろうと、早番だろうと関係はないみたいです。どちらにしてもいけませんね。それにしても術後すぐなのに元気でよかった。
明日も休みなので、また病院で母の横にいたりいなかったりします。
退院して、少したったら房総は春に彩られているでしょう。
そうしたらまた母と祖母を連れて房総に春を見に行くのもいいかもしれません。
今日はよく眠れそうです^^

2004年02月17日(火)
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